あるいは摂理への反証 3
出産までは十月十日。エリゼリカはその間、娼館の小間使いとして過ごしているらしい。
別にエリゼリカが誰を好きだろうが、誰の子を産もうが、それはエリゼリカが決めたことだ。アノニムには関係がない。
それでもたまに依頼を受けて娼館に行けば顔を合わせて話をする。
つわりはあるが、みんな優しくしてくれるし大丈夫だと。幸せだと。早く産まれてきてほしい。名前も決めてあるのだと言って、アノニムにその名を教え、しきりに呼ばせた。
★・・・・
じきにエリゼリカは出産するだろうか。そんなことを考えていた矢先のことだった。
アルベーヌから緊急の依頼が入った。緊急だというのにアルベーヌ本人からではなく、娼館の新人の1人が伝達として夜会に駆け込んできた。
花通りの依頼はほとんどがアノニムを指名する。今回の新人もアノニムの顔を見て駆け寄ってきて縋り付き、「アノニムさん! アノニムさんですよね!?」と、くしゃくしゃの顔をした。
「アルベーヌさんからの依頼です。あなたと。治癒、治癒の奇跡が使える、ひと。ここにいるって、聞いてます! その人と一緒に、花通りに来て、急いで!!」
アノニムはアルベーヌの娼館であることを確認したのち、先に新人を娼館へ帰らせ、茶を飲んでいたパーシィの首根っこを掴んだ。
「な、なんだい!?」
アノニムからすればパーシィなんか軽いものだ。持ち上げて椅子から引きずり下ろしたあと、「行くぞ」と声をかける。パーシィは目を白黒させながらも立ち上がり、走り出したアノニムに迷わずついてきたが、
「どこへ行くのかくらいは説明が欲しいが……!?」
「花通りだ」
花通り、とパーシィは復唱した。
「きみがたまに出かけていくところか。俺はよく知らないが」
「そうだろうな」
「何があったんだ?」
「分からねえ」
だが、切羽詰まったあの新人の様子を見るに……。そして、程なくして辿り着いた花通りのアルベーヌの娼館、そこの騒ぎを見るに。何らかの緊急事態が起きていることだけが、明白だった。
慌ただしい様子の娼館に強引に入ると、ソファの上に、変わり果てた姿のエリゼリカが寝かせられていた。
死んではいなかった。かろうじて。エリゼリカは腹を庇うようにうずくまり、血だらけで、虫の息だった。
さすがのアノニムでもなぜ治癒の奇跡の持ち主が呼ばれたのかを理解した。パーシィを見る。
パーシィは「妊婦」と小声で呟いた。そしてそのおびただしい出血量と凄惨な怪我の様子を見て、難しい顔をした。それからようやくアノニムを見たので、それで目が合った。
「……なんとか頑張ってみるよ」
エリゼリカのもとへ歩み寄り膝を折るパーシィと入れ替わるようにして、アルベーヌがこちらに来た。
「暴力を受けたんだ、そのせいで産気づいてしまって、でも、エリゼリカが死……んだら、中の赤ん坊まで死んでしまう」
アルベーヌはパーシィを見た。
「あの優男の腕は確かなのかい?」
アノニムは頷いた。
「なあアノニム。勝手なお願いだけど……とてもエリゼリカには聞かせらんないけど。エリゼリカをこんなにした男に、思い知らせてやってくれないか」
「犯人は誰なんだ」
言っておいて、本当は見当がついていた。
「ワッカーソーという名の貴族さ……。エリゼリカのお腹にいる赤ん坊の父親だよ」
「……」
どこにいるか分かるか、と聞けば、屋敷の場所を教えてくれた。高級住宅街が立ち並ぶ通りだ。アノニムには縁のない場所だ。そんなことはどうでもいいが……。
アノニムはアルベーヌに頷いてみせた。アルベーヌが神妙な面持ちで、
「よろしく頼むよ」
と言った。
★・・・・
ワッカーソーを殺すのは本当に容易だった。
いや、もしかしたら、アルベーヌの言う"思い知らせる"は、別に殺せという意味ではなかったかもしれない。でも、アノニムにとっては、それは死をもって、ということになる。だから迷わなかった。
屋敷に正面から入り込み、部屋の扉を片っ端から叩き割り、見つけた若い男には名を聞いて、それでそいつがワッカーソーだと知れた。
「私は何も悪いことはしていない!」
死に際にワッカーソーはそう言った。
「あの女が妊娠してるなんて知らなかった! もし出産したら……それが婚約者にバレたら……! 貴様のような下等生物には分からんだろう、この苦悩は!」
アノニムは壁に掛けられていたサーベルを見つけて、それを眺めていた。
「貴様もこのままじゃ済まない。すぐに治安隊がきて貴様を捕縛する!! 処刑だ!!」
サーベルを取って、2、3度振り回す。イミテーションではない、本物だ。切れそうだ。
「治安隊は来ねえ」
「え……!?」
アノニムはサーベルを振りかざした。
「呼ぶやつがいねえからな」