不退転の男 1
「行ってくる」
と声をかければ、他の奴らの言うところの"親父さん"と"娘さん"が「気をつけてな」「いってらっしゃい」と応答した。アノニムはいつもそれを聞き届けてから外出する。
アノニムが挨拶をするのが意外らしく、初めて聞いたときのタンジェリンは目を丸くしていた。そのタンジェリンは、今ここにはいない。親父に頼まれて買い出しに行っているとのことだ。
「アノニム! ちょっと待ってくれ!」
星数えの夜会の玄関を開けようとしたところで、バタバタと階段を降りてくる音と聞き慣れた声がする。パーシィだ。
呼び止められた理由は分かる。アノニムは大人しく玄関で待って、パーシィが小走りで目の前まで来るのを見届けた。
「こんなに早く出かけるとは思わなかったから。呼び止めてすまない」
「さっさと行ってさっさと帰る」
「そうだな、それがいい」
と言いながら、パーシィは自身の胸の前で手を組んで目を閉じた。数秒、それだけだ。顔を上げたパーシィは「それじゃあ、いってらっしゃい」と笑ってアノニムを見送る。
"あれ"がなんなのか詳しいことは知らない。だが、パーシィはアノニムが一人で出かけるとき、タイミングが合えば必ず"あれ"をする。
パーシィ曰く、聖ミゼリカ教のおまじないらしいのだが、アノニムのような不心得者にどこまで効果があるのかは謎だ。もっとも、別に時間や金や命をとられるわけでもない。効果があってもなくても、どうでもいいことだ。
娼館の並ぶ花通り。そこいらの娼館を取りまとめているアルベーヌから「頼みがある」と呼ばれていた。
花通りでは最近、アノニムの幼馴染みが死んだ。たぶんその遺品整理でもするのだろうと思っている。といっても、幼い頃に娼館に来て以来ほとんど贅沢をしなかったあの女――エリゼリカに、そこまで大層な荷物はないことを、アノニムは知っていた。
花通りは昼間はほとんど娼婦たちが家事に勤しんでいて、晴れた今日は洗濯を干すものでいっぱいだった。
指定されていた娼館に入ればすぐアルベーヌと対面し、アルベーヌはアノニムをエリゼリカが使っていた部屋に案内した。
小さくはあったが小綺麗な部屋だ。アノニムにはものの価値は分からないが、たぶんしつらえた家具の値段はそんなに高くない。小さなものばかりだし、質素だ。それでも女たちでこの家具を運び出すのは骨だろう。
「どこに運び出せばいい」
アノニムがアルベーヌに尋ねると、アルベーヌはびっくりしたような顔をして、
「運び出す?」
「?」
こちらからもアルベーヌを見た。
「捨てるんだろ?」
アルベーヌは、一瞬怒ったような、呆れたような、よく分からない表情になり、
「あのねぇ。ここは、ベルギアの部屋にするんだよ。ベッドに柵を取り付けてやってさ。ここならみんなもすぐ様子を見に来られるだろう」
「……」
ベルギアというのは、エリゼリカが死に際に産んだ赤子の名だった。エリゼリカがあらかじめ決めていたその名を、アノニムも何度も聞かされていた。
「で、材料は買ってきたんだけど、柵を取り付けるのもちょっとした大仕事だから、あんたを呼んだのさ」
確かに材木が置いてある。だが自分向けの作業ではないと、アノニムはすぐに分かった。親父に頼まれて星数えの夜会の屋根に上り雨漏りの修繕を試みたことがあるが、ろくなことにならなかったのだ。
「俺向けじゃねえ」
アノニムは素直に言った。
「他に頼れるやつもいないのよ」
適当でいいからやっちゃって、と言う。
結局、あのとき雨漏りを直したのはタンジェリンだった。買い出しに出ているという話だったから、夜会に呼びに行っても交代することはできない。そもそもアルベーヌはよく知らないタンジェリンをここまで上げないだろう。仕方なかった。
数十分かけて、言われたとおり適当にベッドに板を打ちつけて、それでよしとした。赤子が落ちない程度にはなっているだろう。
そもそもそこまで高さはないベッドだ。落ちたって死にはしないはずだ。
「助かったわ、アノニム」
アルベーヌが言って、アノニムに金を握らせた。
「ん」
受け取ったが、たかが板をベッドに打ちつける作業の礼としては袋が重い。
「エリゼリカはずいぶんお金を貯めていたわ」
不意にアルベーヌが言った。
「……その金は赤ん坊を育てるのに使え」
「もちろんそのつもりよ。でも、エリゼリカはあなたにも何か礼をしたがると思うの」
だからその分、半分はアタシから、とアルベーヌは言った。
死人がそんなことを思うわけがない。思えるわけがない。死は終わりだ。死者はその死後に何の主張もしない。これはアルベーヌが思い描いた単なる理想で、妄想だ。
だが、金は受け取った。
エリゼリカの想いが宿っていないことなど知っている。が、きっとアルベーヌの想いはそこにあるからだ。