花通りの戦い 2
花通りに到着した。確かに娼婦たちが言っていたとおり様子がおかしい。人の気配はするが、騒ぎにもなっていなければ悪魔の侵攻した様子もない。
ひとまずアルベーヌが仕切る娼館の扉を開ける。娼婦が何人か突っ立っていた。
「何してやがる。さっさと――」
アノニムはすぐに違和感に気付き、足を止めた。娼婦たちの目は虚ろで、ぼうっとした無表情は、まるで亡霊のようである。
覚えがある。これは――!
「アノニム!」
そこで奥の部屋から赤ん坊を抱えたアルベーヌが飛び出してきた。言わずもがな、娼館にいる赤ん坊なんざベルギア以外にいるわけがない。
「てめぇ、なんで逃げてねえんだ!」
駆け寄ってきたアルベーヌに怒鳴るように言うと、アルベーヌは、
「逃げようとしたさ! けど、他の子たちがずっとこの調子なんだよ!」
と、突っ立ったままの娼婦たちを指し示した。
「これは悪魔の<魅了>とやらだ。俺が何とかするからてめぇは先にベルギアを連れて教会へ行け」
間違いない。花通りのどこかにハンプティがいる。娼婦たちを<魅了>してここに留めているらしい。目的は分からない。本人に聞くしかないだろう――そう思ったところで、その本人が現れた。
「来てくれたのは誰かなーっと! ……うげ、アノニムかぁ」
2階から跳ねるように降りてきたハンプティは、アノニムを見て苦い顔をした。
「あの坊ちゃんがどうかしたのかい?」
アルベーヌが不思議そうに首を傾げる。
「この状況下でのんびり娼館の2階にいるガキが普通なわけねえだろ」
外見に惑わされてはいけない。あの少年が何をしたのか忘れるわけがない。アルベーヌは少し青い顔になって「確かにそうだね」と頷いた。
アノニムは今朝方からの自分のことを振り返ってみた。――パーシィの<おまじない>は、受けていない。やはりどうやらあれが<魅了>を跳ね返したらしいことは、サナギから聞いていた。……まずいかもしれない。
だが、アノニムが自身の状態に違和感を覚えるような事態は、一向に起こらなかった。そういやアルベーヌもいつも通りだ。
「てめぇ、大丈夫なのか?」
アルベーヌに尋ねると、
「な、何のこと……?」
不安そうな顔が返ってくる。やはり<魅了>されている様子はない。
ハンプティはニヤニヤしている。どういうつもりなのかは知らないが、今のところ<魅了>がかかっていないなら好都合。この好都合が終わる前にケリをつける。
だがアノニムがハンプティに向かって駆け出そうとしたとき、ぼーっと突っ立っていた娼婦たちがいっせいに動き出し、アノニムの前に立ち塞がった。
娼婦たちを振り払うのは簡単だ。だが、数本骨を持っていく覚悟がいるだろう。そうなれば、<魅了>が解除されたあとに教会に連れて行くのも難しくなる。アノニムは手加減なんてものを知らずに生きてきたのだ、娼婦たちを傷付けずに目の前からどかす手段は、すぐには思いつかない。
「チッ……!」
「あんたら何してんだい! アノニムの邪魔をしちゃ駄目じゃないか!」
アルベーヌが必死に声をかけているが、
「無駄だ。<魅了>されてる。あのガキの言うことしか聞かねえ」
アノニムが言うと、アルベーヌは口を閉ざし、不安そうに腕の中のベルギアを抱き締めた。
先にアルベーヌとベルギアと逃がしてやりたいが、道中の悪魔の量を考えるとそれも現実的じゃない。アノニムにとってはそれほど脅威ではないが、赤子を抱えた女なんか悪魔にとっては容易く狩れる獲物でしかない。
いったんアルベーヌを守りながら先に教会に行くべきか? だがそうすると……。
「逃げようなんて考えないことだね」
ハンプティが笑った。
「<魅了>中はこんなこともできるんだよ!」
娼婦たちの数人が、カミソリを取り出して自身の首筋に当てる。アノニムはまた舌打ちした。
ハンプティは少なくともここを強行突破できない誰かしらを待っていた。娼婦たちを人質にとって、その誰かしらを嬲り殺すために。
唯一意識があるアルベーヌは、足枷だ。
「せっかくのお祭りだもんね。楽しませてもらうよ~!」
ハンプティはキャッキャと楽しそうに笑う。
「さあ、アノニム。動かないことだね! ここの女の人たちがどうなってもいいなら別だけど」
アルベーヌが不安そうにこちらを見る。
娼婦のうち2人がカミソリをアノニムに向けた。残りはみんなカミソリを自分自身に当てたまま、だ。
「このままアノニムの身体を切り刻んで、最後に首を掻っ切ろうね!」
ハンプティは終始、楽しそうである。言葉通りだ。意識のあるままのアノニムが成すすべなく切り刻まれ、首を掻っ切られて死ぬのを見るのをご所望なのだろう。
どうする? アノニムは考える。
もちろん、死んだら終わりだ。アノニムはここで終わるつもりはない。
ならば、娼婦を押しのけるか。それをすれば、押しのけた数人は怪我はするだろうが助かる。だが自身を人質にしている娼婦は即座に喉を掻っ切り死ぬだろう。そいつらは自分が死ぬという自覚すらなく、終わる。
アノニムが死んで終わることは、名実ともに敗北だ。アノニムが死んだあとアルベーヌもベルギアも、娼婦たちだって殺されるだろう。そう考えれば、アノニムがやることは一択だ。そのはずだ。"多少の犠牲は仕方がない"。少なくともアノニムはそう生きてきた。
それでも、アノニムの選択で目の前で何も知らずに死んでいく娼婦がいることが、アノニムの決断を鈍らせる。
"生き抜くためにはそれ相応の戦いがあり、それに勝ったから命はここにある"。だが、これは娼婦たちにとって"それ相応の戦い"だろうか? 考えるまでもない。違うに決まっていた。
――「後悔だけはごめんだ」
こんなときに思い出すのが、あの不退転の男であることに、辟易する。さっき会ったからだろうか。
――「後悔しながら生きるくらいなら、俺は俺が思う最善で死ぬことなんざ怖くねえ」
後悔。そんな感情に、アノニムは覚えがない。当然だ、後悔なんかするはずがない。アノニムは自身の戦いにおいて、常にタンジェリンの言うところの"最善"を尽くしてきたのだ。それは何においてもアノニムが生きること。戦って、生きて、それが続くことだ。
だからきっとアノニムは、この選択を誤ったら"後悔"する。
ん? ……タンジェリン?
前髪を留めていた金のリングが、アノニムの懐で肌に触れ、ひんやりとして、アノニムの頭をサッと冷やす。
アノニムの首にカミソリが迫る。死が近づく。
けれども、それより早く。アノニムの脳裏に、弧を描いて飛んできたリングが閃いている。
――なんだ、"それでいい"じゃねえか。