密やかなる羊たちの聖餐 5
ドートが食堂の前で足を止め、こちらを振り返った。
「ささ、入って入って!」
まるで自分の家に案内するような言い草だ。サナギは笑顔で「うん」と頷いたが、タンジェは黙って食堂に足を踏み入れた。
すでに粛々と食事の準備がされていて、何人もの修道士が席に着いている。食事時だというのに静かで、ドートのようなおしゃべりはやはりどちらかといえば異端なタイプらしいと分かる。
数人がこちらを見てにこやかに会釈した。タンジェは会釈を返して、少し食堂を見回す。
すると1人がこちらに気付いて歩み寄ってきた。よく見ると、最初に案内をしてくれていた白髪の修道士だ。
「よく来ましたね。さあ、食事の祈りの前に、あなた方を紹介するから前に出てください。おや、ドート、身体はもういいのですか?」
タンジェとサナギの横に立っていたドートにも声をかけた。ドートは何故かタンジェたちのほうをちらと見てから、どうもはっきりしない様子で、
「えーと、はい、いくらかマシになりました」
「そうですか、午後の使徒職は出られそうですか?」
「あ、えっと、うーん、……ちょっと厳しい、かも……?」
タンジェは不審に思った。よそから来たばかりのサナギに対してだけでなく、修道士に対しても「体調不良」で通しているのか。素直に左腕の怪我だと言えば話は早いだろうに。怪我を言えない事情が何かあるのかもしれないが、……まさか今回の麻薬調査には関係ないだろう。
「医務室に行きますか?」
「あ! だ、大丈夫です。その……あ……ちょ、ちょっと疲れてるのかも!」
「そうですか、ではゆっくり休むとよいでしょう」
白髪の修道士は微笑んでそう言った。それから、タンジェとサナギに、
「さ、こちらにどうぞ」
そう声をかけ、誘導する。食堂の正面、天使像がある場所へ案内されるまま立つと、静かな食堂に集合した修道士たちがこちらを見つめている。居心地が悪い。
「本日付で我々の兄弟となるお2人です。サナギさんとタンジェリンさんです。よろしくお願いしますね」
はい、と、修道士一同の明朗な返事が部屋に響く。
「では、席は部屋ごとに並んでおりますので、サナギさんはあそこ、タンジェリンさんはあちらに座ってくださいね」
タンジェが指定された席は、部屋ごとというなら当たり前だが、ドートの隣だった。ほかに眼鏡をかけた切れ長の目の男と、ふくよかな体型の男がいる。
「長く3人部屋だったからな」
小声で、眼鏡の男が言った。
「そろそろ誰か来る頃かと思ってたんだ。私はレンナだ、よろしく」
「僕はクーシン」
ふくよかな体型の男が少し身を乗り出した。
「よろしくね」
「ああ……」
タンジェは適当に返事をした。とりあえず、歓迎はされているようだ。余計なことを言わず、目立たないように動けば、思ったよりはスムーズにいくかもしれない。ともあれまずは腹ごしらえだ。
用意されている食事に目を落とすと、用意されている食事は魚の香草焼きだ。
ここに来る前は修道院の食事になんか期待していなかったが、なかなかどうして、美味そうである。野菜のスープとパンもついていた。
「では食前の祈りです」
タンジェとサナギが席に着いたと見て、修道士が言った。一同が一斉に祈りのポーズを取るので、タンジェは慌ててとりあえず隣のドートを真似た。それから、みんなが何かの言葉を唱え始める。
祈りだ。
タンジェの故郷ペケニヨ村があった国エスパルタは、聖ミゼリカ国家である。国教は聖ミゼリカ教で、国民のほとんども信徒なのだが、ペケニヨ村では浸透しておらず、村人の大半が信者ではなかったし、タンジェも然り。とはいえやはり聖ミゼリカ教自体に触れる機会は一応あって、村の私塾で多少のことは学んでいる。
しかしもう10年近く前に、私塾で少し習った程度のことなんて、すっかり忘れている。そうでなくてもタンジェは興味の薄いことへの覚えはかなり悪いのだ。祈りの文言なんてひとつも覚えていない。食前の祈りなんかあることも知らなかった。パーシィだってそんなことしていない。
タンジェは周囲にバレないように、なるべく下を向いて声を出さずに口だけ動かした。これは覚えないといずれ不審がられるかもしれない。面倒だ。サナギのほうは上手くやってそうだが……。祈りなんてもんがあいさつ代わりにあるなら、教えとけ、と誰にともなく脳内で文句を言う。
数秒ほどの祈りの時間がようやく終わり、タンジェは顔を上げた。度胸はあるほうだと自負しているので、こんなことで緊張はしないのだが、タンジェの一挙一動で潜入が台無しになる可能性はある。そうなれば依頼は失敗だ。黒曜一行は、そんなに大きな依頼をバンバン受けるような大手ではないが、まだ依頼の失敗は一度もない。その輝かしい功績にタンジェが泥を塗るわけにはいかないだろう。
幸い、誰かにおかしく思われることもなかったようだ。食事が始まる。食事の間、会話を楽しむ者はない。
沈黙の中で行われる食事は、タンジェにとっては別に苦痛ではなかったが、不意に、自分の食事マナーが世間一般と逸脱していないかが少しだけ気になった。タンジェは努めて丁寧な所作で静かに食事した。なんとかそちらも誰かに咎められることはなかった。
そんなことを考えていたので、せっかく美味そうだった魚の味を、ほとんど覚えていない。量も普段食ってるものより少なかった。これがこの先、調査が終わるまで続くと思うと、タンジェはげんなりした。