カーテンコール 2
あのときの気持ちは、ほとんど感動だったな、とタンジェはぽつりと言った。
エスパルタに向かう乗合馬車は、遅い時間なのもあって今はタンジェと黒曜しか乗客がいない。御者にも会話は聞こえていないだろう。
不意のタンジェの呟きに、黒曜の耳がピコリと揺れ、黒曜がこちらをチラと見た。
「初めて会ったときだよ。エスパルタから都市封鎖してるベルベルントに行くのに、薬の商隊に乗り合ったろ」
黒曜は静かに頷いた。
「あれが最初だった。初めて妖魔と冒険者の戦闘を見た。話には聞いたことがあったが……」
「……」
「それに感動したから、俺はてめぇに頭下げたんだぜ」
・・・
その襲撃で、黒曜はつつがなくすべてのゴブリンを斬り伏せたし、タンジェはまったく役には立たなかった。それでも商隊の3人と積み荷は無事だったので、体勢を整え、商隊はすぐに出発することができた。
馬車に揺られる中で一つ、決意したことがあった。タンジェは、
「おい、てめぇ……冒険者か?」
「……」
話しかけられた黒曜は相変わらずの無感情で視線をついと上げただけで、返事もしなかったが、
「俺はタンジェリン。元木こりだ。……俺に、戦いを教えやがれッ!」
ほかに言い方はなかったのかと今になっては思うが、ほとんど藁にも縋る思いだった。
思い知ったのだ。自分がゴブリン相手に手も足も出ないこと。そしてこの目の前の冒険者がいかに熟達した使い手であるかということを。
黒曜は、本来なら初対面の、こんな言葉遣いもロクに知らないようなガキの願い一つで戦闘指南を引き受けることはない。それでも不思議なことに、黒曜はしばしの沈黙のあと、ごく浅く頷き、
「いいだろう」
と、言った。
・・・
「今覚えばだが、よく引き受けたな」
タンジェが言えば、黙ってタンジェの昔話に耳を傾けていた黒曜は、
「借りがあった」
妙なことを言って返した。タンジェは、
「借りだ? 会った直後だし、んなもんねえだろ」
「……」
黒曜は視線を馬車の向かいの席、誰も座っていない虚空に向けて、
「お前が積み荷を――薬を守った」
「ああ……?」
少し考えたあと、タンジェがたった一回だけ手斧に手応えを感じた瞬間――つまり、はねられたゴブリンの腕が棍棒ごと積み荷に迫ったのを払った、あのときのことを言っているらしいと思い至った。
「守ったっつうか、単に咄嗟に払った……」
思わず言った後に、
「……いや、言わなくてよかったな今の。忘れてくれ」
せっかくタンジェを褒めてくれたのに、わざわざそれを貶めるようなことを言ってしまった。だが黒曜は、
「いい。お前の『咄嗟』は、だいたい好ましい」
「あ? ……よく分からねえこと言いやがる」
訝しげに思ったまま言えば、黒曜はごく淡白に、だが確かにほんの少し口端を上げた。タンジェは続けて、
「それに、薬を守ったことがなんでテメェへの借りになる?」
「あのときベルベルントは流行り病で都市封鎖していた。流行り病の猛威は凄まじく、死者も多数出た」
「ああ……」
「特効薬は争奪戦だった。俺はエスパルタの商隊の護衛を引き受けることで優先的に特効薬を回してもらうよう話をつけていた」
「……」
知らなかった。タンジェは腕を組んで背にもたれかかった。少しだけ首を傾けて、不思議に思ったことをそのまま口に出す。
「優先的に特効薬を回してもらう? 必要だったのか?」
「……当時、緑玉が流行り病に罹患して臥せっていた」
「あ? そうだったのか!?」
思わず背もたれから背を離し、身を乗り出して黒曜のほうを向いた。
黒曜から戦闘指南を受けることが決まり、商隊がベルベルントについてすぐ、タンジェは黒曜について星数えの夜会に行った。すぐさまそこを定宿にすべく手続きをしたのだが――確かに、緑玉の姿を見たのはその数日後だった気がする。
ベルベルントが近隣諸国から買い付けた特効薬が功を奏したのか、流行り病はほどなく収束したし、初めて会ったときの緑玉は、記憶にほぼ残っていないくらいだから、ごく平常の様子だったのだと思う。タンジェはあのとき緑玉が流行り病に侵されていたこともまた、今の今まで知らなかった。
緑玉は黒曜にとって弟みたいなものだ。流行り病で苦しむ姿を黙って見てはいられなかったのだろう。
そういうわけで、薬を守ったことが借りになったのだ。
別に黒曜のことや仲間たちのことを、何から何まで知りたいという気持ちはないのだが、今になって分かる過去の事実が、今だからこそ――たとえば当時、緑玉が流行り病に臥せっていたことを知ったとて、タンジェは関心を寄せなかっただろう――タンジェを納得させた。
ふと馬車の窓の外を見れば、闇の中に、家々や街灯から光の漏れるエスパルタが浮かび上がる。
あの日、背を向けたエスパルタが、今度はタンジェと黒曜を迎え入れようとそこにある。
2人でいるからだろうか? あれ以来、エスパルタに来るのが初めてだというわけでもないのに……。始まりの日を明瞭に思い出したタンジェは、感慨深く思った。