きっと失われぬもの 4
コロッセオから出る。
興奮冷めやらぬ観客が、やれ闘牛のここが素晴らしいだの、美しいだの、熱心に語り合っているのが聞こえる。タンジェはというと、努めて冷静なふりをしている。別に闘牛にも闘牛士にも感情移入はしていないし、するつもりもない。どちらも、あれが仕事だ。
しばらく待てば殺された闘牛の肉が出るだろうが、アノニムの姿を思い出すとなんとなく食う気が失せた。
「肉が出るの?」
まるでタンジェの脳内を読んだかのようなタイミングと内容の声がかけられた。驚いて振り向くと、緑玉が立っている。
さっきの試合で殺された闘牛が肉になることは間違いない。タンジェの脳内を読んだのではなく、周囲の観客たちが話しているのを中途半端に聞いたのだろう。だが、人間嫌いで動物好きの緑玉が闘牛士に殺された闘牛の肉を喜んで食うわけはないとタンジェにだって分かる。
どう説明したものかとタンジェが若干、面倒に思っていると、いつの間にか横にいたアノニムが、
「敗者の肉だ」
と端的に伝えた。
「……敗者?」
「見世物の闘いをして、負けたほうの肉だ」
「人肉なの?」
……人間の剣闘士同士の闘いだと思ったのだろう。緑玉にとってはそのほうがよかったのかもしれない。いや、でも人肉だと誤解させたままなのは問題だろう。エスパルタがそういう国なのだと思われてしまう。
タンジェは仕方なく率直に事実を告げた。
「いや、……闘牛っつってな。片方は牛だ」
「人間と牛が闘うってこと?」
案の定、緑玉の綺麗な顔が歪んだ。
「そうだ。負けた牛の肉が出る」
さっき知ったばかりだろうに、訳知り顔でアノニムが答えた。間違ってはいないので、タンジェはただ頷く。
「ふうん……。……これだから人間って嫌い。自然界なら勝てるはずないのに、飼い殺して挙げ句に戦闘の真似事? 何が面白いの」
「俺にキレんなよ」
「見て来たんでしょ」
「まあ……、見ては来たな」
別に嘘をつく理由もない。闘牛を見たのは事実だし、タンジェは自分の意思でコロッセオに足を踏み入れた。"せっかくなので"。
「どっちもあれが仕事だぜ」
タンジェは先ほど思ったことをそのまま緑玉に告げた。緑玉はジトリとタンジェを睨んでいる。軽蔑だろうか。まあ、ヒビが入るような友情は初めからないし、緑玉からの好感度が下がったとて、1が0になった程度の話だろう。タンジェはもともと人に好かれるタイプではなく、好かれたいわけでもない。
アノニムがタンジェの言葉に続くように言った。
「牛はそのために育てられたんだ。生き残る道はねえ。戦う舞台があるだけいいじゃねえか」
緑玉は不機嫌な表情のまま、
「闘牛をする目的で育てる人間に悪意がある」
「人間が育てたのなら、人間がどうこうする権利があるだろ」
「奴隷は主人に絶対服従って?」
もうこの会話はアノニムと緑玉のものだ。タンジェが介入する余地も、意味もない。だというのに、聞いていただけのタンジェの背中がまた、少しひやりとした。緑玉と翠玉は奴隷だった時期がある。そしてアノニムは、闘牛の"元同業"だ。つまりこれは……お互いに過去の地雷を踏み合っている。そんなことは勝手だが、タンジェを間に挟んで睨み合うのはやめてほしい。
「そうだ」
だが、アノニムはやめる気はなさそうだった。
「俺は親なんざ知らねえが、夜会にはたぶん"家族"みてぇなもんがいる」
星数えの夜会の親父さんと娘さんのことだろう。
「産みの親はどうでもいいが……家族のためなら命を懸けられる。闘牛どもだって、育てた人間に晴れ舞台を見せられるだけで上等だ」
だから俺は食う、とアノニムは言った。
独特の感性だとは思う。闘牛の生きざまにここまで実感を伴った共感を寄せられるやつはそうはいない。もともと無口なアノニムが、彼の感じていることを言葉にするのは本当にまれで、タンジェはそれにも少し驚いた。だが、タンジェはその言葉に対する返事をする立場にはない。
返事をするべきだろう緑玉は、しばらくアノニムを見つめていたが、やがてこう言った。
「そんなこと知ったことじゃない。俺は人間は嫌い」
まあそうだろう。緑玉の過去を鑑みて、彼の人間嫌いは正当だ。
「だから、俺は食べない」
「それは勝手にしろ、自由だろ」
分かってる、と言って、緑玉はその場を立ち去る。アノニムは振る舞われる肉を待つようだ。
タンジェは……どちらの立場に深入りすることもない。二人の過去に踏み込む理由もないし、権利もない。
ただ、失せた食う気は戻っては来なかった。