神降ろしの里<前編> 6
航海は順調だったのだが、8日目ともなるとトラブルなしというわけにもいかない。今日はいやに霧が出ていた。
タンジェたちは大人しく船室で過ごしている。悪天候時に甲板になんか出ていられるわけもない。ましてやタンジェたちは海に関しては素人なのだ。
とはいえ、二週間の余暇を潰せるような娯楽はほとんどない。サナギは文庫本を一冊だけ持ち込んでいたが、早々に読み終わったららしい。らけるとの会話を小耳に挟んだが、この文庫本も繰り返し読み返しているもので初見ではなく、何度読んでも面白いから今回持ってきた、ということらしかった。
当然、読書なんか趣味ではないから、タンジェは道具がなくてもできる筋トレをしている。腕立て伏せをするタンジェを面白がって、その背にサナギやららけるやらが代わる代わる乗るなどしていた。負荷が程よく、タンジェとしては悪い気はしない。
緑玉をはじめとした黒曜やアノニムといった獣人組はいつにもましてやけに無口で、船室に設けられた円い窓から外をぼんやりと眺めたり、居眠りをしたりしている。
汗だくになった身体を軽く拭いていると、廊下がにわかに騒がしくなった。アノニムが面倒そうに瞼を上げる。
「アビー姐さん!」
「分かってるよ! 冒険者どもを呼んできな!」
扉越しでも聞こえるその言葉に、一同は顔を見合わせた。
「冒険者さん!」
すぐさま船室の入口が開いて、水夫の一人が飛び込んでくる。肩で息をしたその男は、タンジェたちを見回して、真っ青な顔でこう言った。
「ゆ、ゆ、ゆ、幽霊船でさァ!!」
手早く装備を整えた黒曜一行――少し悩んだが、ダウンしてる緑玉はそっとしておくことにした――は、急いで甲板に向かった。
ミルク色の霧は濃く、手を伸ばせば指先が見えないほどだ。それでもタンジェたちは互いを見失わないようになるべく寄り合いながら船首へと近づいた。
先に霧の向こうを眺めていたアビーが振り返り、「来たね」と言った。それから、霧の向こうを指差す。
大気の動きでゆっくりと霧が回る。うねるように、ちぎれるように霧が少し晴れたその合間に、確かに、ひどく汚れた船が鎮座していた。
「幽霊船だ……」
らけるが言った。タンジェはぎょっとしてらけるを見た――いや、てめぇはなんで来てるんだよ。タンジェがらけるに船室に戻れと言い含める前に、
「いや、アンデッドの気配はしない」
まっすぐ船を見つめたパーシィが告げる。
「たぶん、単なる漂流船じゃないか?」
「こんなに幽霊船の雰囲気なのに!?」
パーシィが言うなら、アンデッドはいないだろう。パーシィの人となりについてはともかく、元天使とやらのレーダーとでも言うべきか、アンデッドの探知能力は信用していいはずだ。もっとも、ラヒズの正体はギリギリまで見抜けてはいないのだが、あれは向こうの正体を隠す能力が上回った、ということなのだろう。違和感自体は覚えていたようだし。
ともあれ、タンジェは、
「霧が出てるときに、たまたまボロい船を見つけたってだけの話だろうが」
まあそうなんだけどね、とアビーは腕組みして言った。
「野郎どもがビビっちまってね。悪いけど、少し中を見てきてくれないか。本当に漂流船なら、中に生き残りがいるかもしれないしね」
これは乗船の対価の一つだ、断る理由はない。
アビゲイル号をギリギリまで漂流船に近付けてもらい、黒曜一行は板を渡して漂流船へと乗り移る。らけるにはアビゲイル号に残るように言う。さすがのらけるも青い顔で頷いた。
漂流船は、アビゲイル号より一回り小さいくらいの船だ。タンジェはほかのみんなを船室前のデッキで待機させて、盗賊役として、先に船室の様子を探った。扉は半壊していて、鍵はかかっていない。慎重に開ける。
タンジェの目に入ってきたのは、まず、鍋だった。簡易キッチンが取り付けられた船室だ。火が焚かれている。目に入った寸胴の鍋は湯気を立てていて、何かが煮えているのが分かった。まな板には、びちびちと跳ねる魚が載せられていて、包丁まで準備があった。
「……?」
――誰か、いるのか?
困惑はしたが、室内に踏み入り、アンデッドらしい妖魔がいないことを確認する。ついでにキッチン内に人間がいないことも分かった。
「どうだ?」
黒曜の小さな声が甲板から聞こえてきた。
「誰もいねえな」
キッチンから顔を出して返事をする。
「だが、なんか変だ。火が焚かれてるし、料理をしていたみたいな形跡がある」
「もしかして隠れているのか?」
パーシィが不思議そうな顔をした。キッチンには入っていないとはいえ、かなり近くにいるパーシィが不浄の霊的な存在を感知していないのなら、まずもってゴーストの類はいないだろう。
「いや、人の気配はねえ。……気味が悪いぜ」
タンジェは感じたことをそのまま言った。
とりあえず安全とみた黒曜たちがキッチンに入り、ともに探索を進めることにする。
「煮えてるのは……」
サナギが寸胴鍋を覗き込む。
「お湯……かな? 具材らしきものは入ってないね」
湯気で見づらいが、確かに単に湯を沸かしているだけに見える。大きな寸胴鍋を使ってこんだけの湯を沸かすなら、それなりの量の料理を作ろうとしているということだ。そんなにたくさん人がいる、のだろうか?
「魚も獲れたてだな。生きているし」
びちびちと跳ねる魚をパーシィがマジマジと見つめている。
「だが、人の気配はしない……」
黒曜の言うとおりである。少なくともキッチンには誰もいない。タンジェはいったんキッチンを出てデッキに戻り、別の通路から少ない船室を見て回った。だが、やはり人らしい気配はなく、キッチン以外に生活の痕跡も見られなかった。
「誰もいねえ」
キッチンに戻り報告すると、黒曜は少し考え込んだようだった。パーシィが、
「不審な船だが、やはり幽霊船ではなさそうだ。アビーには放置して進むように言うかい?」
その言葉に、黒曜が口を開こうとしたときだった。
「あ……!!」
突然サナギが大きな声を出した。
一同はサナギが見つめているほうを反射的に見て、それからすぐに、サナギの発声の原因を理解した。
キッチンの円窓から、巨大な目が、こちらを見ていた。
認識し、理解して、一瞬。一同はキッチンから出ようとしたが、間に合わない。
丸太のような太さの、うねる白い触手が入口から伸び出てくる。それに一抱えほどもある丸い吸盤がついているのを見れば、白いものの正体は明白だ。
「クラーケンだ!!」
窓からこちらを覗いていた巨大な瞳、その持ち主は化け物のような巨大イカだ。クラーケンといえばタコであることが多いが、触手の色を見ればイカ寄りなのは明白である。
伸ばされた触手がキッチン内でびちびちと跳ね回り、タンジェたちを掻き出すような仕草をする。まるでビンの底に残ったジャムを掻くスプーンのように。あんなものを叩きつけられたら身体がひしゃげてしまう。
「……狭すぎる!」
キッチンはかなり狭い。回避に限界がある。キッチン内で暴れられると、保たない。キッチンそのものも、タンジェたちもだ。
タンジェとアノニムが同時に同じことを考え、タンジェは斧を、アノニムは棍棒を振りかぶり、触手に叩き付けた。――弾力。
「っち……!」
揺れる船上では踏ん張りが効かず、力を込めづらかったため、攻撃の勢いが足りなかったのだろう。あまりダメージにはなっていないらしい。
もう一発、と斧を振りかざしたとき、キッチンの隅にいたサナギが叫んだ。
「火! 火を当てて!」
それには黒曜が素早く対応した。キッチンで焚かれていた火から一本、素早く薪を抜き取ると、点火したままのそれを触手に押し当てた。
ジュウ、と焼ける音がして煙が立つ。イカが焼ける匂いも立つ。間髪入れずパーシィが叫んだ。
「すごくいい匂いがする!」
「言ってる場合かよ!」
触手はのたうって、ちかちかと発光した。突然、煮えていた鍋がひとりでに持ち上がり、タンジェたちに向かってぶちまけられる。狭すぎる船内ではあるが、かろうじて熱湯の直撃は避けた。それでも肌を露出した部分に飛沫がかかり痛みが広がる。
「なんだ、今のは!?」
「テレキネシス……か!?」
サナギが震える声で言った。
「この海域のクラーケンがそんな特殊能力を持っているなんて!?」
触手はキッチンから勢いよく引っ込んでいった。その隙にタンジェたちは甲板に出る。荒れ狂う波の上で、クラーケンが怒ったように触手を踊らせている。サナギが、
「信じられない……! この船はデコイだ! このクラーケン、テレキネシスを使ってあたかも誰かがいるような不審なキッチンを作り、そこに俺たちを誘き寄せたんだよ!」
「そんなのアリかよ……!?」
サナギの言葉を肯定するでも否定するでもなく、クラーケンは触手を船に絡ませた。木造の船がミシミシと音を立てる。
「ちっ……! やるしかねえか!」
タンジェは斧を構え直した。アビゲイル号に危険が及ぶ前に、こいつを倒すしかない。