不退転の男 3
ホックラー遺跡への道のりは、途中までは街道で快適だ。少し道を逸れても、それほど過酷ではない。1時間歩き詰めなのは、子供の体力にはきついと思うのだが、ハンプティは文句一つ言わなかった。両親とホックラー遺跡に行ったことがある、案内できると言っていただけはあり、道案内も的確だ。年齢や家柄がなければあるい冒険者になれるかもしれない――いや、冒険者なんてのは理由なくなるようなものでもないか。
「こっちだよ!」
パーシィが面倒をみているはずだったが、案の定、すでにパーシィは彼のおもりをほとんど放棄していた。一応ハンプティの動きを目で追ってはいるが、そんなことはタンジェにだってできる。
「手でも繋いでおけよ」
タンジェが呆れ半分でパーシィに声をかけると、
「嫌がられてしまって」
……パーシィではなく、ハンプティの側の問題だったようだ。
「もうあの年頃だと手なんか繋がないものだろうか?」
「あー……ガキはめんどくせえからな……」
そういう時期が自分にもあったかもしれないことを棚に上げ、タンジェは適当に相槌を打った。
「見て見て! ほら、あそこ!」
ホックラー遺跡の入り口が木々に沈んでいる。さすがにベルベルント郊外は騎士団の見回りもしっかりしているらしい、ここまでの道のりには妖魔の気配も賊の潜伏もなかった。
ダンジョンというわけではない、すでに公的な調査が入っている場所だ。さすがに何もないだろうとは思ったが、タンジェは盗賊役としてまず動く。遺跡の入り口を丁寧に調べて、罠の類がないかを確認した。もちろんそんなものはなかったが、昔に解除されたのであろう罠の残骸は残っている。
それから――確かに最近、何者かが侵入したような形跡はあった。ということは、この形跡の主はハンプティの両親だろう。やはり、奥にいるのか。
ともあれ入り口付近に危険はなさそうだ。タンジェは立ち上がった。
「大丈夫だ、進める。行こうぜ」
盗賊役は、こういうとき先頭を歩くものだ。
遺跡の入り口すぐに地下へ向かう石造りの階段があって、それを降りていけば少し開けた空間に繋がった。遺跡と言うだけあってやや人工的な造りで、古びた燭台が等間隔で壁にあった。燭台にはいくつか火が灯っていて明るい。もちろん、自然に火が灯るわけはないから、これも人の痕跡だ。
「やっぱりパパとママがいるんだ!」
ハンプティは喜んだ。
「血の臭いはしない」
黒曜が先頭のタンジェに囁く。獣人の黒曜は五感が鋭いので、彼がそう言うなら間違いはないだろう。
「少なくとも怪我はねぇってことか……? それじゃあなんで帰ってこねえんだ?」
「分からない」
それはそうだ。まだ危険を想定して警戒するしかない。血の臭いも、妖魔の気配もしないなら、考えられるのは……。悪魔の姿が脳裏をチラつく。
遺跡は迷うほどは広くない。多少の分かれ道もハンプティが奥への道を案内してくれた。数十分もすれば、タンジェたちは遺跡の最奥まで来てしまった。四角の石が積み上げられた壁に四方を囲まれた、比較的広い空間だ。
壁の燭台には相変わらず火が灯っていたが、誰ひとりいない。気配もない。
「おい、どうなってんだよ。誰もいねえじゃ――」
「タンジェ!!」
突然、黒曜がタンジェの名を叫んだ。
「――かわせ!!」
意味を理解するより先に身体が動いて、タンジェは大きく一歩身を引いた。タンジェの首があった場所を鋭い刃が通り過ぎる。
「……何の冗談だ?」
タンジェは口端を歪めた。タンジェの首を的確に狙ったその刃は、間違いなく青龍刀のそれだった。ベルベルント近辺で青龍刀の使い手は多くない。少なくとも今ここでそれを振り回せるのは黒曜しかいなかった。
そして実際、避けるよう指示したとうの黒曜が、青龍刀を構えてタンジェに向けている。
「やられた」
黒曜は珍しく忌々しげに顔を歪めて、
「身体が動かん。何とか避けろ、タンジェ」
「ふざけんなてめぇ! どうなってやがるんだ!?」
容赦のない一閃が再びタンジェを襲う。盗賊役というのはだいたい身軽さがウリで見切りも得意なものだが、ことタンジェに関しては当然そんなことはない。そんな訓練はしていないし取っ組み合いのほうが得意である。それでも黒曜の申告があったのでかろうじて回避はできた。タンジェの赤毛が数本ばかり切り落とされて宙を舞う。
不退転の男 2
タンジェが親父さんに渡されたお使いメモは、結構な文字数で――だが、サナギの書くそれに比べて、なんと読みやすいことか!――その分、タンジェの抱える買い物袋もかなり重い。もちろんタンジェにとって運ぶのに苦労はないが、これをそれなりの年齢の親父さんや非力な女性の娘さんに運ばせるのは無理があるだろう。買い出しを引き受けた理由はそれだけだ。
もっとも、タンジェがこのお使いを引き受けなかったとて、別に他に予定があるわけでもない。ヒマではあった。世話になっているのだ、あいている時間にお使いくらい行ってやって然るべきだろう。
改めてお使いメモを確認して、不足のものがないことを確認する。問題ないと判断し、星数えの夜会への帰路を歩く。
馬車が横切るのを待つ大通りで、くい、と服の裾を引かれた。見下ろすと、幼い少年がひとり、タンジェの服の裾を掴んでタンジェを見上げている。
知らない子供だ。もっとも、知っている子供というのはほぼいない。
「なんだよ?」
上から睨んだが、少年はまったく怯んだ様子がない。太陽光をいっぱいに浴びてキラキラ光る大きな目でしばらくこちらのことを見上げていたが、
「パパとママが……」
と、呟いた。
「あ?」
「パパとママが戻ってこないんだ」
少年にはまるで悲壮感も焦燥感もなかったが、その言葉には多少、同情した。内心で、ほんの少しだけ。とはいえ、タンジェにできることなんか別にない。わざわざ迷子の両親探しをしてやる気はなかった。そうでなくても、買い出しの途中で、大荷物を抱えているのだ。
「で?」
とタンジェは言った。
「お兄さん、冒険者さんでしょ?」
「……なんで分かった?」
「星数えの夜会は、お兄さんたちが思ってるより有名だよ」
少年は無邪気に笑っている。
「ね、依頼を受けてほしいな。ボクのパパとママを探して! お礼ならできるんだ」
依頼内容の割に、ずいぶん気楽な様子だった。
★・・・・
帰宅後、タンジェは買い出ししてきた荷物を親父さんに預けて、結局、ついてきた少年を適当なテーブル席に座らせた。それからパーティのメンバーを探す。迷子の両親を探す程度の依頼、本来ならタンジェ一人でも済むだろうが、問題は少年が告げた「パパとママがいると思う場所」だった。少年は「パパとママは学者さんで、遺跡に行ったんだよ」と言ったのだ。
遺跡……確かにベルベルントの周囲にはいくつか遺跡がある。いずれも比較的小規模で、すでに発掘・盗掘され尽くした出涸らしだと聞いているが、学者ならば行くこともあるのだろうか。問題は、放棄されたそれらの遺跡には定期的に妖魔が住み着く、と聞き及んでいたことである。そのたびに駆除されているようなのだが、少年の両親が帰らないなら、最悪の場合を考えなければいけないだろう。
少年がテーブル席で足をぷらぷらさせているのを横目に、見慣れた顔を探せば、黒曜とパーシィはすぐに捕まった。アノニムは外出から帰ってきたところに声をかけることができた。
「サナギと緑玉知らねえか」
たまたま近くにいた翠玉に尋ねると、鳥がさえずるように控えめに笑って、
「2人でお出かけしましたよ」
と。タンジェは面食らう。サナギと緑玉が? ……もしかして、本当に仲がいいのか?
まあ、それを追及する趣味はない。わざわざ外出しているのを呼び戻すこともないだろう。妖魔のいる可能性がある遺跡とはいえ、ベルベルントの郊外。フルメンバーで臨むほどの危険はないと思われる。
とりあえず4人で少年の話を聞くことにした。
「名前は?」
「ハンプティ!」
黒曜の質問に元気よく答えたハンプティは、冒険者たちの顔をじーっと見比べてから、何か質問があれば、とでもいうように首を傾げた。
「両親が遺跡から帰らないという話だったが」
「うん! 北にあるホックラー遺跡に行くって、パパとママが言ってた」
「ホックラー遺跡か」
黒曜が言いながら――今回サナギが不在のため――メモを取っている。
「いなくなったのはいつ頃だ」
「昨日のお昼くらいから。昨日の夜には帰るって言ったのに、帰ってこないんだ」
ここで、だいたいサナギかパーシィが「それは不安だろうね」くらい言うものだが、サナギはいないとして、パーシィが黙って聞いているのが何となく不自然に感じた。パーシィの顔を見やると、特に変わった表情はしていないのだが、何か考え事をしている様子だった。無視してもよかったが、
「パーシィ、何かあんのかよ」
「え?」
タンジェが声をかけると、パーシィは顔を上げた。
「俺かい?」
「何か考えてることがあるんじゃねえのか」
目を何度かぱちぱちと瞬かせたあと、パーシィはハンプティを見て、
「それじゃあ、……ハンプティ、きみ、片眼鏡の、長身の男性に会ったことはあるかな?」
その外見特徴に当てはまる心当たりは、ラヒズしかない。だが、何故、今このタイミングでそんなことを少年に聞くのだろうか。タンジェは訝しく思ったが、黙って様子を見ていることにした。ハンプティは人差し指を顎に当ててしばし考えたあと、
「うーん……あ。あの人のことかな? あるよ。パパとママの友達だって」
パーシィはそれを聞いてまた少し考える素振りをしてから、タンジェたちに小声で言った。
「この少年から、若干だが……ラヒズの気配を感じる」
「あ?」
タンジェの眉が上がる。
「あいつどこにでも出てきやがるな。しかし……どういうこった?」
「分からない」
本当に僅かなのだけれど、警戒はしたほうがいいかもしれない、とパーシィは告げた。
警戒と言ってもな、とタンジェはハンプティの様子を眺めた。大きな目を不思議そうにキョロキョロ動かしている。こいつの両親がラヒズに関わっていた、ということなんだろうか。だとすれば帰ってこない原因も、遺跡の妖魔ではなく、悪魔絡みなのだろうか?
……今考えても仕方がないことだ。
「報酬は出せるのか」
黒曜が淡々と聞く。タンジェは意外に思って黒曜のほうを見た。というのも、黒曜は何かしらケチのつく依頼は、まず、受けない。今回でいえば、パーシィが「ラヒズの気配を感じる」と言い出した時点で、問答無用で断りそうなものだが――。
「うん! お小遣いがあるから。普通どのくらい払うものなのか、よく分かんないんだけど……300Gldでどうかな?」
報酬自体は、迷子の両親探し、目的地も分かっている、ホックラー遺跡は徒歩で行ける距離、遭遇したとして妖魔は恐らくゴブリンやコボルト程度……さまざまな条件を加味し、充分すぎるくらいだ。300Gldをぽいと出せる子供なんてめったにいない。裕福な家庭の子供なのだろうと思う。
タンジェは最近、師ブルースに相談して鑑定眼も熱心に磨いていて、だからハンプティの着ている服がかなり上等らしいことも見て取れた。
「ホックラー遺跡自体は、徒歩で1時間もあれば着く」
頷いた黒曜が言う。
「早めに出たほうがいいだろう」
受けるのか。まあ、黒曜がそう言うなら、決まりだ。タンジェは頷いた。
初動はハンプティの両親の生存率に繋がるはずだ。おそらく日帰りの依頼になるだろうから、旅支度は最低限だ。一同は簡単に、だが的確に装備を整えて、さっそくホックラー遺跡に向かうことにした。
「じゃあハンプティ、依頼が終わったらここで……」
「え、ボクも行くよ!」
ハンプティはぴょんと椅子から飛び降りて、きらきらとした顔をこちらに向ける。
「連れて行くわけねえだろ、探索の邪魔だ」
「えー」
タンジェの言葉に、ハンプティは不服そうな顔をして、それから、
「でもボク、パパとママにくっついてホックラー遺跡に行ったことあるんだ! だから案内できると思うよ」
「……」
ホックラー遺跡は観光地ではないから、まず地図は流通していないだろう。盗賊ギルドに行けば出回っているかもしれないが、そこまで手間をかけたくないし金も無駄だ。タンジェが天秤にかけて悩んでいる横で、パーシィがばっさりと告げた。
「だが、足手まといだからなあ」
「……」
ハンプティはぱちぱちと目を瞬かせてパーシィを見つめ、やがて少し考えるようにしたあと、
「そっか、分かった。じゃあここで待ってるね!」
にこりと笑った。なかなか聞き分けのいいガキじゃねえかとタンジェが頷く。ところが黒曜が、
「あとから追ってこられるほうが、やりづらい」
と言った。思わず彼を見て、
「……何のことだ?」
「ハンプティは、あとから俺たちを追いかけて遺跡に来るつもりだ。見れば分かる」
その言葉に、タンジェがハンプティに視線を移せば、沈黙を保っていたハンプティは、やがてちろっと舌を出した。タンジェは眉根を寄せて額を抑える。
「……なら、初めから連れてったほうがまだマシか……」
どうせ来るなら、タンジェたちといたほうが危険は少ないだろう。仕方ない。
「よく分かったものだな?」
感心した様子のパーシィが黒曜に尋ねれば、腕を組んだ黒曜は、
「幼いころの翠玉と緑玉が、よくああいう顔をしていた。あの顔をした2人は、危険な場所についてくる」
無表情で言った。はは、とパーシィは笑った。
「翠玉と緑玉が? 意外とヤンチャだったんだな」
「ああ」
黒曜が頷き、続けて、余裕があればハンプティの面倒をみるようパーシィに言った。今回のメンバー構成で後衛なのはパーシィだけなので、彼に頼むことになるのは止むを得ないだろう。パーシィは「分かった」と快諾したが、本当に分かっているかは怪しい。パーシィに子供のおもりは荷が重いのではないだろうか。
不退転の男 1
「行ってくる」
と声をかければ、他の奴らの言うところの"親父さん"と"娘さん"が「気をつけてな」「いってらっしゃい」と応答した。アノニムはいつもそれを聞き届けてから外出する。
アノニムが挨拶をするのが意外らしく、初めて聞いたときのタンジェリンは目を丸くしていた。そのタンジェリンは、今ここにはいない。親父に頼まれて買い出しに行っているとのことだ。
「アノニム! ちょっと待ってくれ!」
星数えの夜会の玄関を開けようとしたところで、バタバタと階段を降りてくる音と聞き慣れた声がする。パーシィだ。
呼び止められた理由は分かる。アノニムは大人しく玄関で待って、パーシィが小走りで目の前まで来るのを見届けた。
「こんなに早く出かけるとは思わなかったから。呼び止めてすまない」
「さっさと行ってさっさと帰る」
「そうだな、それがいい」
と言いながら、パーシィは自身の胸の前で手を組んで目を閉じた。数秒、それだけだ。顔を上げたパーシィは「それじゃあ、いってらっしゃい」と笑ってアノニムを見送る。
"あれ"がなんなのか詳しいことは知らない。だが、パーシィはアノニムが一人で出かけるとき、タイミングが合えば必ず"あれ"をする。
パーシィ曰く、聖ミゼリカ教のおまじないらしいのだが、アノニムのような不心得者にどこまで効果があるのかは謎だ。もっとも、別に時間や金や命をとられるわけでもない。効果があってもなくても、どうでもいいことだ。
娼館の並ぶ花通り。そこいらの娼館を取りまとめているアルベーヌから「頼みがある」と呼ばれていた。
花通りでは最近、アノニムの幼馴染みが死んだ。たぶんその遺品整理でもするのだろうと思っている。といっても、幼い頃に娼館に来て以来ほとんど贅沢をしなかったあの女――エリゼリカに、そこまで大層な荷物はないことを、アノニムは知っていた。
花通りは昼間はほとんど娼婦たちが家事に勤しんでいて、晴れた今日は洗濯を干すものでいっぱいだった。
指定されていた娼館に入ればすぐアルベーヌと対面し、アルベーヌはアノニムをエリゼリカが使っていた部屋に案内した。
小さくはあったが小綺麗な部屋だ。アノニムにはものの価値は分からないが、たぶんしつらえた家具の値段はそんなに高くない。小さなものばかりだし、質素だ。それでも女たちでこの家具を運び出すのは骨だろう。
「どこに運び出せばいい」
アノニムがアルベーヌに尋ねると、アルベーヌはびっくりしたような顔をして、
「運び出す?」
「?」
こちらからもアルベーヌを見た。
「捨てるんだろ?」
アルベーヌは、一瞬怒ったような、呆れたような、よく分からない表情になり、
「あのねぇ。ここは、ベルギアの部屋にするんだよ。ベッドに柵を取り付けてやってさ。ここならみんなもすぐ様子を見に来られるだろう」
「……」
ベルギアというのは、エリゼリカが死に際に産んだ赤子の名だった。エリゼリカがあらかじめ決めていたその名を、アノニムも何度も聞かされていた。
「で、材料は買ってきたんだけど、柵を取り付けるのもちょっとした大仕事だから、あんたを呼んだのさ」
確かに材木が置いてある。だが自分向けの作業ではないと、アノニムはすぐに分かった。親父に頼まれて星数えの夜会の屋根に上り雨漏りの修繕を試みたことがあるが、ろくなことにならなかったのだ。
「俺向けじゃねえ」
アノニムは素直に言った。
「他に頼れるやつもいないのよ」
適当でいいからやっちゃって、と言う。
結局、あのとき雨漏りを直したのはタンジェリンだった。買い出しに出ているという話だったから、夜会に呼びに行っても交代することはできない。そもそもアルベーヌはよく知らないタンジェリンをここまで上げないだろう。仕方なかった。
数十分かけて、言われたとおり適当にベッドに板を打ちつけて、それでよしとした。赤子が落ちない程度にはなっているだろう。
そもそもそこまで高さはないベッドだ。落ちたって死にはしないはずだ。
「助かったわ、アノニム」
アルベーヌが言って、アノニムに金を握らせた。
「ん」
受け取ったが、たかが板をベッドに打ちつける作業の礼としては袋が重い。
「エリゼリカはずいぶんお金を貯めていたわ」
不意にアルベーヌが言った。
「……その金は赤ん坊を育てるのに使え」
「もちろんそのつもりよ。でも、エリゼリカはあなたにも何か礼をしたがると思うの」
だからその分、半分はアタシから、とアルベーヌは言った。
死人がそんなことを思うわけがない。思えるわけがない。死は終わりだ。死者はその死後に何の主張もしない。これはアルベーヌが思い描いた単なる理想で、妄想だ。
だが、金は受け取った。
エリゼリカの想いが宿っていないことなど知っている。が、きっとアルベーヌの想いはそこにあるからだ。
あるいは摂理への反証 4
かなり早い仕事だったと思う。1時間はかからなかった。
アノニムは走って花通りに戻った。娼館の前に立った時点で、赤子の泣く声が聞こえていた。出産が、終わっている。
娼館の中に駆け込む。パーシィがエリゼリカに寄り添っている。アノニムに気付くと、パーシィは黙って立ち上がり、無言でエリゼリカの横を明け渡した。
ソファの横に膝をつくと、ほんのわずかに開いているエリゼリカ目と目が合った。まだ生きていた。
「わた、し……」
エリゼリカの声はか細く、それでもう彼女が死ぬと知れた。エリゼリカの口が弧を描く。面白くもないのに、またこの女はわらっている。
「あなたの……いう、と、お、り、……よわい、おんな、だった、ね……」
そんな昔に言ったことを、まだ覚えているのか。
お互い様だった。アノニムだってあのときのビンタを未だに覚えている。
「エリゼリカ」
アノニムが呼ぶと、エリゼリカはゆっくりと目を見開いて、それから目を細めた。目の端から涙がこぼれたのが分かった。
「かわい、い、わたしの、かわいい、あかちゃん……」
心配しているのは、この期に及んで産まれた赤子のことだった。あのクソ野郎の子供だというのに。
「いっしょに、いられなくて、ご、め……ん……ね……」
それきりだった。
弱ければ死ぬ。当然の摂理だ。
みんな泣いている。アノニムとパーシィだけが泣いていなかった。赤子も泣いている。
エリゼリカが死んだことに、パーシィはいっさいの言い訳をしなかった。だが娼婦たちはパーシィは本当によくやってくれたとやつを何度も労った。パーシィは本当によくやったらしい。アノニムに分かるのはそれだけだ。
「エリゼリカが暴行を受けているとき、エリゼリカは必死でお腹を守った……だから赤子は無事だったの」
アルベーヌが言った。
「あの子は本当に、強い子だよ」
みんな泣いている。エリゼリカを偲んで。エリゼリカを想って。赤子ですら、もしかしたら。
強いなら死なないはずだった。
エリゼリカが暴行で死んだのは、弱いからだ。だから死んで、終わった。
――本当にそうだろうか?
エリゼリカより赤子のほうが弱い。でも、赤子は死ななかった。エリゼリカが守ったからだ。誰かを守るためなら命を投げ出せること、それは、アノニムは――アノニムを庇って代理で試合に出て死んだ女がいる――甘さだと、ひいては弱さだと思っている。だって弱者はこんなにも容易く死ぬ。
パーシィとアノニムは夜会への帰路を歩いている。
「パーシィ」
「ん?」
「……ありがとよ」
パーシィはこちらを振り向いた。
「め……珍しいこともあるものだな……?」
「お前の治癒の奇跡が、死にかけの人間をあそこまで生きながらえさせたんだろうが」
それは否定しないよ、とパーシィは言った。
「確かに、彼女ときみに最後に話す時間があったのは、俺のおかげだ」
「……だろうな」
「でも俺に、かろうじてあの瞬間、彼女を繋ぎとめる力があったとして……俺は、ヒトがヒトを産み落とすことの力にはなれない」
アノニムはパーシィを見やった。パーシィは空を見上げている。まだ日は高く、青空が見える。空なんか見たって何もない。雲しかない。
「……だから、なんだ」
先を促すと、パーシィはまた、ゆっくりと振り返った。
「あの状況で赤子を死なせずに産んだ力は、確かに彼女の強さだった……ってことだよ」
エリゼリカ。
アノニムの幼馴染み。
あいさつのときに、スカートの裾を持ち上げて少し膝を折る。
何も楽しくないのに、口に弧を描き目を細めて笑う。
手に入れられたはずの幸せを、
自分が享受できないと知って、
それでも守った女。
「……ふん。だが、死んだらおしまいだ」
「はは、それもそうだな」
パーシィは否定しなかった。
見世物小屋では力がすべて。
奴隷剣闘士が得物を合わせる。弱いほうが負ける。負けたら死ぬ。
強さとは力だ。戦いに負けない力。だからアノニムはワッカーソーを殺せた。
だが、死んだエリゼリカは、何に負けたというのだろう?
きっと彼女は、何にも負けていない。ワッカーソーの暴力に屈さず、大事なものを守り切った。その結果エリゼリカは死んだが、それを敗北とはアノニムは思わない。むしろ彼女は、勝っていた。
アノニムは幼い頃から知っていた。弱ければ負ける。負ければ死ぬ。それが当然の摂理だと。
だが見世物小屋の狭い世界の外で、きっとそうじゃない摂理があって、それは時に強者を殺し、弱者を生かす。
気高く強いエリゼリカの死、それはあるいは。
あるいは摂理への反証 3
出産までは十月十日。エリゼリカはその間、娼館の小間使いとして過ごしているらしい。
別にエリゼリカが誰を好きだろうが、誰の子を産もうが、それはエリゼリカが決めたことだ。アノニムには関係がない。
それでもたまに依頼を受けて娼館に行けば顔を合わせて話をする。
つわりはあるが、みんな優しくしてくれるし大丈夫だと。幸せだと。早く産まれてきてほしい。名前も決めてあるのだと言って、アノニムにその名を教え、しきりに呼ばせた。
★・・・・
じきにエリゼリカは出産するだろうか。そんなことを考えていた矢先のことだった。
アルベーヌから緊急の依頼が入った。緊急だというのにアルベーヌ本人からではなく、娼館の新人の1人が伝達として夜会に駆け込んできた。
花通りの依頼はほとんどがアノニムを指名する。今回の新人もアノニムの顔を見て駆け寄ってきて縋り付き、「アノニムさん! アノニムさんですよね!?」と、くしゃくしゃの顔をした。
「アルベーヌさんからの依頼です。あなたと。治癒、治癒の奇跡が使える、ひと。ここにいるって、聞いてます! その人と一緒に、花通りに来て、急いで!!」
アノニムはアルベーヌの娼館であることを確認したのち、先に新人を娼館へ帰らせ、茶を飲んでいたパーシィの首根っこを掴んだ。
「な、なんだい!?」
アノニムからすればパーシィなんか軽いものだ。持ち上げて椅子から引きずり下ろしたあと、「行くぞ」と声をかける。パーシィは目を白黒させながらも立ち上がり、走り出したアノニムに迷わずついてきたが、
「どこへ行くのかくらいは説明が欲しいが……!?」
「花通りだ」
花通り、とパーシィは復唱した。
「きみがたまに出かけていくところか。俺はよく知らないが」
「そうだろうな」
「何があったんだ?」
「分からねえ」
だが、切羽詰まったあの新人の様子を見るに……。そして、程なくして辿り着いた花通りのアルベーヌの娼館、そこの騒ぎを見るに。何らかの緊急事態が起きていることだけが、明白だった。
慌ただしい様子の娼館に強引に入ると、ソファの上に、変わり果てた姿のエリゼリカが寝かせられていた。
死んではいなかった。かろうじて。エリゼリカは腹を庇うようにうずくまり、血だらけで、虫の息だった。
さすがのアノニムでもなぜ治癒の奇跡の持ち主が呼ばれたのかを理解した。パーシィを見る。
パーシィは「妊婦」と小声で呟いた。そしてそのおびただしい出血量と凄惨な怪我の様子を見て、難しい顔をした。それからようやくアノニムを見たので、それで目が合った。
「……なんとか頑張ってみるよ」
エリゼリカのもとへ歩み寄り膝を折るパーシィと入れ替わるようにして、アルベーヌがこちらに来た。
「暴力を受けたんだ、そのせいで産気づいてしまって、でも、エリゼリカが死……んだら、中の赤ん坊まで死んでしまう」
アルベーヌはパーシィを見た。
「あの優男の腕は確かなのかい?」
アノニムは頷いた。
「なあアノニム。勝手なお願いだけど……とてもエリゼリカには聞かせらんないけど。エリゼリカをこんなにした男に、思い知らせてやってくれないか」
「犯人は誰なんだ」
言っておいて、本当は見当がついていた。
「ワッカーソーという名の貴族さ……。エリゼリカのお腹にいる赤ん坊の父親だよ」
「……」
どこにいるか分かるか、と聞けば、屋敷の場所を教えてくれた。高級住宅街が立ち並ぶ通りだ。アノニムには縁のない場所だ。そんなことはどうでもいいが……。
アノニムはアルベーヌに頷いてみせた。アルベーヌが神妙な面持ちで、
「よろしく頼むよ」
と言った。
★・・・・
ワッカーソーを殺すのは本当に容易だった。
いや、もしかしたら、アルベーヌの言う"思い知らせる"は、別に殺せという意味ではなかったかもしれない。でも、アノニムにとっては、それは死をもって、ということになる。だから迷わなかった。
屋敷に正面から入り込み、部屋の扉を片っ端から叩き割り、見つけた若い男には名を聞いて、それでそいつがワッカーソーだと知れた。
「私は何も悪いことはしていない!」
死に際にワッカーソーはそう言った。
「あの女が妊娠してるなんて知らなかった! もし出産したら……それが婚約者にバレたら……! 貴様のような下等生物には分からんだろう、この苦悩は!」
アノニムは壁に掛けられていたサーベルを見つけて、それを眺めていた。
「貴様もこのままじゃ済まない。すぐに治安隊がきて貴様を捕縛する!! 処刑だ!!」
サーベルを取って、2、3度振り回す。イミテーションではない、本物だ。切れそうだ。
「治安隊は来ねえ」
「え……!?」
アノニムはサーベルを振りかざした。
「呼ぶやつがいねえからな」
プロフィール
一次創作小説、
「おやすみヴェルヴェルント」
の投稿用ブログです。
中世洋風のファンタジー。
登場人物は男キャラ多数。
冒険者一行の連作短編です。
このブログに掲載している小説はフィクションです。
実在する人物・組織・事件等とは一切関係ありません。
また、著作権はやまかしにあります。
このブログにある画像、文章の無断転載・AI学習はしないでください。