きっと失われぬもの 5
タンジェはコロッセオ前から立ち去った。次の目的地は、特に決めていない。ただ、ふらふら適当に歩いていたら、ばったり、さっき別れたばかりの緑玉と出会って、お互いに気まずいような微妙な顔になった。
「……」
「……」
沈黙が下りる。
「食べるのかと思った」
「あ?」
「闘牛? の肉……」
「ああ……」
なんか食う気が失せた、と、感じたことをそのまま言うと、「そう」とまったく興味のなさそうなトーンで短い返答があった。と思ったら、
「あのさ。……別に、復讐するしないはあんたの勝手だけど。早く決めて。俺、本当に今日、ベルベルントに戻りたかった」
正面から文句を言われた。タンジェとしては耳が痛い話だ。それでほとんど反射的に、
「てめぇは人間に復讐しねえのか」
緑玉が一瞬、言葉に詰まり、
「なに? なんで?」
少しだけ動揺したように言った。
それはそうだ。タンジェが緑玉の過去を、黒曜の夢を通してわずかに垣間見たことを、緑玉が知る由はない。タンジェは、
「ベルベルント中が眠りについたとき、たまたま黒曜の夢の中に入って、だいたい見た。黒曜の過去の夢だった」
言ってしまったからには隠し立ては無駄だ。もともと嘘だの誤魔化しだの隠しごとだのに向いている性格でもない。
緑玉は「ふーん」と言って、またジトリとタンジェを睨んだ。これも軽蔑だろう。緑玉にとって黒曜は同郷の、それも慕う相手だ。義兄の親友という立場……になるのか。その過去の夢に部外者が勝手に入り込んで一部始終見てきたなんて話は、面白くはないだろう。
だが、"たまたま"の部分で情状酌量はしてくれたらしい。あの悪夢の事件でタンジェが解決の一端を担ったことも、その判断を後押ししたかもしれない。
「復讐は黒曜がやった。町を襲った人間も、黒曜を奴隷にしたやつらも、俺たちを奴隷にしたやつらも、関わった人間は全員黒曜が殺した。俺がやることはもうない」
緑玉は少し、拗ねたように言った。
タンジェは少し顔を歪めた。黒曜、緑玉、翠玉は三人で逃げたはずで、だが次の瞬間にはもう、緑玉と翠玉と離れたたった一人の黒曜が、雨降る屋敷の前で人間を嬲り殺していた。緑玉と翠玉を助けたらあとは屋敷に火をつけて……。黒曜は、別々の場所で奴隷にされていたと言っていて、黒曜がどうやってそこから逃れたのかは、タンジェは知らない。
だいたい、聞くようなことではない。タンジェがその間のことを知る日はたぶん来ないだろう。
タンジェは、パーティの一同のことを何も知らない。当たり前だ。知ろうとしてこなかった。
もともと他人に深く興味や関心を寄せる性格ではないのが大きい。パーティからの異動も考えていたし、メンバーの人となりを知ることに意義を見出していなかった。
だが、タンジェは思う。もっと仲間のことを知るべきだった。いろいろな人生を知ってさえいれば、様々な道の在りようも知れるのかもしれない……。
「緑玉」
「……なに? 今日はやけに絡むね……」
「てめぇにとっては、終わったことなのか」
少し黙ってから、緑玉は吐き捨てるように言った。
「終わりって、なに? 俺が人間を許したら終わる? じゃあ永遠に終わらない」
緑玉の視線はタンジェから外れている。そっぽを向いたままの緑玉は、
「……抱えてたっていいことないけど、捨てるのはもっと無理」
「……」
「でも……別に無理に終わらせることじゃない、こんなの」
「……」
そうか、とタンジェは言った。そうだな、と。
それから緑玉とタンジェの間に少しの沈黙が流れて……タンジェは何気なく、トゥロンを緑玉に渡した。
訝しげな顔をしていたが、一口食べたあと一瞬で平らげたので、口に合ったらしい。それから緑玉はタンジェに素っ気なく礼を言って立ち去ったし、タンジェは今度はそれを追わなかった。