不退転の男 5
「……おい!?」
アノニムからの反応がないので、思わず振り向いた。これでアノニムまで<魅了>にかかったら打つ手がない。タンジェはこの遺跡から帰れないだろう。
だがアノニムの顔を見れば目が合い、明確な意思を持って沈黙していると知れた。
「……」
「何とか言いやがれ!」
アノニムはタンジェから静かに目を逸らす。動いた視線は、この遺跡の出入り口のほうを向いていた。
「……逃げる気かよ!?」
タンジェは驚愕した。アノニムはまた視線を動かし、再度タンジェの顔を見る。
「勝てねえ」
「あ……!?」
「黒曜とパーシィが本気でかかってきたら、勝てねえ。見りゃ分かるだろ」
だからって、と喉から声が出た。
「だからって置いて逃げんのか!?」
「……」
タンジェの形相が怒りに染まる。こんな腑抜けだとは思わなかった。
確かにただでさえ力押しのタンジェが、それを超える力押しのアノニムと組んだところで、技巧派の黒曜と遠距離攻撃のパーシィに勝てはしないかもしれない。
だが、それがなんだというのか!?
タンジェの剣幕は凄まじく、そこら辺の一般人なら竦み上がってもおかしくない。だがアノニムがそれにちょっとでも怯むことはない。
「負けたら終わりだ」
タンジェの睥睨から逃れようともせず、アノニムはただ淡々と事実を述べるように言った。
「死ぬぞ」
「……!」
カッとなる。負けたら終わり、死ぬ、だから逃げるだと!?
「てめぇは大事なもののためなら命を賭けられるんだろうが! ふざけてんじゃねえぞ……!! 俺たちが逃げたら黒曜とパーシィがどうなるか分かんねえんだぞ!?」
アノニムは眉根を寄せてタンジェを見た。その顔は――どんな感情なのかは、読み取れない。だが、応答したのはアノニムではなく、
「とりあえずボクの従者にしよっかなー」
のんきな声のハンプティだった。
「2人ともかっこいいしね! やっぱ侍らせるならイケメンだよね~!」
「言ってろ……! ぶっ潰してやる!」
黒曜とパーシィをふざけた悪魔の従者になんかさせてたまるか。
☆・・・・
死、という言葉を向けられて、タンジェリンの瞳に浮かぶのは恐怖や悲嘆なんかじゃなかった。遺跡を照らす燭台の明かりの下で、やつの朱色の目が確かに何らかの情熱にギラつくのを見た。それが何なのかは知れない。怒り、あるいはアノニムへの失望か?
"てめぇは大事なもののためなら命を賭けられるんだろうが!"――何言ってんだこいつ、という感情を覚えた。呆れ、いや――たぶん、人が言うところの「戸惑い」というのが一番近いと思う。
確かにアノニムは、家族のためなら命を懸けられる。だがそれは大事なもののために命を投げ出す、という意味ではない。
大事なものを守るために武器を取り、守り抜く。最後まで守り抜くのなら、自分も生き延びるのは大前提だ。それで初めて、命を懸けたと胸を張れるのだ。それが"大事なもののために命を懸ける"ということだ。
――なんでタンジェリンはそれを、"大事なもののために命を賭す"なんて勘違いをしてやがるんだ?
死は終わりだ。死んだら何もかもおしまいだ。
ふざけてんじゃねえぞ、とタンジェリンは言った。アノニムからすれば、ふざけているのはタンジェリンのほうだ。
戦うどころの話ではない。ここでアノニムたちが死ぬわけにはいかないのだ。死んだら黒曜とパーシィの現状をサナギと緑玉に伝える方法がなくなる。どう考えても、いったん退いて、サナギと緑玉と4人で戦闘に備えるべきだ。それが一番、勝ちに近い。
アノニムは間違っていない。逃げるべきだ。
だが、止める間も、アノニムの考えを伝える隙もなかった。タンジェリンはもう斧を構えて走り出している。
タンジェリンはアノニムより弱い。負けるだろう。それでもタンジェリンは負けることが――死ぬことが、何も怖くないみたいだ。
斧を構えて走る、タンジェリンの背中が遠ざかる。決して大柄ではないタンジェリンの背中を、初めて見るような気がする。この遺跡に入ったとき、タンジェリンは先頭を歩いた。彼の背中を、そのときだって見たはずなのに。
戦士役を巡って決闘をして以来、たまにタンジェリンと勝負をすることがある。興味はないが、挑まれたなら断らない。何故か? アノニムがタンジェリンに負けることはないからだ。
勝てる勝負しかしない。それがアノニムにとって生きる方法だった。あるいは、負けるかもしれない勝負に際して、何をしてでも負けないことがアノニムの処世術だった。負ければ死ぬ、それが当然の世界にいて、アノニムの処世術は何よりも「正しい」。
誰かのために戦うならなおさらだ。アノニムが死んでしまったら何も残らない。何の意味もない。
なのにタンジェリンは、どうしてこうも容易く、あの豪雨のような光弾に飛び込み、ひどく冷えた刃に肉薄することができるのだ?
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