カンテラテンカ

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治癒と医術、あるいは恐れへの前進 4

 本当にあっという間だった。それから1時間で、ルイーザは赤子を出産した。
 俺はその1時間、ワーミを追い出したり、突き飛ばされた際にできたフレッドの怪我を治療したりしていただけだったが、ようやく赤子が産声を上げたときには、ドッと力が抜けたものだ。俺がこれなのだから、クエンの疲労は察して余りある。
 だがクエンはその小さな身体で、全身汗だくになりながら、いっさい、疲れなんか口にしないのだった。
 俺は彼のことを、本当に医者かどうか測りかねていたけれども。何のことはない。彼は間違いなく、医者だった。その外見がどうであれ。だからフレッドは彼を呼んだのだ。
「ルイーザ。がんばったな」
 湯で身体を洗った赤子をクエンが渡せば、ルイーザがそれを弱弱しく抱きしめる。
「おお、俺たちの……俺たちの子……! ルイーザ。頑張ったな。本当に頑張った……!」
 フレッドが駆け寄ってきた。そうか、ルイーザの配偶者だったか。
「パーシィ」
 赤子に寄り添う二人を見ながら、クエンは言った。
「僕がミゼリカ教徒をどう思っているか、言っていなかったよな」
「え? ああ……」
 そういえば、聞きそびれていたか。
「実は、"どうでもいい"って思ってたんだ。でも」
 クエンは俺の胸元をこぶしで軽く叩いた。
「考え直さなくちゃな」
 そして特に俺の回答も待たず、クエンは夫婦二人と赤子に近寄り、術後のケアを始める。彼は今日は宿に戻らないだろう。
 俺は先に宿に帰ることにした。ここにいてもしてやれることは、予後が良いことを祈るだけだ。それは別にここでなくてもできる。
「ぱ、パーシィさん!」
 集会所を辞した俺を追いかける影があった。フレッドである。
「フレッド。母子ともに無事でよかったよ」
 当たり障りのないことを言うと、フレッドは涙ぐんだ。正確な年齢は分からないが、彼は大人だ。大人が泣くところはめったに見ない。俺は不思議に思って目を瞬いた。俺はまた――俺はしばしばやらかすらしい――変なことを言ってしまっただろうか。
「俺らは……俺らはこのスラムで、街のやつらからは厄介者扱いされてよぉ。こんな汚ぇナリだし、礼もできねえ。でもよぉ、あんたは祈ってくれたよな」
「まあ、そうだな……」
「ありがとう、なぁ」
 フレッドは俺の手を握って、そう言った。
「……」
 俺は彼の手を握り返した。
「お幸せに」
 今度こそ、フレッドは呻き声を上げながら泣いた。

★・・・・

「ずいぶん長え散歩だったじゃねえか」
 星数えの夜会に戻ると、食事をしていたらしいタンジェが俺を見て顔を歪めた。もう夕食の時間だろうか、と思っていると、
「"トラブルは起こさないよう気を付けている"だったか?」
「うん?」
「流血沙汰じゃねえか」
 俺は自分のカソックを見下ろした。ルイーザの足からの血しぶきが散っている。黒いカソックについた血だ、ほとんど目立たないのに目ざといな、と俺は思った。
「心配してくれたのかい」
「はあ?」
 なんだか、出発前にもこんなやりとりをしたな。
 タンジェが続けてまた苛烈なことを言うと思ったけれど――タンジェは何かを言いたげに口を動かし、けれども黙り、やがてこう言った。
「……さっさと着替えてこいよ」
 ああ、と俺は頷いた。空腹だ。さっさと着替えて湯を浴びて、そしたら何かを食べよう。

 スラム街を散歩することが、たまにある。
 ヒト、獣人、裕福なもの、貧乏なもの。交易による豊かな物資。ないものはないとまで謳われるベルベルントにひっそり沈む、貧しい、持たざる者たちが暮らしている小さなスラム。
 ヒト。獣人。裕福なもの。貧乏なもの。持たざるもの。神の前では等しく無意味で無価値なもの。
 それでも俺が恐れたもの。生命の営み。ヒトがヒトを産み落とすこと。
 そして俺が手にしたもの。握られた手。胸元にあてられたこぶし。感謝の言葉。
 聖職者と医者。治癒と医術。
 そしてスラムを歩くこの一歩は、あるいは。

【治癒と医術、あるいは恐れへの前進 了】

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治癒と医術、あるいは恐れへの前進 3

 集会所、と言えば聞こえはいいが、比較的小綺麗にされているだけの廃屋だった。名前の通り何人かの浮浪者が集会をしていて、俺たちの姿を見て目を白黒させた。
 できるだけきれいなタオルと湯を用意するように言われて、それでもスラムの人々は同じくスラムに生きるこの女性とその中の赤子を見捨てはしなかった。洗濯したばかりだというタオルをようやく数枚、あるいは沸かした僅かばかりの綺麗な湯を持ち寄る。クエンはありがたく受け取り、こんなにいても仕方がないからと人々を退室させた。俺に声をかけたあの痩せ細った男性フレッドは、妊婦の身内らしく、入り口で心細そうに突っ立っている。
「子宮口がかなり開いてる」
「もう産まれるのか……?」
 マリスに付き添ったときは、まるまる一晩かかったと記憶している。
「予定より早い」
 クエンは妊婦にこまめに声をかけながら、分娩を進めている。
 ――突然、集会所の扉が強く開け放たれた。
 俺が振り返ったときには、入り口にいたフレッドが突き飛ばされていた。よろけて尻餅をついたフレッドは、突如として乱入してきた男を見て顔を青くした。
「ワーミ! なぜここに!」
 ワーミと呼ばれた男は、このスラムの中ではかなり大きな体格だった。痩せた男一人をゆうに突き飛ばすだけの力はあって、こう怒鳴る元気もあるようだった。
「医者が、医者が来たんだろ!」
 ワーミの顔を見れば正気でないことはすぐに知れる。俺はすぐに彼の様子を薬物依存だと悟った。案の定、
「クスリだよ、クスリ! 俺にクスリを寄越すんだよ!」
「取り込み中だ! すっこんでな!!」
 クエンはワーミを見もせずにぴしゃりと一喝したが、ワーミのほうはぜんぜん聞いていないらしい。
「せ、先生! こいつはヤク中なんだ、放っておいたら何するか」
 フレッドの言葉にも、
「ヤク中にやる薬はねえ!! 余所を当たれ!!」
「産まれてこられるかわかんねえ赤ん坊よりよお、今生きてる俺を優先しろよなあ!!」
 さすがに見かねた。俺はクエンとワーミの間に立って、左手の指先をワーミに向ける。
「<ホーリーライト>の射程内だ。一歩だけ下がるといい」
「なんだぁ……!?」
 丁寧に言ったつもりだったのだが、通じなかったらしい。
「てめぇ……ミゼリカ教の神官か!? ちょうどいいなぁ、俺はてめぇらに聞きたいことがあってよぉ」
 ワーミは手に持っていた錆びだらけのナイフを虚空にぶんぶん振ってから、
「神はどこにいやがるんだってなぁ!!」
 叫んで、突っ込んできた。
 それじゃあ仕方ないな。
「<ホーリーライト>!」
 祈りが昇華されて聖なる光へと変じ、それがそのままワーミの鼻先で弾けた。手加減はしているから目くらまし程度だ。それでもワーミは勢いよくひっくり返り、床に頭を打ち付けた。
「いてぇ!! ちくしょう!!」
 身悶えするワーミを上から覗き込み、
「神がおわすのは天界だ。ヒトには及びもつかない貴いところに座しておられる」
 事実を伝えたが、ワーミのほうは忌々しそうに顔を歪めるばかりだった。通じないのは伝えている俺というより、受け取る側の人間が悪いのだろうな。
「くそったれ!!」
 ワーミは勢いよく俺の顔面に向かってナイフを投げつけた。簡単にかわせたが、万が一当たっていたら大変なことだ。ナイフは俺の背後で、かろうじてこの廃屋にぶら下がっていた照明に当たり、ガラス製のそれは粉々に砕けた。
「うわ!」
 ちょうど真下にいたクエンのもとにガラスが降り注ぐ。俺は慌てて振り返った。
「クエン! 大丈夫か!」
「まずい……!! パーシィ、来てくれ!!」
 俺はワーミをちらと見たが、いよいよクスリが切れたのかぐったりしている。クエンのもとに駆け寄った。クエンの顔にいくつか切り傷があって、それよりも。
 妊婦のルイーザの太ももに大きな切り傷ができていた。彼女が陣痛に力むたびに、鮮血が噴き出している。
「致死の可能性がある!」
「死……!?」
「動脈だ! ルイーザの気力も体力ももたない!」
 クエンは俺を振り返った。
「治癒の奇跡は!?」
「も、もちろん使えるが……」
 言葉の先は、当然――「母体と赤子が癒着する」。だが、俺がそれを口に出す前に、
「パーシィ、恐れるな! 怖いのは、見えないからだ! 知らないからだ!」
 クエンは俺の目をまっすぐに見た。はちみつのような色をしたクエンの瞳は、顔じゅうに切り傷をつけてもその痛みに歪むことがなかった。
「いいか! 胎児は胎盤って膜を通して栄養やら老廃物を母体とやりとりしているが……胎盤と胎児はへその緒で繋がっている! もしお前が、治癒の力で母体と胎児がくっついちまうって思ってるなら、それは奇跡の力までへその緒を通して胎児に流れ込むからだ!」
 はっとした。そうか、俺は……そんなことを考えたこともなかった。ヒトが産まれてくるしくみ。赤子と母体をつなぐもの。
「慎重にやれば、何も恐れることはない。奇跡の力をコントロールしろ!」
 奇跡の力のコントロール。
 一番得意なことと言ってもいい。俺が元とはいえ、天使であることの証左。
 "怖いのは、見えないからだ。知らないからだ"
 "今のあなたがやったところで、……"
 マリスは知っていたのだ。俺が当時、ヒトの営みを、ヒトのしくみを理解できなかったであろうことを。
 そして今ならできるのだ。俺は、もう、あのときの俺ではないから。
 俺は血の流れるルイーザの太ももに手をかざした。ヒトの身体のどこに何があるのかしっかりと見て、そして……祈りの言葉を唱える。落ち着いていた。自分の力をゆっくり流す感覚。溢れないように。だが、足りすぎないように。そして、どこまでも流れていかないように……。
 小さな光が彼女の傷に集まる。ほんのわずか明滅してはじけ、そして、消える瞬間に傷を癒していく。
「……!」
 傷が完全に塞がったことを確認して、俺はかざした手を下ろした。
「でかした! パーシィ!」
 母体の様子をつぶさに観察していたクエンは、大きく頷いた。
「ルイーザ、大丈夫だぞ。陣痛はあるか!」
 ルイーザは苦しげに呻きながらも何度か頷いた。
「よし……! 続けるぞ!」

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治癒と医術、あるいは恐れへの前進 2

 スラム街から離れて数分、通りを行き交う人に話を聞きながら俺は何とか目的の宿に辿り着いた。
 元天体観測所の星数え夜会も大概だが、なかなか変わった建物で、俺は入り口を探して何度か建物の前を往復した。たまたま宿から出てくる人がいたので、ようやくそれで入り口が分かった。
 入れ違うようにして宿の中に入れば、宿は存外賑わっていて、この中からちまちまクエン先生を探すのは骨だから、声を上げた。
「クエン先生はおられるだろうか!」
 人びとの話し声が一瞬やんで、みなの視線がいっせいに、まず俺へ。それから、一人の少年のもとへと。
 少年は立ち上がり、
「クエンは僕だけど」
 と名乗った。
「……」
 少年、である。俺はヒトの年齢を判断するのが不得手だ。老化による外見の変化があることは理解しているのだが、いまいちピンとこない。子供か、大人か、老人か、程度の判断はつくのだが、それより細かいことはまず分からない。
 だが俺の判断基準を持ってしても、明らかに「クエン先生」は、10代前半の子供だった。
「何か用か?」
 クエンは俺の前まで歩いてきて、俺を見上げる。
「あ……」
 俺は一瞬だけ躊躇ったが、素直に事実を伝えることにした。
「スラム街の男性が、きみを呼べと……妊婦がいる」
「!」
 クエンがにわかに険しい顔つきになり、
「ルイーザ……! 破水したのか!?」
「そ、そこまでは」
 クエンは席にいったん戻り、すぐに大きなカバンを抱えてきた。それから俺に、「案内を頼む」と言った。
 俺たちはすぐにスラム街に駆け出す。
 道すがら、俺はクエンに尋ねた。
「彼らはきみを、クエン先生、と呼んでいたけれど」
「ああ、僕は医者だからな」
 別にそう呼べと強制はしていないが、とクエンは言った。
「しかし、きみはずいぶん若くはないか? ともすれば、幼い……」
「若輩なのは認める。20歳だ」
「20歳!?」
 タンジェより年上だ。というか、成年だ。単に見た目が若い……いや、幼すぎるだけか。たまにそういう人間もいるらしい。確か、童顔、とか。そういう呼ばれ方をする。
 ヒトの外見で能力は測れない。だが、目の前の少年が医者というのはにわかに信じがたい。医療に従事する者は、ヒトの身体を知り尽くす知識と熟練の技を有する達人だ。

 ――ミゼリカ教の奇跡が身近にあって、わざわざ医療を志す者は多くない。 
 だが聖ミゼリカ教の治癒術の奇跡があるからといって、医者が不要かというと、そうではないと俺は思っている。ミゼリカ教徒と医師にできることは、こと怪我においては重なる部分ももちろんあるが、大きく異なるものがざっと三つある。
 まず病気。これはミゼリカ教の奇跡では治せない。治せるというやつがいたら、そいつは詐欺師だ。病で心身が弱ったヒトにつけ込む悪質な手法と言えるだろう。
 次に、予防医学。生活習慣くらいならミゼリカ教の教義に則り指導できるかもしれないが、専用の器具を使って数字を叩き出してくる医者の説得力には敵わない。もちろん数字より教義を信じる者も少なくはないのだが。
 最後に、出産。出産はヒトの営みの中でも重要な位置付けをされているけれども、ミゼリカ教の奇跡とは相性が悪い。

 ――俺がこの地上でふるさとと呼べるのはアイグリンズ領へリーン村とこのベルベルントくらいだが、へリーン村で俺を導いてくれた慈母たるマリスは産婆であった。マリスが俺を出産に立ち会わせた真意は今となっては知りようもないことだが、初めてヒトの出産を間近に見た俺はその決死の様相に怯んでいた。母体の呻き声、体液、明らかにその頭より小さな穴から這い出てこようとする赤子、……。
 俺はその生死の狭間で混乱し、それでも自分なりに気を遣ってマリスにこう尋ねた。「ち、治癒術を、ミゼリカ教の奇跡を使うか?」あの混沌と、熱に浮かされるような酷く暑い夜にあって、朦朧としていた俺は、それでも彼女の答えを今も明瞭に思い出せる。
「出産時の治癒術には熟練のコントロールが要ります。とりわけ、ヒトをよく理解した者の。今のあなたがやったところで、母体と赤子が癒着する」

 ……そういうわけだから、ミゼリカ教徒が出産に際してできることなど多くない。安産を神に祈ってやるくらいだろう。
 神にとっては無論、人間如きの出産など取るに足らないものだ。そんな祈りを歯牙にはかけない。
 だが、人々の祈りというのは精神安定のためにあってしかるべきだから、そういう意味ではあの混沌を律するのにいいのかもしれないな――。
 ――そんなことを考えていると、
「あんたは聖ミゼリカ教徒だな?」
 クエンが俺に尋ねた。
「あ、ああ。パーシィと呼んでくれ」
「そうか、パーシィ。医者を勝手に敵視するミゼリカ教徒も少なくない。呼んでくれてありがとう」
 クエンの言うとおりだった。
 怪我においては「患者を取り合う」という状況だ。信じられないことだが、それで互いにいがみ合うようなミゼリカ教徒も、医者もいる。それに関してはお互い様だ。
「きみはどうなんだ?」
「僕? 僕は――」
 クエンの言葉を全部聞き取る前に、俺たちは男と妊婦のところに辿り着いていた。クエンは駆け寄り、すぐさま妊婦の容態を確認すると、
「集会所に運んでくれ! フレッド、いけるか?」
 フレッドと呼ばれた男がよろよろと妊婦を抱えようとする。クエンも支えているが彼も小柄すぎて役に立っていない。俺は二人を下がらせて妊婦を抱え上げた。
「案内してくれ!」
「助かる! こっちだ!」

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治癒と医術、あるいは恐れへの前進 1

 スラム街を散歩することが、たまにある。
 ヒト、獣人、裕福なもの、貧乏なもの。交易による豊かな物資。ないものはないとまで謳われるベルベルントに、スラム街もまた、ないわけがない。
 それほど大規模ではないけれども、そしてベルベルント以外の街ではそうであるような悲壮感はそこまでないけれども、貧しい、持たざる者たちが暮らしている小さなコミュニティだ。
 うち捨てられた廃教会。明日の身すら知れぬ者が神に祈ることはない。彼らにとっての真実は、明日の食事と命だけ。神は食事と命を保証してはくれない。矮小な人間に神の慈悲が与えられることはない、そんなことは俺――パーシィ――にとっては当たり前のことなのだが、祈りを救いを賜るためのものだと勘違いしている者の多くは、そんな神に勝手に失望する。だからこの教会にも、祈る者はいないのだ。

 そんなとこ歩いてどうするんだよ、とタンジェは俺に言った。
「説法でもすんのか?」
「俺が説法? 面白いことを言うな」
 俺が答えると、タンジェは呆れたような顔になる。
「そうじゃねえなら、何しに行くんだ?」
「だから、散歩だよ」
「もっと治安いいとこ歩けよ」
 なるほどごもっともだ。
「静かでいいんだよな、スラム」
「静かでいい、って理由で、銀のロザリオぶら下げてうろつかれてみろ。スラム側だっていい迷惑だ」
「心配してくれているのかい?」
 タンジェの顔を覗き込むと、タンジェは思い切り顔を歪めて「はぁ?」と心底からというような声を出した。
「てめぇにスラムを貶す意図がなかろうが、スラム側からすりゃたまったもんじゃねえって言ってんだよ!」
「まあ、トラブルは起こさないよう気を付けているし。大丈夫だよ」
「だから、てめぇが大丈夫でも――」
 そこまで言って、タンジェはため息をついた。
「――もういい。さっさと行きやがれ」
「ああ、いってきます」
 俺が言うと、タンジェは適当にひらひらと手を振って俺を見送った。

  それが、20分くらい前のことだろうか。
 天気は晴れ。潰れかけの建物がいくつも建ち並び、その間から見える青空がコントラストを描いている。風が吹けば、汚れた地面の砂が舞い上がり俺のカソックを汚した。ゆっくりと廃教会から離れて、スラム街を北に歩いていく。
 道端に倒れている女と、痩せ細った男に出会った。
「大丈夫かい」
 何とはなしに声をかけると、かろうじて男のほうが振り返った。
「あんた……街の人か!?」
「ああ」
「頼む……! 先生を呼んでくれ! このままじゃこいつ死んじまう!」
 男の腕が俺のカソックに縋り付く。俺は、こいつ、と呼ばれた女性のほうを見る。外傷なら俺でも、と思ったけれど、すぐに事態が分かった。
 妊婦であった。
 ひどく痩せているけれども、お腹が大きくなっていて、それを大事に守るように蹲り、うんうん呻いている。
「……分かった」
 俺は頷いた。
「先生とやらはどこの誰だい」
「確か。水槽の……白昼夢亭とかいう宿の。クエン先生、クエン先生だ!」
「すぐに戻るよ」
 知らない宿名だったけれども、ここで彼らを見捨てる選択肢はない。いや、別にスラム街の不心得者たちなど見捨ててもいいのかもしれないが、それはたぶん、善くない行いだ。
 俺はこれでも、ヒトに対して誠実であろうと思っている。水槽の白昼夢亭とやらに急いだ。

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プロフィール

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