密やかなる羊たちの聖餐 9
晩の食事、それから入浴やらを済ませて、ようやくタンジェたちは会話できるタイミングを見つけた。
黒曜のメモ通りにサナギを連れて巡礼者に用意された部屋へ。こちらは寄宿舎とは違い礼拝堂の近くで、この時間には他にまったく人通りはない。タンジェとサナギはつつがなく巡礼者用の部屋に訪れることができた。
「お疲れさま」
中に入るとパーシィが茶を用意していた。タンジェとサナギの顔が引きつる。
「……そのお茶は?」
サナギが震える声で尋ねると、不思議そうな顔のパーシィが、
「先程、修道士の1人が用意してくれたものを淹れたんだが」
「パーシィは注いだだけだね?」
「え? うん」
タンジェとサナギは胸を撫で下ろした。
「ならいただくよ。そちらもお疲れさま」
サナギがようやくカップを受け取る。あたたかい茶は、夜にはぐっと冷えるこの時期にはありがたい。
「祈りだ何だで、気が狂いそうだぜ……」
「はは、大袈裟だな」
茶を飲みながら愚痴ると、パーシィが、
「信仰心が芽生えるかもしれないぞ?」
タンジェは思いっきり顔をしかめてやった。それを見てひとしきり笑っていたパーシィだったが、不意に真剣な顔になって尋ねる。
「調子はどうだい?」
「ん〜……」
サナギは曖昧な返事をした。
「もう少し、かな」
「もう少し?」
一同と一緒に、タンジェもサナギの顔を見た。サナギとの会話の機会も少なく、彼の今日の調査の進捗を聞くのはタンジェも初めてだ。
「今日ハーブ園で、麻薬の精製に使う器具を一通り見つけたんだ。もちろん隠すように置いてあったよ。ただ、誰の持ち物なのかは調査中だ」
「……!」
これはかなり大きい情報だ。あとはサナギがそれを見張っていれば犯人はいずれやってくる。
「そっか、俺たちはいらなかったかもしれないな」
パーシィはサナギの調査の成果を喜びながらも、少し寂しそうな顔をした。
「そんなことはないよ、心強いよ」
「うーん、それが、心強く思われるような事態でもないんだ」
どういうことだとタンジェが尋ねると、パーシィは、
「実は、思ったより獣人への対応がよくなくてね……泊まれて、今日1日ってところかな……」
「マジかよ……!」
やっぱろくでもねえな、と思わず本音が漏れる。パーシィはまたなんてことないふうに笑うかと思ったが、
「獣人へのあの警戒は、ちょっと普通じゃないな。かなり怪しいと思う」
「あ? どういうこった?」
「獣人は五感が人間より優れているものだろう? 要するに、獣人に長くいられちゃ困る理由があるんじゃないか」
タンジェは、待てよ、と言った。パーシィの言っていることはおかしくはないのだが、
「てめぇらの受け入れを判断するのは、この修道院でそれなりの決定権を持ってるやつだろ。そいつが獣人を忌避してるなら、つまり……」
言葉尻から黒曜が引き継いだ。
「修道院の上層部が麻薬取引を黙認している、あるいは指示している……この修道院全体が、麻薬取引の母体になっている可能性もある」
「そりゃあ、可能性はあるだろうが……」
「獣人の巡礼者には厳しいわりに、俺たちが入会を希望したときはあっさりだったね。人間なんかいざとなれば麻薬で何とかなると思われてるのかな?」
首を傾げるサナギに、軽く身を乗り出したパーシィが、
「食事に麻薬が混入されていたりはしなかったかい?」
冗談でもなく、ごく普通の様子で尋ねる。応じたのは黒曜で、
「食事にその手の臭いはなかった」
と。ならば一応、食事は安心して食べてもいいだろう。
ドートたちもグルの可能性……。一見、迂闊で無害に見える男だが、腹の底で何を考えているかなんてのは分からない、か。
「……警戒するに越したことはねえな」
結局、そう結論づける。
「ああ」
それからパーシィとサナギはもう少し話すというので、タンジェは先に寄宿舎に戻ることにした。あまり巡礼者の部屋に長居してもいいことはないだろう。
寄宿舎への道を途中の地図を見ながらかろうじて進んでいると、T字路で向かって左手から歩いてくる人影が見えた。ひと気のあるところには近付いてきたらしい。人影はレンヤだった。
「やあ、タンジェリンさん」
「おう」
タンジェは違和感を覚えた。
レンヤが歩いてきた向かって左手側の廊下……その先には、何がある? ここを右手に曲がれば寄宿舎や談話室があるほうに向かうことは分かっている。なぜこいつはその反対側から歩いてきた?
「何してたんだ?」
タンジェが尋ねると、
「そちらこそ。礼拝堂で何かしていたのか?」
一瞬、答えに窮す。寄宿舎とは別の方向から歩いてきた……レンヤにとってはタンジェも同じ立場か。タンジェは「まあな」と適当に返した。
「こんな夜更けに、あまりうろうろするものではないぞ」
世間一般では、夜更けというほどの時間ではない。だがこの修道院においては、レンヤの言うとおりもう遅い時間だ。
レンヤは寄宿舎のあるほうへと歩き去る。彼がタンジェの前を横切るその一瞬、レンヤの衣服から、何かの植物らしき匂いが香ったのに気付いた。
「……」
レンヤの後ろ姿が見えなくなったのを見届けると、タンジェは左手へ足早に向かった。レンヤが来たほうだ。
長い廊下をなるべく足音を立てずに進んでいくと、途中で扉を見つけた。少し観察し、脳内でなんとか修道院の地図を展開すると、中庭に出る扉かもしれない、と見当が付いた。
しかもこの位置は、もしかしたらタンジェが今朝方見つけたあのぼうぼうの草が生えていたあたりかもしれない。
扉を開けようとしたが、鍵がかかっている。
タンジェは解錠道具を取り出そうとして、それらの類はいっさいを持ち込んでいないことを思い出した。
だが、手も足も出ないというわけではない。タンジェいつもしているヘアピンを髪から1本抜くと、それを使って解錠を試みた。古い鍵だからだろう、かなり造りは単純で、解錠は容易かった。タンジェはヘアピンを髪に戻し、静かに扉を開ける。
外の冷たい空気に当たった。
背の高い雑草が生えている。その奥に、想像通り、今朝入れなかったあの廃屋が見えた。タンジェは草を掻き分けてそちらに向かった。檻にも鍵がかかっていたが、こちらも難なく解錠する。
廃屋に侵入した。暗かったが天井が崩れているため月明かりで視界は確保できた。
「これは……!」
廃屋の奥に、花が咲いている。花からは甘い香りがして、それはレンヤの衣服から香ったのと同じものだった。
タンジェは植物に特別詳しいわけではない。だがサナギがここに来る前、いくつか見当を付けていた麻薬があったはずだ。絵を見せてくれたその中に、確かにこの花があった。確か名前は――。
「イリーマリー」
背後から突然声が聞こえたと思ったら、パッと視界が明るくなる。振り向くと、備え付けのランプに火を灯したレンヤがこちらを見ていた。
「イリーマリーだよ、それは」
淡々と言ったあと、
「タンジェリンさん。なぜ寄宿舎に戻らなかった?」
レンヤは、怒っている様子も、焦っている様子もない。
「……」
タンジェは沈黙を返した。
「貴様、最初からイリーマリーの調査に来ていたのか?」
「……」
まあいい、とレンヤは言った。
「どちらにせよ、私に尾行されるようでは、あまり探索の才能はないようだな」
ぴく、とタンジェの眉が動く。レンヤは鼻で笑って、
「この廃屋はこの修道院の修道士たちは関心を寄せないのでね。麻薬を栽培するのにちょうどよかったわけだ」
聞いてもいないのにそう語った。
そしてレンヤは壁に立てかけてあった枝切りバサミを手に取り、
「見つけてしまった貴様は、不幸だが、ここで死んでもらおう。麻薬の肥料になるといい!」
ぶん、と枝切りバサミを振り回す。
だが、その攻撃はまるきり、素人丸出しだ。難なく回避し、タンジェは一歩でレンヤに間合いを詰めた。
「探索に向いてねぇって?」
それから、
「あいにく、こっちの方が得意でな!」
レンヤの顔面に拳を叩き込んだ。