カンテラテンカ

鏡裡を砕く 1

 どん、と大きい音がしたので、タンジェは咄嗟にそちらのほうを見た。
 音はサナギが日頃籠もっている半地下の倉庫、通称「研究室」からで、そこには何やら怪しげな実験器具やら大量の本やらが置いてあることを、タンジェだけでなく星数えの夜会のほとんどの者が知っている。
 病院みたいな臭いがするので入りたくない部屋だし、そもそも日常、サナギとは関わり合いになりたくないとタンジェは思っている。良識のある人物なのは言動の端々から分かるのだが、普段何をしているのかが具体的に分からないので、胡散臭い。
 目の前にあるランチプレートに視線を戻すと、今度は「うわー」というサナギの気の抜けた叫び声と共にバタバタと本が崩れ落ちる音がした。
「タンジェ」
 嫌な予感がしたので無視したが、親父さんは容赦なく続けた。
「見てきてやれ」
 ツイてない。
 タンジェは溜め息をついて、昼食を置いたまま席を立った。
 暖炉のついた食堂から奥の廊下に出ると、季節はまだ冬に足をかけたばかりだというのに、空気は底冷えして寒い。半地下にある研究室とは別に、サナギの自室はきちんとあるのだが、サナギはほとんど自室には戻らずここで過ごしているようだ。
「おい」
 ノックをして呼んでみる。
「サナギ、でけぇ音したが、無事かよ?」
「あー」
 部屋の中から返事があった。
「タンジェ? 来てくれて助かるよ、ちょっと手伝ってくれる?」
「嫌だ。無事ならそれでいい。じゃあな」
「ははは、なかなか人でなしだねぇ! お礼はするから頼むよ」
 タンジェは扉の前で無視すべきか少しだけ考えたが、最終的には扉を開けた。
 すぐに開けたことを後悔する。
 研究室は散らかり放題で、床が見えないほど紙やら本やら得体の知れない何かが入った箱やらが積まれていた。手伝いというのがこれの片付けなら御免被りたいところだ。とうのサナギは姿が見えず、混沌とした研究室の奥の壁際から「おーい」と声だけがする。
「こっちこっち」
 よく見ると、山のように積み重なった紙束や本の中からサナギの細腕が出て、手招きしているのが分かった。僅かな床の合間を縫って近づくと、どうやら壁側の本棚からほぼすべての本が落ちたらしかった。その雪崩に巻き込まれたのであろうサナギが、埃だらけの頭をひょっこりと出して、タンジェに笑いかけた。
「探しものをしていてね。古い日記を漁っていたらこのざまさ」
「古い日記ねぇ……」
 言っておくが、この本の山からそんなものを探すのに付き合いたくはない。本棚に戻せというならまだしも。
 思ったままを言おうとすると、サナギはタンジェの前にメモを差し出した。
「お使いを頼まれてほしいんだよ。これ」
「お使い?」
 タンジェは目を瞬かせた。
「古い日記を探してるんだろ?」
「それは俺がやるよ」
「部屋の片付けは?」
「そんなのどうでもいいよ」
 どうでもいいのか? タンジェは研究室の惨状を見渡し、まあ確かにこの本の山を放置したところで大して今までと変わらないのだろうと納得した。
「とにかく、ベルベルントの商店街で揃うものだからさ。手が離せないから、買ってきてほしいんだよ。もちろんお金は俺が出すから」
 タンジェはしぶしぶメモを受け取る。そしてそのメモのミミズがのたくったような字を見て、思わず顔を歪めた。
「汚え字だな。俺に言われるんだから、相当だぜ」
 サナギは几帳面に見えて、部屋といい字といい雑で大雑把なところがあるのだ。そこがまた、タンジェがサナギをうさんくさく思っている部分でもある。
 サナギは「読めない?」と首を傾げた。ああ読めねえな、とタンジェがメモを突っ返そうとすると、サナギはそれを手で制し、
「じゃあ、俺が言う単語をメモしてもらおうかな」
「あ?」
「ゴーマ、黒色ペイル草、クコブラッド……」
「おいふざけんな、待て!」
 流れるような要求に、タンジェは慌てて自分の服のポケットなどを探ったが、ペンも紙も持ち歩く習慣があるわけがない。断って退室すればいいものを、「ああ、ごめんごめん」とサナギが手渡してきたペンと紙をまんまと受け取ってしまい、タンジェは自分に舌打ちした。
 改めてサナギが述べた複数の品物をメモし、間違いがないことをサナギに確認してもらったら、そのまま金を渡された。部屋を出たあとにまるきり使いを了承した形になったことに気付いたが、もはや断るほうが面倒くさい。タンジェはひとまずあたたかい食堂に移動する。出かけるにしても、まずランチプレートを食べてしまってからだ。
「どうだった?」
 親父さんがタンジェに気付いて声をかけたので「大丈夫そうだった」と答えた。
「使いを頼まれた」
「そうか、寒いし行ってやれ」
「親父さん、サナギに甘くねえか?」
 何とはなしに言うと「サナギはきちんと自室と研究室の部屋代を払ってるからな」と言った。
 タンジェは苦い顔になった。今月分の部屋代をまだ払っていない。親父さんは催促しないが、だからといって滞納はできない。どこかで短期バイトでも探すか……あるいは、サナギの使いの「お礼」に期待してもいいものだろうか? 相変わらず、たまに異動のことを考えてはみるのだが、宿代もままならない今では夢のまた夢だ。
 一応、言い添えておくが、タンジェの収入が低いだけで、星数えの夜会の宿代は決して高くない。飯も美味いし、狭くも汚くもない、客層も悪くない、と、条件はかなりいい。強いてマイナス点を言うなら、目抜き通りから大きく外れていることくらいだ。歩くことが苦にならないタンジェにとっては深刻な問題ではない。ここ以上の条件を探すと、宿代は倍になるだろう。黒曜との日課の戦闘訓練だって、ここに所属しているからこそできているのだ。
 タンジェが異動を考える頻度は明らかに減っていた。もう戦士役じゃなくてもいいんじゃないか――少なくとも、今のところ盗賊役としては、冒険はやれている。
 それはリーダーの黒曜がタンジェたちの技術の習熟度を理解し、依頼を的確に選んでいるからに他ならない。ただ、タンジェとしてはゆっくりとした歩みでも技術向上に手応えがある今の環境は悪くなかった。
「どうした? 心配しなくても出て行けなんて言わんよ」
 親父さんが急にそう言い出すので、何かと思ったが、宿代の話をされたきり返事をしていない。気遣いをさせてしまったのだろう。
 タンジェはあまり社交的なほうではないから、親父さんや娘さんが自身に対してとても友好的なのも見逃せない利点だ。
「部屋代は必ず払う」
「お前さんは真面目だな」
「特別、真面目ってことはないだろ」
 宿代を払うなんて当たり前のことだ。
「黒曜だって緑玉だって、パーシィやアノニムだって払ってんだろ?」
 親父さんは顎に手を当てて「ふむ」と言った。
「おおむね払ってもらってるが……。アノニムについては受け取ってはいないな」
 払っていない、ではなく、受け取っていない? タンジェの訝しげな顔に気付いた親父さんは、
「アノニムは昔、この宿のゴミ漁りをしていたところを、娘が拾ったんだ。それから弟のように面倒をみるもんだから、ワシも愛着が湧いてなあ。まあ、息子みたいなもんだ」
 聞けば見世物小屋で戦わされて、働くなんて技術も知識もないってんだ、そんなやつからまで金を取ろうとは思わんよ、と。
「タンジェ、お前さんも生活が厳しければ別に宿代なんざ滞納してもいい。それよりワシは、金ほしさに無茶な依頼を受けようとしないか心配でならんよ」
 タンジェは黙って聞いていた。先日のロッグ村での一件で、タンジェはアノニムの経歴をほんの僅か、知るところになった。見世物小屋の奴隷剣闘士――。だがしかし、それに対してどういう感情を抱けばいいのかは分からない。そもそもアノニムが彼自身の過去に対して何を思っているのかを知る由もないのだから、当たり前のことだ。
 それはそれとして、タンジェは、
「バイトを探す。今月の宿代はそれから払う」
「まあ、払ってくれるならそりゃありがたいが……」
 タンジェはランチプレートをかきこんで、ごちそうさん、と言った。食器は娘さんが下げてくれる。
 今から動き出し、すぐに買い物を済ませれば、まだまだ一日時間がある。バイトを探すヒマもあるはずだ。

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