治癒と医術、あるいは恐れへの前進 2
スラム街から離れて数分、通りを行き交う人に話を聞きながら俺は何とか目的の宿に辿り着いた。
元天体観測所の星数え夜会も大概だが、なかなか変わった建物で、俺は入り口を探して何度か建物の前を往復した。たまたま宿から出てくる人がいたので、ようやくそれで入り口が分かった。
入れ違うようにして宿の中に入れば、宿は存外賑わっていて、この中からちまちまクエン先生を探すのは骨だから、声を上げた。
「クエン先生はおられるだろうか!」
人びとの話し声が一瞬やんで、みなの視線がいっせいに、まず俺へ。それから、一人の少年のもとへと。
少年は立ち上がり、
「クエンは僕だけど」
と名乗った。
「……」
少年、である。俺はヒトの年齢を判断するのが不得手だ。老化による外見の変化があることは理解しているのだが、いまいちピンとこない。子供か、大人か、老人か、程度の判断はつくのだが、それより細かいことはまず分からない。
だが俺の判断基準を持ってしても、明らかに「クエン先生」は、10代前半の子供だった。
「何か用か?」
クエンは俺の前まで歩いてきて、俺を見上げる。
「あ……」
俺は一瞬だけ躊躇ったが、素直に事実を伝えることにした。
「スラム街の男性が、きみを呼べと……妊婦がいる」
「!」
クエンがにわかに険しい顔つきになり、
「ルイーザ……! 破水したのか!?」
「そ、そこまでは」
クエンは席にいったん戻り、すぐに大きなカバンを抱えてきた。それから俺に、「案内を頼む」と言った。
俺たちはすぐにスラム街に駆け出す。
道すがら、俺はクエンに尋ねた。
「彼らはきみを、クエン先生、と呼んでいたけれど」
「ああ、僕は医者だからな」
別にそう呼べと強制はしていないが、とクエンは言った。
「しかし、きみはずいぶん若くはないか? ともすれば、幼い……」
「若輩なのは認める。20歳だ」
「20歳!?」
タンジェより年上だ。というか、成年だ。単に見た目が若い……いや、幼すぎるだけか。たまにそういう人間もいるらしい。確か、童顔、とか。そういう呼ばれ方をする。
ヒトの外見で能力は測れない。だが、目の前の少年が医者というのはにわかに信じがたい。医療に従事する者は、ヒトの身体を知り尽くす知識と熟練の技を有する達人だ。
――ミゼリカ教の奇跡が身近にあって、わざわざ医療を志す者は多くない。
だが聖ミゼリカ教の治癒術の奇跡があるからといって、医者が不要かというと、そうではないと俺は思っている。ミゼリカ教徒と医師にできることは、こと怪我においては重なる部分ももちろんあるが、大きく異なるものがざっと三つある。
まず病気。これはミゼリカ教の奇跡では治せない。治せるというやつがいたら、そいつは詐欺師だ。病で心身が弱ったヒトにつけ込む悪質な手法と言えるだろう。
次に、予防医学。生活習慣くらいならミゼリカ教の教義に則り指導できるかもしれないが、専用の器具を使って数字を叩き出してくる医者の説得力には敵わない。もちろん数字より教義を信じる者も少なくはないのだが。
最後に、出産。出産はヒトの営みの中でも重要な位置付けをされているけれども、ミゼリカ教の奇跡とは相性が悪い。
――俺がこの地上でふるさとと呼べるのはアイグリンズ領へリーン村とこのベルベルントくらいだが、へリーン村で俺を導いてくれた慈母たるマリスは産婆であった。マリスが俺を出産に立ち会わせた真意は今となっては知りようもないことだが、初めてヒトの出産を間近に見た俺はその決死の様相に怯んでいた。母体の呻き声、体液、明らかにその頭より小さな穴から這い出てこようとする赤子、……。
俺はその生死の狭間で混乱し、それでも自分なりに気を遣ってマリスにこう尋ねた。「ち、治癒術を、ミゼリカ教の奇跡を使うか?」あの混沌と、熱に浮かされるような酷く暑い夜にあって、朦朧としていた俺は、それでも彼女の答えを今も明瞭に思い出せる。
「出産時の治癒術には熟練のコントロールが要ります。とりわけ、ヒトをよく理解した者の。今のあなたがやったところで、母体と赤子が癒着する」
……そういうわけだから、ミゼリカ教徒が出産に際してできることなど多くない。安産を神に祈ってやるくらいだろう。
神にとっては無論、人間如きの出産など取るに足らないものだ。そんな祈りを歯牙にはかけない。
だが、人々の祈りというのは精神安定のためにあってしかるべきだから、そういう意味ではあの混沌を律するのにいいのかもしれないな――。
――そんなことを考えていると、
「あんたは聖ミゼリカ教徒だな?」
クエンが俺に尋ねた。
「あ、ああ。パーシィと呼んでくれ」
「そうか、パーシィ。医者を勝手に敵視するミゼリカ教徒も少なくない。呼んでくれてありがとう」
クエンの言うとおりだった。
怪我においては「患者を取り合う」という状況だ。信じられないことだが、それで互いにいがみ合うようなミゼリカ教徒も、医者もいる。それに関してはお互い様だ。
「きみはどうなんだ?」
「僕? 僕は――」
クエンの言葉を全部聞き取る前に、俺たちは男と妊婦のところに辿り着いていた。クエンは駆け寄り、すぐさま妊婦の容態を確認すると、
「集会所に運んでくれ! フレッド、いけるか?」
フレッドと呼ばれた男がよろよろと妊婦を抱えようとする。クエンも支えているが彼も小柄すぎて役に立っていない。俺は二人を下がらせて妊婦を抱え上げた。
「案内してくれ!」
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