creepy sleepy 6
知らない場所だった。空っ風の吹く町。見たこともない造りの家が並んでいて、黒曜が突っ立っていた。そして、タンジェと黒曜の目の前で、獣人が一人死んでいた。
いや、死んでいた、のではない。殺されていたのだ。人間の男に。
男から振り下ろされたナイフは、肉を傷付けないように急所だけを的確に抉っていた。
絶命した獣人の顔にナイフが添えられて、ゆっくりと、丁寧に、男は獣人の瞳を抉り出す。咄嗟にタンジェは怒鳴りつけた。
「何してやがる!」
しかし男にはまるで聞こえていないようだ。タンジェは黒曜を見上げた。
「なんで止めねえ!」
「……」
冷めた顔の黒曜は、一言呟いた。
「無駄だ」
「無駄なんてことねえだろ!」
抉り出された目玉を容器に入れてニヤニヤと笑う男に、タンジェは向かっていく。思いきり顔面をぶん殴ってやろうとしたが、タンジェの拳は男をすり抜けた。
「……」
タンジェの挙動を見つめていた黒曜が口を開く。
「干渉はできない」
「だから、そこでぼんやり見守ってんのかよ!?」
タンジェはほとんど反射的に怒鳴り返した。黒曜は、「何故、お前が激昂しているか知らないが」と他人事のように言って、
「できることは、何もない」
「そんなもん――」
続けて怒鳴りかけたところで、ザ、と世界が乱れて、場面が切り替わるように、違う場所へと視界が移った。
建物の中らしい。緑の髪の双子と黒い髪の男がいて、これはすぐに緑玉とその姉翠玉、そして黒曜だと知れた。
黒曜は腕を組んで、ただただそれを眺めている。この夢は――タンジェは悟った。黒曜の、過去?
「――」
翠玉が黒曜に何かを告げている。共通語ではない言語らしく意味はまったく分からない。緑玉はトンファーを持ったまま入口を見ていて、それから振り返って、翠玉と黒曜に何事か告げた。
黒曜たちは外の様子を窺い、そのまま、静かに裏口から出て行った――。
タンジェは思ったまま尋ねた。
「てめぇの、過去か?」
「そうだ」
黒曜は短く肯定した。
「故郷の町が、……獣人の町が、襲われたのか? 人間に!」
黒曜の石の瞳がタンジェを見た。肯定とも否定ともとれない、意図も感情も分からない無表情。
タンジェはそれを勝手に肯定だと受け取り、そして、――この鉄のような男の過去に、血に倒れた同胞たちがあったことに、動揺した。だってそれはタンジェと同じだ。黒曜はあの<罪の鏡>で、故郷の村人の血にまみれたタンジェを見たとき、何を思ったのだろうか?
答えなんか分かるはずもない。それでも何かを言わなければ気が済まず、言いたいことの見当もつかないまま、タンジェは口を開き――声を出す前に、また場面が切り替わる。
雨の中。どこかの屋敷の前だった。黒衣だというのにそうと分かるほど血まみれの黒曜は、ゆっくりと誰かに歩み寄っている。
怯える男だ。さっき見た顔だ。獣人の目を抉っていた、あいつだった。
タンジェの呼吸が浅くなる。今朝がた黒曜が触れた胸元の奥、心臓が、そのときと同じく脈打つ。指先ひとつ動かせなくなった。
――復讐だ。
復讐の、場面だ。
黒曜はゆっくりと青龍刀を振り上げて、まず男の足を奪った。泣き喚き、命乞いをする男。黒曜は耳一つ動かさずに、淡々と、指、腕、耳、鼻と切り落としていき、最後に片目を抉った。抉った目を地面に落とし、静かに踏み潰した黒曜は、それから男の頭を叩き割った。
タンジェも、夢の中のオーガを、殺した。だが、あんな手斧で怒りに任せて急所を殴りつけるようなやり方とは違う。黒曜のそれは、本当にただ相手を苦しめるためだけの、単純で、丁寧な暴力だった。
雨と血に濡れた黒曜は静かに屋敷の中に入っていく。
やがて屋敷には火が放たれて、屋敷から出てきた黒曜は、粗末な服を着た緑玉と翠玉を連れていた。さっき緑玉と翠玉は黒曜と一緒に逃げていたはずだ。そのあとにはぐれたのかもしれない。過酷な逃走だったのだろう。
また場面が切り替わる。
曇り空の下。さっきと同じ町並み。今より幾分か若い黒曜が、傷を負った人間を数人、町に迎え入れている。
場面が切り替わる。傷を負っていた男たちはすっかり回復して、町を出たようだ。
場面が切り替わる。人間たちの襲撃。さっきから登場する男もその中にいて、簡単に獣人を殺した。そして、急所だけを的確に抉ったナイフは、死んだ獣人の目を抉り――。
繰り返している。
繰り返しているのだ。
黒曜は、夢の中でこれをずっと、繰り返しているのだ。
「宝石眼の一族の町だった」
と、黒曜は言った。
「宝石、眼」
「今は隠蔽魔法で隠している」
「……」
「俺が招き入れた手負いの冒険者は、俺たちの宝石眼に気付き、金に目がくらみ――のちに奴隷商を率いて町を襲撃した」
――宝石眼はとっくの昔に狩り尽くされて、生き残りはおらんって話ですぜ。
――東の町にごく少数いた民族がもつ、稀少な魔眼だよ。宝石眼の目玉は魔術的価値もあれば金銭的価値も高い。
――その眼はこの世のものとは思えぬほど美しくまばゆく輝く、名の通りの"珠玉"なのだ! 世のコレクターなら、喉から手が出るほど欲しい代物よ。
タンジェはぎこちなく、黒曜の目を見た。石のような瞳が見返してくる。
なんとか視線を外し、男が抉り出した獣人の目を見れば、確かにそれは――宝石のごとくまばゆく輝く、うつくしい目玉だった。
「ほとんどが殺されたが、俺は生き延び、」
まるでなんてことはないみたいに、黒曜は続ける。
「緑玉と翠玉と俺は、別々の場所で奴隷にされていた」
タンジェと黒曜の前で、黒曜たちがまた逃げていく。そして雨の中に切り替わり、黒曜は男を殺す。
「復讐を」
タンジェの声は掠れていた。
「したんだな」
「そうだ」
黒曜は淡々と言った。
「先ほどから何度も殺され、目を抉られている獣人がいるのが分かるか」
タンジェは数秒黙ってから頷いた。
「俺の親友で、緑玉と翠玉の義兄だ」
拳を握りしめる。
何も言えない。言えるわけがなかった。
自らの責で故郷が蹂躙され滅び、愛する人びとが殺され奴隷にされ、自分だけが生き残り――復讐を遂げたとて、黒曜はきっと空っぽなのだ。復讐して、それで本当に、黒曜の人生は「終わった」のだ。
黒曜は、長いエピローグを生きている。
「俺の……」
それでも、タンジェは言葉を絞り出した。
「俺の考えてることは……たぶん全部間違ってるけどよ……! てめぇが、」
何を感じても、何を言っても間違っていることは分かっている。黒曜がタンジェの言葉なんか望んでもいないことも。
だが、それでもここで、言いたいことがあった。
「てめぇがぼんやりこれを見てるのが気に食わねえ!!」
黒曜はタンジェのことをごく無感動の様子で眺めている。タンジェは血が上った頭の片隅で、俺ばかりが肩で息をして馬鹿みたいだなと思った。
「干渉できない。過去は変えられない」
「そうじゃねえよ!!」
タンジェは黒曜に掴みかかった。
「起きるんだよ!!」
胸ぐらを掴んで、だがタンジェのほうが背が低いので、見上げる形になる。
「てめぇは復讐をして、ケジメをつけた。だったらこんなもん見せられて、ムカつくだろうが!!」
「タンジェリン」
黒曜は静かにタンジェの名を呼んだ。
「分かるだろう。現実には、何もない。もう、すべて終わった」
「終わってなんかいねえ!!」
ほとんど割り込むようにして、タンジェは叫ぶ。
「こんなふうに、悪意をもって他人を夢に引きずり込むやつがいる。なら、終わってなんかいねえんだよ!!」
「誰しもに平等に与えられた加害なら、俺個人がそれに対抗する理由がない」
「俺にはあるんだ!!」
こんなものを見せられたとて、黒曜の心は、動かないのかもしれない。もう終わったことで、変えられないから、黒曜は平気なのかもしれない。だが、ふざけるな、とタンジェは思う。いったい、この世の誰に、黒曜の過去を辱める権利があるだろう?
タンジェは――その意図はなかったとはいえ――黒曜の見る悪夢を許可を得ずに見届けてしまった。ならばタンジェにはもはや、この悪夢の元凶をぶちのめすよりほかはない。そうでなければ慙愧にたえない。悪魔だろうが邪法だろうが、絶対にぶちのめさなくてはならない!
タンジェは突き飛ばすように黒曜の胸ぐらを放した。それから、
「黒曜、帰るぞ! 帰るんだよ!!」
手を差し出す。
「……」
黒曜は差し出されたタンジェの手を見つめている。その手を取る気配は、なかった。
タンジェでは不足なのだろう。当たり前だ。ただ戦闘訓練を師事するだけの、ただパーティの一員の、勝手に人の悪夢に入り込んで、勝手に怒り心頭になっている、それだけの存在だ。
――突如、ぐにゃりと世界が歪んだ。
黒曜がふいと空を見上げる。
この夢から醒めようとしているのだと、なんとなく分かった。サナギが術式を完成させたのだろう。
歪んだ世界にヒビが入りガシャンと割れて、地面が揺れる。地響きの中でも黒曜は微動だにしない。こちらに視線を戻し、何か言っているようにも見えたが、がらがらと崩れる景色に紛れて、全然聞こえない。
ああ、ちくしょう、とタンジェは思った。差し出したままの手を握りしめて拳を作る。
どうせ黒曜は、目覚めた途端に、この悪夢がまるでなかったかのように振る舞うのだ。だが、こんな仕打ちがあったなら、ヘコめ、悲しめ、怒れ、悔しがれよ、と思う。
黒曜が過去にきっと持っていたはずのすべての感情は、この町と町の人々と、あの親友だったという獣人とともに、失われてしまったのかもしれなかった。でも、じゃあ、それは取り戻せないのか? だったら俺が黒曜のために怒って、悲しんで、ヘコんで、悔しがってやるのに。そうして黒曜の感情や尊厳を守ってやるのに。だってそうじゃなきゃ、黒曜が救われなさすぎるだろう!
黒曜が同情なんか、タンジェに守られることなんか望んでいないことは分かっている。そもそも黒曜のほうが強いのだ。哀れまれ、守られる謂れはないだろう。
だがそんなことは関係ない。守りたいのはタンジェの勝手だ。だいたい、こいつはこんなふうに無防備にぼーっと自分の過去を眺めているようなやつなのだ。守る余地も隙もある。
――てめぇは俺は強くなれると言ったじゃねえか! ああ、言葉どおり強くなってやるさ。
――この手を取ってくれたなら、黒曜のために何にだって立ち向かって、ぶちのめしてやるのに!
<罪の鏡>の一件で黒曜がくれた言葉は、タンジェの心に深く残った。今朝方だってずっと黒曜のことを考えていたのだ。それで筋トレ中に怪我だってしかけた! そんなことを黒曜は知らないだろう!
無性にムカついてきた。元より悪趣味な悪夢に腹は立っていたのだが、だんだん、無感情の様子の黒曜にも苛立ってきた。理不尽なのは分かっている。だが、だって、タンジェがこんなに黒曜の言葉に心揺さぶられ、黒曜の過去に精神を乱されても、黒曜のほうにそんな気はいっさいないのだ!
「聞こえねえなら好都合だ、黒曜、てめぇに言いたいことがある」
苛立ち紛れの、ほとんど八つ当たりみたいなものだ。しかしもはや言わなければこの気持ちは収まらない。
口の動きが見えたのか、黒曜はタンジェの顔を見た。
「俺はてめぇが好きだ!!」
腹の底から叫んでやった。もっとも、向こうの声がこちらに聞こえていないのだ。この轟音の中なら、この声量とて、こちらの言葉も向こうに聞こえはしないだろう。
実際のところ、恋愛の気持ちかどうか、はっきりしたことは分からない。そういうことに縁のない生き方をしてきた。けれどもこの感情が『そう』なんじゃないかと考えたとき、しっくりきた。ああそうか、これが、と、納得できた。
きっかけはシンプルで、理由も単純だ。タンジェは黒曜がいてくれたら、どこまでも強くなれると思った。
黒曜の覚醒が近づき崩壊を始める世界で、タンジェは――この言葉が露と消えても、目覚めた先の現実世界ですべて忘れていても、それでいい、と思った。
こんな感情は復讐の役には立たない。むしろたぶん、邪魔だ。
だったらここに置いていこう。黒曜への憐憫も、苛立ちも、恋も、すべて、黒曜の過去とともに、ここに。
瓦解する世界は原形を留めず、崩落する地面から足を踏み外し、タンジェは現実世界へと落下する。
抵抗に意味はなく、その気もない。こうしていればいずれ目が覚める。
タンジェも、あるいは目覚めを望まなかったとして、――黒曜も。