分水嶺 5
- 2023/09/19 (Tue)
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買い物はほどなく済み、タンジェは宿――星数えの夜会――を目指す。まだ通りは人に溢れて、屋台は賑やかだった。
人々を避けながら通りを歩くのは、タンジェにとっては未だに一苦労だ。まっすぐ目抜き通りを抜けただけで幾分人通りは減り、そこからさらに街外れへ。数分も歩けば、少し自然の多い場所に出る。
木々の間に隠れるように佇む建物、それが星数えの夜会だ。
ここはもともとは天文台だそうで、星見の愛好家が集まるサロンだったらしい。今ではもうその愛好家たちも老いて、集まる者はいなくなったと親父さんが嘆いていた。親父さん自身がその星見の愛好家最後の一人だ、と。
扉を開ければ、まず食堂。親父さんは夕食の仕込み中らしい。キッチンでかまどにかけた鍋をみていた。タンジェが帰ってきたことに気付くと顔を上げ、スキンヘッドのいかつい外見に似合った不敵な笑みを浮かべる。
「おかえり」
「おう」
タンジェは短く返した。
星数えの夜会は、天文台としての役目を終えたあと簡単に改装されて、1階は食堂――昼はレストラン、夜は酒場になる――2階より上は宿泊施設になった。
親父さんは宿の責任者であり、コックであり、バーテンダーであり、そしてタンジェたち冒険者の身元引受人でもある、というわけだ。
次いで給仕の娘がやってきて「おかえりなさい!」と明るい声を出した。彼女は親父さんの実の娘で、食堂での給仕や宿の掃除なんかの家事全般を手伝っている。看板娘と呼べるだろう。親父さんも娘さんも、愛想のないタンジェにも分け隔てなく親切だ。タンジェは娘さんに片手を上げるだけで応じた。
買ってきたものを整理するため自室としてあてがわれた部屋へと引っ込む。2階にある宿の一室を、宿代を払って借りているのだ。宿に所属する冒険者はだいたいみんなそうしている。
自室は広くはないが、筋トレが趣味の男一人が住むには必要充分だ。
手早くランプに油を補充し、ナイフを研ぎ、古いロープを交換する。冒険のおり、タンジェはほかのメンバーに比べてやや荷物が多い傾向だ。山も森もダンジョンも、タンジェは正しく危険に思い、油断なく装備を整える。パーティメンバーとはぐれる可能性、山林での野宿――どんな最悪で過酷な状況でも生き残るために、一定の品質をもった道具は必要不可欠だ。幸いにして生まれた頃より天然の自然に鍛えられたタンジェは、荷物を抱えても長時間しっかり動ける頑強な足腰と体力も持ち合わせており、それらの道具の扱いも慣れたものである。
もっとも、一般的には身軽さを武器にするであろう盗賊役としては、明らかに過剰な荷物ではあるが……。
さて、しっかり荷物を準備し終えると、ほどよく夕刻に差し掛かる頃合いだ。
タンジェは冒険リュックを備え付けの小さなテーブルに置いて、階下に降りた。
――9月の夕刻は、少し冷える。涼やかな風が汗ばんだ身体を撫でた。
タンジェの振った訓練用の木斧が、勢いよく空を切る。
「ちっ!」
容易く回避された攻撃から二撃目を繋ごうとした。が、斧は力任せに振り回したせいで勢いよく外側へ逸れている。それでもタンジェの生来の並外れた怪力は強引に斧を切り返したが、そのときにはもう、相手はとっくに木製の片手剣をタンジェの首元に差し向けていた。
「悪くない動きだった」
こちらを見下ろす、感情の伺えない顔。元木こりのタンジェに戦闘を教えているのは、パーティのリーダー黒曜である。
場所は星数えの夜会の中庭。それなりの広さがあり、ひと気はなく、思いきり身体を動かしても危険がない絶好の場所だ。
「踏み込みが甘い。狙いも分かりやすく、避けやすい。だからこうして反撃を受ける」
くそ、とタンジェは毒づいた。
「だが、基礎の基礎は身に付いたようだ」
「てめぇに一発も喰らわせてねぇ……!」
「それは相手が俺だからだろう」
黒曜の言葉にはいっさいの謙遜も容赦もないが、黒曜とタンジェの力量差は明確である。タンジェは歯噛みする。
「……最初に比べれば見違えた」
「んなの当たり前だろうが!」
思いも寄らぬフォローじみた言葉だったが、ほとんど反射的にタンジェは食ってかかった。努力してきた、多少の技術向上は当たり前だ。そんなことを改めて言われるような、成長の見込みもないやつだと思われていたのか。
「……」
黒曜はタンジェを冷めた目で見下ろした。言い訳に類する言葉を改めて言い繕うこともなかったし、かといって噛みついたタンジェを諫めたり、咎めたりすることもなかった。
黒曜はまずもって他人と口論をすることはない。優しい気性というわけではない。こと日常生活において、自分の意見を通すことに、まるで興味がないのである。
黒曜はやがて「そうか」とだけ言った。
黒曜との日課のトレーニング――戦闘訓練は、朝と、タイミングが合えば夕刻に行っている。
タンジェは元木こり、当然だが戦闘に関して技術も知識も経験もない。だから半年前にふるさとの山村からここベルベルントに来てすぐ、戦闘を師事する相手を探した。紆余曲折はあったのだが、最終的に戦闘訓練を引き受けたのが黒曜だった。黒曜はその頃すでに星数えの夜会を常宿としており、その縁でタンジェもここに所属することになった、というわけである。
パーティを組んで実際に冒険に出るまでの3ヶ月間の基礎訓練は、実にスパルタであった。黒曜は他者に興味が薄いぶん、手加減を知らないらしかった。が、自他に厳しい気性のタンジェにとって、そのくらいでなければ訓練の意味はない。相性はよかったと思う。
しかし、それを終えてようやく冒険者としてやっていける立場になったというのに、その先が盗賊役とは……。
もっとも、黒曜との戦闘訓練に無駄なことは何一つなかった。
黒曜は同じパーティにいることを前提にタンジェに技術指南をしてくれている。パーティから離れたら恐らく戦闘訓練もそれまでだ。この特権を失ってまで異動をする価値は、少なくともコンシットのパーティにはない。