カンテラテンカ

堕天使の望郷 2

 気付けばパーシエルは木々の茂る林の中にいて、布1枚を羽織った状態で彷徨っていた。
 波の音がどこかから聞こえる。おそらく、人間界にある"海"というものだろう。パーシエルが加護を与えていた村には海がなかったから、それだけで知らぬ土地に追放されたことが知れた。
「何故、私がこんな目に……!」
 とにかく空腹だった。ヒトに堕ちた身では、生命維持に食事が必要なのだ。
 不意に、林の木々の中から気配がして、振り返る。背に籠のようなものを背負った老婆がいた。
「こんなところに若い方がいるのは珍しいですね」
 老婆は別に驚いた様子もなくそう言った。
「……食事がとりたい」
 パーシエルは老婆に告げた。
「もし何か持っているなら、私に捧げよ」
「ええ、構いませんよ」
 老婆は迷わず答えて、背の籠を降ろした。何か作物が入っているのかと思ったら、中にいたのはビチビチと跳ね回る魚だった。
「とはいえ生で差し上げるのもなんですから、私が何かお作りしましょう」
「ふむ。許可しよう」
 老婆は「では」と言って、パーシエルに籠を手渡した。魚がビチビチ跳ね回っている籠を。
「お持ちになって」
「何だと……!? わ、私に持たせるのか!?」
「この老いた婆の代わりに魚を運んでも、罰は当たりませんよ。さあ行きましょう」
 天使相手に罰うんぬんを語るとは! 淡々と告げた老婆に、パーシエルに対する畏れはなさそうだ。
 もっとも、ヒトに堕ちた身である以上、天使の威光は限りなくないのは事実である。老婆は本当にパーシエルに籠を渡したまま歩き出した。
 まさか、人間にこんなものを持たされる日が来るなんて。屈辱的だが、腹は減っている。パーシエルは仕方なく老婆について林を抜けた。

 ほどなくついた村は小さく、海に近い。
 老婆は村人数人とすれ違い、あいさつされては返している。その村人たちはパーシエルの姿を見るときょとんとして目を瞬かせた。だが深く追求する者はいない。あまり深いことを気にしない村柄のようだ。
 老婆の邸宅につくと、老婆はパーシエルから籠を受け取り、テーブルにかけるよう言った。老婆は水瓶から汲んだ水を出し、「おつかれさまでした」と言った。
「無警戒なことだな」
 パーシエルは水を遠慮なく飲み干してから、
「私がどこの誰かも知らんだろうに」
「そうですねえ」
 てきぱきと魚を運び、キッチンで調理を始める老婆。動きに危なっかしいところはない。
「もし強盗なら、それはそれで構いませんよ。どうぞこの婆が後ろを向いている間に、家探しでもなさってくださいな」
「私は強盗ではない! そんな下品な真似はせん!」
「ならいいじゃありませんか」
 調子が狂う。真意の読めない老婆だ。
「……料理はまだなのか?」
 尋ねると、老婆は、
「そんなにすぐにはできませんよ」
 そうなのか。料理は、そんなにすぐにできるものではないのか。
 今までは食べたいときに捧げられたものを食せていたというのに……本当に、面倒なことになった。
「何故、私がこんな目に」
 もう一度、思わず呟いてしまった。老婆に聞こえたかは知れない。

★・・・・

 ヒトの時間感覚に慣れないパーシエルにとって、わずか45分がどれほど長かったことか。天使でいた折には、2ヶ月も瞬く間だったというのに。
 腹の音が鳴るのを聞くのも、空腹に口数が減るのも初めてだった。よほどこの家から出て行こうかとも思ったが、かといってほかに食事のとれる場所に心当たりはない。
 老婆はようやくパーシエルの座るテーブルに料理を置いた。魚の頭が四方に整然と突き出たパイだった。
「……何だこれは?」
「スターゲイジーパイという料理ですよ」
 中央に星型の焼き色がついていて、見た目は愛らしい。
 老婆は私の前でパイを切り、小皿に取り分けてくれた。いい香りがする。初めて見る料理で戸惑いはあったが、香りがいいなら食べられるはずだ。
 これもまた初めて食べるものである。そのパイは素晴らしく美味だった。
「美味だ!」
 パーシエルは老婆の顔を見て思いがけず大きな声を出した。
「そうですか」
 老婆は微笑み、
「貴方が運んでくれたニシンで作ったのですよ」
 とだけ告げた。
 パーシエルは変な顔になった。なぜ今、その話をしたのだろう? 味に影響する情報ではない。けれども何故か気分は悪くはなかった。
 無心でスターゲイジーパイを食べ切るパーシエルを、老婆はずっと微笑んだまま眺めていた。
「老婆よ、褒めてやろう。名は?」
「マリスと申します」
「私はパーシエル」
 聞き覚えは? と尋ねると、
「ありません」
 と、淀みなく答え、立ち上がった。
「さあパーシエル、片付けをしますよ。お皿をお運びなさい」
「ん? ……ん!?」
 キッチンに向かうマリスの背を見て、
「私がか!? 何故!?」
 尋ねると、マリスは振り返り、
「働かぬ者に与える寝床はありませんので」
 容赦なく言った。

 ヒトはこれを一宿一飯の恩、と呼ぶのだろう。確かに行くあてのないパーシエルにとって、腰を落ち着ける寝床は必要だった。
 マリスに従いながら慣れない皿洗いを始め、パーシエルは水を張ったタライに自分の顔が映ったことに気付いた。同時に、自身が青ざめたのも分かった。顔面に、刺青が施されている。口を模した醜悪な刺青だ。口の意匠――すなわち暴食の罪を表しているのだろう。悪趣味な、とパーシエルは顔を歪めた。
 この刺青は、天界に還れれば消せるものだろうか? 髪の色も目の色も、まるで血を吸ったかのようにくすんでいる。
 水タライの中の自分と見つめ合っていても、マリスは特に急かすことなく湯を焚いたり寝床を整えたりした。おそらく通常マリスがかけるであろう時間の倍以上の時間をかけて、ようやくパーシエルが皿を洗い終えると、マリスは湯に入るよう促した。そこでパーシエルはまた自身の体中にも刺青があるのを見て、少なからず気落ちした。

 天界から堕とされた身であることが知れたら、パーシエルにとってそれ以上の汚名と屈辱はない。
 天使であることを秘匿しながら、なんとか天界へ戻る方法を探さねばならない。
 そして堕天を撤回させなくては。そのためには……。

 そのためには、どうしたらいい?

 それでも、夜は来る。ヒトには睡眠が要る。天使であった頃は想像もできなかった布団というものの存在、これがヒトの身にはあたたかいと、初めて知った。

<< >>

プロフィール

管理人:やまかし

一次創作小説、
「おやすみヴェルヴェルント」
の投稿用ブログです。
※BL要素を含みます※

…★リンク★…
X(旧Twitter) ※ROM気味
BlueSky
趣味用ブログ
Copyright ©  -- カンテラテンカ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Photo by momo111 / powered by NINJA TOOLS /  /