- 2024.03.29
神降ろしの里<前編> 8
- 2024.03.29
神降ろしの里<前編> 7
- 2024.03.29
神降ろしの里<前編> 6
- 2024.03.29
神降ろしの里<前編> 5
- 2024.03.29
神降ろしの里<前編> 4
神降ろしの里<前編> 8
「私は集落で暮らすリザードマンの一人で、その日は集落を襲ってきた冒険者と戦っていた。珍しいことではない、冒険者側からすれば、通りがかりに討伐でもしてやろう、くらいの気持ちだったのではないか」
ラケルタの言葉はかなり衝撃的ではあったが、語っている本人に悲壮感はなく、ごく淡々としていた。
「冒険者と言っても練度の低いパーティで、人数も4人だった。4人相手なら私一人でも返り討ちにできる。実際、3人は殺した」
言ってしまえば、リザードマンは妖魔である。冒険者と妖魔の間で生死をやりとりするのは当たり前のことで、日常だ。ラケルタのほうもそこをどうこう言う気はないらしく、
「残りの一人は召喚師だったようだ。せめて私に一太刀、ということだったのだろう、召喚術を放った……と同時に、私はその召喚師を殺してしまった。召喚自体は成立したらしく、召喚されてきたのが……」
「らけるだったってことか」
「召喚師を斬るため目の前まで近付いていた私は、召喚師の目の前に召喚されてきたらけると重なり、合体してしまったようだ」
なるほど、「召喚の際にたまたまその場にいた『何か』と、情報化・再構築されたらけるの肉体がくっついてしまったんだろう」というのはサナギの言葉だが――まったく、大正解だった、というわけだ。
「未熟な召喚師の、死に際の召喚か……」
そのサナギは難しい顔をしている。
「相当めちゃくちゃな召喚術だっただろうね。だからこそ、誰も知らないような世界の、戦う手段もないらけるが召喚されてしまったのだろうけど。らけるとラケルタが融合してしまっているのも複雑さに拍車をかけている。万が一、本人に会えても還せるかどうか怪しくなってきたな」
「そうか……」
「そもそも、ラケルタとらけるを引っぺがすことはできるのかい?」
パーシィが口を挟む。
「らけるだけを故郷の……ニッポンと言っていたっけ。そこに還すわけだろう?」
「こういう融合の仕方は初めて見るからなぁ……奇跡的なバランスで人格が共存しているみたいだけど、ラケルタのほうは身体を失っているようだし」
ラケルタが知性ある妖魔であったことが、らけるとラケルタにとって幸か不幸か、とサナギは呟いた。
「私は最悪どうなっても構わん。らけるを無事に家に帰してやれるならな」
「やけに協力的じゃねえか」
ラケルタの殊勝な言葉を、タンジェが訝しむ。らけるもだが、ラケルタだって被害者だ。身体を失っている分、ラケルタのほうが迷惑を被っているように見える。ラケルタはらけるを恨んでもおかしくはないし、最悪、このままらけるの身体を乗っ取って暮らすという手段も取れるはずだ。故郷であるリザードマンの集落には戻れないかもしれないが、あの剣の腕なら冒険者なり何なりで生きていくことはできる。
「そうだな。らけるの人格を殺して私がこの身体を使うことを、考えなかったわけじゃない」
事実、ラケルタにもその考えはあったようだ。隠し立てしないのは好感が持てる。だが、
「何故そうしない?」
タンジェが疑問に思ったことを、先に黒曜が尋ねた。ラケルタは即答する。
「らけるが『いいヤツ』だからだ」
腕を組み、タンジェは難しい顔になった。らけるが、いいヤツ――いいヤツか。まあ、確かに悪いやつではない。
「何にせよ、私の身体は融合の段階で消滅している。死んだも同然で、命を拾えたのはらけるの身体があったおかげ、と言えるのではないか。らけるは命の恩人でもある。ならば私がらけるを殺すのは道理が通らんよ」
サナギが顔を綻ばせた。
「きみもよっぽど『いいヤツ』じゃないか」
「はっ、俺からすればお人好しすぎるくらいだぜ」
タンジェが口を挟むと、サナギが生暖かい笑顔でタンジェを見た。なんだよとタンジェが睨むと、サナギは笑んだまま「いや」と短く言った。
「……ともかく、らけるのことをよろしく頼む。今回はらけるの意識がなくなったので表に出られたようだが、常に私がらけるを守ってやれるとは限らない」
「依頼人だ。心配するな」
黒曜が事務的な返事をする。その回答でラケルタは満足したらしく、
「そろそろらけるも目を覚ましそうだな。また会えたら会おう」
「らけるに戻るのか? 自由に戻れるもんなのかよ」
タンジェが尋ねると、
「ああ。らけるが起きている間は、私は出しゃばらない」
「そうかよ。静かでいいと思ったんだがな」
「ははは。らけるは貴殿のことを慕っているよ。タンジェリン」
言葉の内容は釈然としないものだったが、ラケルタに文句を言っても仕方がない。それでも無意識に嫌そうな顔になったらしく、それを見てラケルタはまた笑った。
ひとしきり笑ったあと、ラケルタは目を閉じる。そしてもう一度開いたときには、その目が暗めの茶色になっていた。
「タンジェー!」
瞬間、タンジェに猛然と飛びついたのは、案の定というか、当然ながららけるで、
「し、し、死ぬかと思った! 怖かったよお!」
そう言って顔をくしゃくしゃにして泣くもんだから、タンジェはらけるを引き剥がして引っぱたいた。
「あんなところにいるほうが悪ぃんだよ! 馬鹿野郎!」
「えぇん、タンジェが叩いた!」
まるきり子供だ。タンジェは頭を抱えたくなる。――やっぱりラケルタのほうがいい!
神降ろしの里<前編> 7
手始めに近くの触手に斬りかかり、勢いを付けて斧を振り下ろした。手応えはあるのだが、巨大すぎるのと弾力が邪魔して両断しきれない。ズブズブと沈む刃に体重を掛けて切り落とそうとしていると、
「危ない!」
背後から別の触手が伸びてきていた。職種が叩きつけられる寸前、間に滑り込んできた黒曜が青龍刀を一閃すれば、触手の先が吹き飛んでいった。
同時に斧の刃が触手を落とし、勢い余った刃が甲板の板に僅かに沈む。それを引き抜いて振り返りながら、
「助かった、黒曜!」
黒曜は特に反応しなかった。黒曜の淡白なさまはいつものことだ、気にせず次に向かう。何せ、次から次に触手は伸びてくるのだ。
斧を構えて迎え撃とうとするが、クラーケンがちかちかと発光したかと思うと、身体がビタリと固まり、動けなくなった。斧を取り落とす。テレキネシス……! それからタンジェの身体はぐん、と上に引っ張られた。
「……ぐ!」
それから勢いよく甲板に叩きつけられる。持ち上げられたのがもっと高い位置だったら落下死していたかもしれない。それでも背中を強く打ち、痛みに顔を歪めた。口の中に潮が入って咳き込む。
倒れ込んだタンジェを叩き潰そうと触手が迫る。タンジェは甲板を転がって回避し、転がった先の斧を素早く取り上げた。もし動けなかったらペシャンコになっていただろう。自分の頑丈さに感謝する。
「くそっ! 何本あるんだよ!」
「イカなんだから10本だよ! ちなみにそのうちの2本は触腕っていうもので、正確には脚はタコと同じ8本さ!」
要らない雑学を披露したサナギが、太股のホルダーから抜いた銃を構えている。タンジェにとって銃といえば猟銃だが、サナギのそれは拳銃だ。銃口が明るく光ったと思うと、ほんの僅か遅れて銃声がして、クラーケンの触手の一本に銃弾がめり込んだ。
だが、クラーケンに対して、銃弾が小さすぎる。大したダメージにはならなさそうだ――と思った瞬間、弾が弾け、爆発する。大きな音と同時に爆煙が立ち上り、タンジェの目の前に爆砕した触手が落ちてきた。
「はっ、やるじゃねえか!」
「お手製の爆裂弾だよ! 広いとこじゃないと仲間を巻き込むじゃじゃ馬だけどね」
これだけ開けた場所なら誤射はないだろう。明確に危険物だが、今回ばかりは助かった。
「俺が触手の気を引くから、とっととやっちまえ!」
「うん、あと2発しかないんだ」
「馬鹿野郎!」
触手はあと7本ある。
テレキネシスと触手の組み合わせは厄介だが、テレキネシスの力自体はそれほど強くないらしい。少なくともヒトの質量を数メートルを超えて高く持ち上げることはできないようだ。だからこそ、確実に獲物を仕留めるためにあんなデコイを用意したのだろう。
タンジェの後方で、伸びてきた触手を回避したアノニムが棍棒を振り下ろしている。弾力があるというのにそれを無視し、怪力で強引に触手を甲板に叩きつける。アノニムはそのまま追い打ちをかけようとするが、テレキネシスで身体が一瞬浮き、甲板に落とされた。タンジェがあれを食らった体感では、テレキネシスが解除されるのは甲板にぶつかるほんの一瞬前だったが、アノニムはその一瞬で受け身を取り素早く起き上がった。
そのまま触手の吸盤を片手で鷲掴んで動きを止めると、イカ足のタタキでも作る勢いで滅多打ちにした。――さすがに強い。
アノニムの背後に勢いよくもう一本の触手が振り下ろされる。アノニムにとって回避は容易なはずだが――アノニムは回避行動をとらず、さりとて防御するでもない。何故か反応が明らかに遅れている。
カバーに入るにも間に合わない。アノニムに触手が叩き付けられようとしたそのとき、
「<プロテクション>!」
パーシィの言葉と同時にアノニムの眼前に光が集約して、それが不可視の壁を作り上げた。バァン、と大きい音がして壁にぶち当たった触手が跳ね返る。
光の壁は長くは続かないらしく、光の粒が砂のように消えていった。触手が怯んだ隙を狙い駆け込む。斧を叩きつけると、今度は一回で両断でき、切り落とした触手はびちびちと跳ね回った。
「大丈夫かい、アノニム!」
「おう」
アノニムは短く応じた。先ほどのタンジェへの黒曜のフォローは完璧だったし、アノニムの攻勢は衰えていないのだが、タンジェはなんとなく黒曜とアノニムは本調子ではないらしいことを察した。問い詰めたいが戦闘中だ。仕方なく舌打ちして、
「黒曜とアノニムは下がってろ!」
「何故……?」
黒曜が本気の声で呟いた。自覚がないのか、あるいはタンジェの読みが外れているかのどちらかだろう。だが、タンジェは自分の思考を言語化するのはかなり苦手だ。黒曜の疑問に答えるために言葉をまとめていたら戦闘がままならない。思考に気を取られた一瞬の隙に、タンジェの真後ろに滑り込んだ触手は、サナギの爆裂弾で弾け飛んだ。
タンジェの視界の端で踊るようにくねっていた触手が、不意に全然関係ない方向へと伸びていった。そちらの方向には誰もいない。
いや、いた。触手が向かったのは、このボロ船に寄せていたアビゲイル号で、そのアビゲイル号の船首にアビーとらけるがいた。まさか、あの化け物イカを見ても逃げず、のんびりそこに留まっていたのか! タンジェは咄嗟に叫んだ。
「馬鹿! 下がれ! 逃げろ!」
目を見開くアビーとらけるには巨大な触手が迫る。パーシィのさっきの防御壁――いや、指示なんか間に合うわけがない。
アビーとらけるが触手に叩き潰されようとしたまさにそのとき、らけるが突然、アビーの腰にあった護身用のダガーを引き抜いたのが見えた。それかららけるが何をしたのかまでは、タンジェには目視できなかったが――触手は何故からけるとアビーの真上でぶっつり両断され、大きな音を立てて、アビゲイル号の甲板に落ちて跳ねた。
何が起きたのか、タンジェには皆目見当もつかなかった。サナギの爆裂弾かと思ったが、違う。炸裂弾はカウントが正しければ残り1発で、今まさにタンジェに迫っていた触手にそれが叩き込まれたからだ。
らけるがタンジェを見上げてくる。らけるの金の瞳が霧の中でいやに鮮明だ。――金色?
「あと3本!」
サナギが大きな声で言ったのでタンジェは我に返った。
らけるのほうは気になるが、とりあえず今はこのクラーケンを無力化しなくてはならない。だが、さすがにこれだけの触手を失ったクラーケンは食欲も失せたのか、突然大きな音と飛沫を上げて海に潜り込んだ。それでもタンジェたちはしばらく、クラーケンが海の底からこの船を突き上げでもしないかと緊張して構えていた。テレキネシスはたぶんこの船そのものをどうこうするほどの力はないだろうが、油断はできない。
辛うじて海上から見える大きな影が、霧の向こうへ去って行くのを見て、ようやく息を吐く。
「何とかなったか」
クラーケンの触手から滴った海水はおびただしく、タンジェたちは頭から潮まみれになっている。気持ち悪い。
突っ立って青龍刀を構えたままの黒曜に、
「おい、もう行ったぞ。すぐにアビゲイル号に戻……」
言い切る前に、黒曜が突然、嘔吐した。
「うお!」
吐いた量はほんの僅かだったし、ほとんど胃液だったようだが、
「だ、大丈夫かよ……?」
さすがに心配した。黒曜は無表情のまま「問題ない」と言った。黒曜はもともと、やや血色が悪い。特別、顔色が悪いかどうかは判別がつかなった。
大きな波が来て船が揺れる。と同時に、視界の端でアノニムがふらついて膝をついたのが分かった。パーシィが駆け寄っている。
「アノニム! よろけるなんて珍しいな……」
戦闘中でもアノニムが膝をつくところなんて見たことがない。黒曜とアノニムの様子を訝しがっていると、
「ははあ、酔っているね」
とサナギが言った。
「酔って……?」
「船酔い。緑玉と同じさ」
獣って船酔いするらしいよ、獣人もするんだねえ、とのんびり続けた。なるほど、二人が不調であるというのは、あながちタンジェの思い違いでもなかったらしい。それでもあれだけ戦えるのは尋常でないが、とはいえ、
「おい、なんで言わなかった。具合悪ぃなら緑玉と残ってるべきだったんじゃねえのか」
黒曜を咎めると、黒曜は目を瞬かせて、
「具合は悪くない」
「吐いただろうが!」
「吐いていない」
「そこは誤魔化せねえよ!」
タンジェが黒曜に、パーシィがアノニムに手を貸してやりながら、一同はアビゲイル号へと戻った。らけるとアビーのことも気になる。
クラーケンとの戦いの最中に、最初に船の間を渡した板は壊れていたが、アビーと水夫がすぐに代わりの板を用意してくれた。アビゲイル号に戻るとこちらも甲板は海水まみれだった。もっとも、すでに数人の水夫が甲板の掃除を始めていたので、これが原因で沈むことはないだろう。
「無事かよ?」
らけるとアビーに尋ねる。
「ああ」
らけるはすました顔で言った。顔を覗き込むと、やはり目が金色だ。
「てめぇ、そんな目の色だったか?」
タンジェは他人の外見を気にするほうではないが、らけるはもう少し地味な色の目をしていたと思う。らけるは少し黙ったあと、
「目の色が変わるのか。そうか……自分では分からんが……」
と、妙なことを言った。訝しく思い顔を歪めると、
「待って。もしかして、らけるの中の『もう一人』?」
サナギがそんなことを言い出した。らけるの中のもう一人? たまにらけるが独り言を言っているとき、本人が『会話している』と主張している、あれか。
「そうだ。名はラケルタという」
らける――いや――ラケルタはそう答えた。
「……そんな二重人格みたいになるもんか?」
「そもそも召喚位置がずれてくっついちゃうなんてのがイレギュラーだからね。召喚術は複雑な術だし、こうなってもおかしくはないかも」
理解は及ばないが、サナギが言うなら、そういうこともあるのだろう。
ラケルタは金色の目を伏せて、手に持っていたアビーのダガーを弄んだ。
「らけるとの会話はできたのだが、今まで私がらけるの身体の主導権を握れたことはなかったし、私にその意思もなかった。あのクラーケンの触手がよほど怖かったと見える。らけるが失神したと思ったら、この身体が動かせるようになっていた」
ラケルタはダガーをアビーに返した。
アビーは変な顔をしてラケルタの顔面を見ていたが、さりとて困惑した様子もなく、素直に受け取り、すぐさま水夫たちへの指示へ向かっていった。
「あの短剣でクラーケンの足を両断するとは、相当な剣の腕だ」
黒曜の言葉に、ラケルタは痛み入る、と恐縮したあと、
「確かに剣に関してはリザードマンの集落では私が一番の使い手だった」
もうらけるじゃなくてこいつでいいんじゃねえか、と思ったが、口には出さなかった。タンジェはパーシィとは違って、言っていいことと悪いことの分別はある。
「リザードマンなんだ。らけるが召喚されてきたときのことは覚えている?」
サナギが尋ねると、ラケルタは頷いた。
「貴殿の期待に応えられるかは分からないが、らけるよりは知っているだろう」
「話を聞かせてもらおう。それに、黒曜とアノニムは休んだほうがいいよ。俺たちも着替えたいしね」
一同、そうだな、と答える。
霧も晴れつつあるようだ。近く再出航できるだろう。
神降ろしの里<前編> 6
航海は順調だったのだが、8日目ともなるとトラブルなしというわけにもいかない。今日はいやに霧が出ていた。
タンジェたちは大人しく船室で過ごしている。悪天候時に甲板になんか出ていられるわけもない。ましてやタンジェたちは海に関しては素人なのだ。
とはいえ、二週間の余暇を潰せるような娯楽はほとんどない。サナギは文庫本を一冊だけ持ち込んでいたが、早々に読み終わったららしい。らけるとの会話を小耳に挟んだが、この文庫本も繰り返し読み返しているもので初見ではなく、何度読んでも面白いから今回持ってきた、ということらしかった。
当然、読書なんか趣味ではないから、タンジェは道具がなくてもできる筋トレをしている。腕立て伏せをするタンジェを面白がって、その背にサナギやららけるやらが代わる代わる乗るなどしていた。負荷が程よく、タンジェとしては悪い気はしない。
緑玉をはじめとした黒曜やアノニムといった獣人組はいつにもましてやけに無口で、船室に設けられた円い窓から外をぼんやりと眺めたり、居眠りをしたりしている。
汗だくになった身体を軽く拭いていると、廊下がにわかに騒がしくなった。アノニムが面倒そうに瞼を上げる。
「アビー姐さん!」
「分かってるよ! 冒険者どもを呼んできな!」
扉越しでも聞こえるその言葉に、一同は顔を見合わせた。
「冒険者さん!」
すぐさま船室の入口が開いて、水夫の一人が飛び込んでくる。肩で息をしたその男は、タンジェたちを見回して、真っ青な顔でこう言った。
「ゆ、ゆ、ゆ、幽霊船でさァ!!」
手早く装備を整えた黒曜一行――少し悩んだが、ダウンしてる緑玉はそっとしておくことにした――は、急いで甲板に向かった。
ミルク色の霧は濃く、手を伸ばせば指先が見えないほどだ。それでもタンジェたちは互いを見失わないようになるべく寄り合いながら船首へと近づいた。
先に霧の向こうを眺めていたアビーが振り返り、「来たね」と言った。それから、霧の向こうを指差す。
大気の動きでゆっくりと霧が回る。うねるように、ちぎれるように霧が少し晴れたその合間に、確かに、ひどく汚れた船が鎮座していた。
「幽霊船だ……」
らけるが言った。タンジェはぎょっとしてらけるを見た――いや、てめぇはなんで来てるんだよ。タンジェがらけるに船室に戻れと言い含める前に、
「いや、アンデッドの気配はしない」
まっすぐ船を見つめたパーシィが告げる。
「たぶん、単なる漂流船じゃないか?」
「こんなに幽霊船の雰囲気なのに!?」
パーシィが言うなら、アンデッドはいないだろう。パーシィの人となりについてはともかく、元天使とやらのレーダーとでも言うべきか、アンデッドの探知能力は信用していいはずだ。もっとも、ラヒズの正体はギリギリまで見抜けてはいないのだが、あれは向こうの正体を隠す能力が上回った、ということなのだろう。違和感自体は覚えていたようだし。
ともあれ、タンジェは、
「霧が出てるときに、たまたまボロい船を見つけたってだけの話だろうが」
まあそうなんだけどね、とアビーは腕組みして言った。
「野郎どもがビビっちまってね。悪いけど、少し中を見てきてくれないか。本当に漂流船なら、中に生き残りがいるかもしれないしね」
これは乗船の対価の一つだ、断る理由はない。
アビゲイル号をギリギリまで漂流船に近付けてもらい、黒曜一行は板を渡して漂流船へと乗り移る。らけるにはアビゲイル号に残るように言う。さすがのらけるも青い顔で頷いた。
漂流船は、アビゲイル号より一回り小さいくらいの船だ。タンジェはほかのみんなを船室前のデッキで待機させて、盗賊役として、先に船室の様子を探った。扉は半壊していて、鍵はかかっていない。慎重に開ける。
タンジェの目に入ってきたのは、まず、鍋だった。簡易キッチンが取り付けられた船室だ。火が焚かれている。目に入った寸胴の鍋は湯気を立てていて、何かが煮えているのが分かった。まな板には、びちびちと跳ねる魚が載せられていて、包丁まで準備があった。
「……?」
――誰か、いるのか?
困惑はしたが、室内に踏み入り、アンデッドらしい妖魔がいないことを確認する。ついでにキッチン内に人間がいないことも分かった。
「どうだ?」
黒曜の小さな声が甲板から聞こえてきた。
「誰もいねえな」
キッチンから顔を出して返事をする。
「だが、なんか変だ。火が焚かれてるし、料理をしていたみたいな形跡がある」
「もしかして隠れているのか?」
パーシィが不思議そうな顔をした。キッチンには入っていないとはいえ、かなり近くにいるパーシィが不浄の霊的な存在を感知していないのなら、まずもってゴーストの類はいないだろう。
「いや、人の気配はねえ。……気味が悪いぜ」
タンジェは感じたことをそのまま言った。
とりあえず安全とみた黒曜たちがキッチンに入り、ともに探索を進めることにする。
「煮えてるのは……」
サナギが寸胴鍋を覗き込む。
「お湯……かな? 具材らしきものは入ってないね」
湯気で見づらいが、確かに単に湯を沸かしているだけに見える。大きな寸胴鍋を使ってこんだけの湯を沸かすなら、それなりの量の料理を作ろうとしているということだ。そんなにたくさん人がいる、のだろうか?
「魚も獲れたてだな。生きているし」
びちびちと跳ねる魚をパーシィがマジマジと見つめている。
「だが、人の気配はしない……」
黒曜の言うとおりである。少なくともキッチンには誰もいない。タンジェはいったんキッチンを出てデッキに戻り、別の通路から少ない船室を見て回った。だが、やはり人らしい気配はなく、キッチン以外に生活の痕跡も見られなかった。
「誰もいねえ」
キッチンに戻り報告すると、黒曜は少し考え込んだようだった。パーシィが、
「不審な船だが、やはり幽霊船ではなさそうだ。アビーには放置して進むように言うかい?」
その言葉に、黒曜が口を開こうとしたときだった。
「あ……!!」
突然サナギが大きな声を出した。
一同はサナギが見つめているほうを反射的に見て、それからすぐに、サナギの発声の原因を理解した。
キッチンの円窓から、巨大な目が、こちらを見ていた。
認識し、理解して、一瞬。一同はキッチンから出ようとしたが、間に合わない。
丸太のような太さの、うねる白い触手が入口から伸び出てくる。それに一抱えほどもある丸い吸盤がついているのを見れば、白いものの正体は明白だ。
「クラーケンだ!!」
窓からこちらを覗いていた巨大な瞳、その持ち主は化け物のような巨大イカだ。クラーケンといえばタコであることが多いが、触手の色を見ればイカ寄りなのは明白である。
伸ばされた触手がキッチン内でびちびちと跳ね回り、タンジェたちを掻き出すような仕草をする。まるでビンの底に残ったジャムを掻くスプーンのように。あんなものを叩きつけられたら身体がひしゃげてしまう。
「……狭すぎる!」
キッチンはかなり狭い。回避に限界がある。キッチン内で暴れられると、保たない。キッチンそのものも、タンジェたちもだ。
タンジェとアノニムが同時に同じことを考え、タンジェは斧を、アノニムは棍棒を振りかぶり、触手に叩き付けた。――弾力。
「っち……!」
揺れる船上では踏ん張りが効かず、力を込めづらかったため、攻撃の勢いが足りなかったのだろう。あまりダメージにはなっていないらしい。
もう一発、と斧を振りかざしたとき、キッチンの隅にいたサナギが叫んだ。
「火! 火を当てて!」
それには黒曜が素早く対応した。キッチンで焚かれていた火から一本、素早く薪を抜き取ると、点火したままのそれを触手に押し当てた。
ジュウ、と焼ける音がして煙が立つ。イカが焼ける匂いも立つ。間髪入れずパーシィが叫んだ。
「すごくいい匂いがする!」
「言ってる場合かよ!」
触手はのたうって、ちかちかと発光した。突然、煮えていた鍋がひとりでに持ち上がり、タンジェたちに向かってぶちまけられる。狭すぎる船内ではあるが、かろうじて熱湯の直撃は避けた。それでも肌を露出した部分に飛沫がかかり痛みが広がる。
「なんだ、今のは!?」
「テレキネシス……か!?」
サナギが震える声で言った。
「この海域のクラーケンがそんな特殊能力を持っているなんて!?」
触手はキッチンから勢いよく引っ込んでいった。その隙にタンジェたちは甲板に出る。荒れ狂う波の上で、クラーケンが怒ったように触手を踊らせている。サナギが、
「信じられない……! この船はデコイだ! このクラーケン、テレキネシスを使ってあたかも誰かがいるような不審なキッチンを作り、そこに俺たちを誘き寄せたんだよ!」
「そんなのアリかよ……!?」
サナギの言葉を肯定するでも否定するでもなく、クラーケンは触手を船に絡ませた。木造の船がミシミシと音を立てる。
「ちっ……! やるしかねえか!」
タンジェは斧を構え直した。アビゲイル号に危険が及ぶ前に、こいつを倒すしかない。
神降ろしの里<前編> 5
タンジェは船に乗ったことはない。故郷ペケニヨ村近くの川や池でボートに乗ったことくらいはあるが、こんな大きな船は見るのすら初めてだった。
「こんなデカいもんが水に浮くのか」
船に乗り込みながら呟くと、サナギが「浮力があるからね」と答えた。
「ものには密度というものがあって、水に沈むかどうかはそれが密接に関係している。木は密度が水よりも小さいから、沈む力よりも浮き上がろうとする力のほうが強いんだよ」
経験として、木が浮くこと自体はなんとなく知っていた。説明されてもいまいちピンとこないが、タンジェは「なるほどな」と返事をした。
もっとも、とサナギは続ける。
「浮かぶ理屈があったって、事故があれば船は沈む。俺たちも船上のことを手伝いながら、救命用の浮き輪なんかの位置を確認した方がいいね」
「冒険者ってのは意外と慎重派だねえ」
指示ついでに、たまたま近くを通りかかったアビーがこちらの話に口を挟んだ。
「きちんとアタイから緊急時の手順をレクチャーするさ。何かが起きてから教えるんじゃ遅いからね!」
と、胸を叩くので、その言葉には甘えることにする。出航の準備が整うまでの時間に、アビーから緊急時の対応について叩き込まれた。
誰がどの対応をすることになってもおかしくはない。冒険者であるタンジェたちにとって、緊急時の心構えをするなんてのは慣れたものだ。今回は慣れない船上であるため普段よりさらに緊張感があったが、それに輪をかけて、らけるはずっと緊張した面持ちだった。
やがて、にわかに船上が騒がしくなり、出航が近づく。
タンジェたちは船着き場からアビゲイル号が離れていくのをデッキで見届けた。
太平倭国への航路は実に14日におよぶ。二週間も海の上、というのは変な感じだ。
タンジェたちは寝泊まりするのにあてがわれた船室へと引っ込んだ。
アビゲイル号は客船ではなく貨物船であるため、船室には限りがある。男を7人も追加で乗せるのだから、十中八九、用意されたのは貨物室だろう、と思っていたが、予想に反してきちんと船室を貸し与えてくれた。感謝するべきだろう。
船室はアビゲイル号の中央近くにあり、サナギによれば「船は中央がもっとも揺れない」らしい。
それでも陸よりはるかに揺れた。最初は船内の廊下を歩くにもよろける始末で、壁に手をつかなければまっすぐ歩けもしなかったが、慣れてくればなんてことはない、ちょっと足場が悪いだけの床の上だ。
一同、ほとんどのメンバーが、時期の差こそあれ船旅に適応したが、航海が3日を過ぎても緑玉は気分が優れないようだった。顔色が悪い緑玉はほとんど常に備え付けのベッドに横になっていて、サナギが甲斐甲斐しく世話を焼いてやっていた。サナギは「緑玉のことは俺に任せて、自由に過ごしなね」と言っていたし、船室に籠っていても特にすることはないから、タンジェはデッキに出ることにする。
すれ違いざまに数人の水夫が元気よくあいさつをしてくるのに、タンジェも短く返事をする。馴れ馴れしいのは嫌いなのだが、水夫たちは冒険者たちに不要な干渉もせず爽やかで、タンジェとしては好印象であった。アビーも船上の仕事で忙しいらしく、わざわざ冒険者たちに構うこともない。仕事人だということが分かり、彼女に対しても初対面ほどの苦手意識はなくなっていた。
今日は天気がいい。デッキではらけるが海鳥を眺めていて、タンジェに気付くとぶんぶんと手を振った。無視することもできず、仕方なく隣に立って海を眺める。
「サナギと緑玉、仲良いんだね」
らけるが急にそんなことを言った。
エスパルタで、緑玉が朝遅いサナギに朝食を残してやって、サナギがそれに礼を言ったことがあった。その折にも思ったのだが、緑玉が特別、サナギのことを考えて配慮しているとか、そういうことを感じたことはない。今回も、サナギが緑玉に特別な思い入れがあって看病に名乗りを上げたという印象はなかった。だが……、初めて行動を共にするらけるまでこう言い出すということは、単にタンジェが彼らの『特別』に気付いていないだけの可能性が出てきた。
タンジェは少し苦い、難しい顔をした。らけるが「なんだよその顔ー!」と笑う。
「パーティってみんな仲良くていいよな」
ひとしきり笑ったあとのらけるがそんなことを言う。
「あ? なんだよそれ」
「友達以上、家族未満って感じ?」
「全員が全員、仲良いってわけじゃねえ。仲が良いからパーティを組んでるってわけでもねえしな。俺たちは……パーティ組もうってときに、たまたまそこにいた6人で組んだってだけだ」
そうじゃなかったら、戦士役志望がかち合って決闘なんて羽目にはなっていない。
タンジェは未だにアノニムのことは小憎たらしいし、緑玉のことは何も分からないし、パーシィを奇人変人の類だと思っている。
らけるが首を傾げた。
「でも、一緒に寝泊まりしたりできるってことはさあ、嫌いあってはいないってことだろ? 仲良くないのに一緒に生活するなんてきついし、無理だし」
「寝泊まりするのに好きも嫌いもあるかよ。必要なのは、後ろから刺さねえっていう信頼だろ」
らけるは目をぱちぱちと瞬かせたあと、はぁーと感嘆の息を漏らして、
「なるほどなあ」
と何度か首肯した。
「な、なんだよ」
急に恥ずかしくなってきたタンジェは、らけるを横目で睨む。らけるが「タンジェ、何赤くなってんの!」とからかうので、ますます睨む目に力を込めた。
話変わるけどさ、とらけるはまるで気にしていない様子で言った。それで睥睨の行き場を失う。
「翠玉さんって美人じゃね?」
本当に宣言通り話が変わったので、タンジェは一瞬、らけるが何を言ってるのか分からなかった。翠玉? 緑玉の双子の姉だ。翠玉とはほとんど会話をしたこともないので、タンジェは彼女のことを緑玉以上によく知らなかった。
タンジェはひとの美醜に頓着はないが、客観的に見て、まあ、確かに顔は整っているだろう。双子の弟の緑玉が美形であるからして、姉の翠玉も同様に秀麗でも別におかしくはない。
「それがどうした?」
「翠玉さん優しいしスタイルもいいし素敵だよな!」
「だから、それがどうした?」
らけるは海の向こうを眺めてぽつんと言った。
「翠玉さん彼氏いるのかな……」
ここまでくれば、さすがに鈍いタンジェでも分かった。らけるは翠玉に惚れているらしい。
「いや、てめぇは元の世界に帰る気なんだろ?」
「そうなんだよ! うわー、やっぱ告白してくればよかった!」
らけるは頭を抱えた。頭を抱えたいのはタンジェのほうである。
「……あのな。この世界から消えるかもしれねえやつに告白されても困るだろうが、よく考えろ」
「そうかな……? どうせ脈無しだし言ってきたほうが未練なくてよくね……?」
「てめぇの都合で他人を振り回すなよ」
「翠玉さん、黒曜と付き合ってんのかな?」
「?」
タンジェの思考が停止した。
「……?」
らけるの顔を凝視するタンジェに、気付いているのかいないのか、
「いつも一緒にいるじゃん? 緑玉は弟だから分かるけどさ、黒曜と翠玉さん、よく食事してるし」
「あ、ああ……?」
確かに黒曜、緑玉、翠玉は三人でよく食事や歓談をしている。それは故郷が同じで、特別な信頼関係があり、お互いがお互いの身を案じているからだ。黒曜の過去を見てきたタンジェなら分かる。そうでなくとも、名前の雰囲気、獣人であること、衣服や装飾から、同郷であることくらいは察して然るべきだろう。い、いや、同郷であることを理解したうえで、そこからさらに踏み込んで、"同郷なら恋仲もありえる"、という思考の発展をしたのだろうか?
いやしかし、そう……なるか!? そういう思考になるものなのか!? 普通!?
そもそもそこが付き合ってたら緑玉は何なんだよ、そこ三人でいたら気まずすぎるだろうが。
というか、まず前提として黒曜と付き合ってるのは俺なんだよ!
――タンジェの脳裏に言いたいことがごちゃごちゃと頭を回るが、いったん全部飲み込んだ。
特に最後! らけるに言ったらめんどくさいことになりそうだ。絶対に言う気はない。ついでに言えば、パーティメンバーにも言っていない。隠しているというわけではないが、わざわざ言うことでもないだろうと思っている。
ともあれ、黒曜と翠玉が付き合っているのではという盛大な勘違いは正しておいてやったほうがいいだろう。黒曜と翠玉のためにも。
「……そこの二人は兄妹みてえなもんだ。恋人ってことはねえ」
「そうなんだ!? タンジェ、夜会の人間関係詳しいの?」
「詳しくはねえが……てめぇよりは知ってる。もっと知りたいなら、娘さんあたりが把握してんじゃねえか」
それも、てめぇが元の世界に帰りゃ関係ねえことだがな、と俺は付け加えた。
「そうだよなあ」
らけるは気のない返事をして、また手すりに寄りかかって海の向こうを見た。
海鳥が鳴いている。
神降ろしの里<前編> 4
港町セイラはベルベルントの目と鼻の先にある。しっかり整備された快適な街道を、馬車で40分ほど。
諸外国から海を渡ってやってきた輸入品はまずセイラに着き、行商隊によってベルベルントに運ばれる。ベルベルントにとって、海の交易の窓とでも言えよう。
――とはいっても、冒険者が世話になることは特にない。セイラに届く荷物のほとんどはすぐにベルベルントに送られるから、セイラで手に入るものはベルベルントでも手に入る。わざわざセイラまで訪れるのは、観光か、海に繰り出す必要がある――ちょうど今のタンジェたちのように――かのどちらかだ。
セイラにはサナギがらけるに紹介したという物好きなコレクターがいて、そのコレクターを訪ねた際、らけるは船の目処を付けた、とのことだった。
「あ、あれだよ! あの船!」
先頭を意気揚々と歩いていたらけるが、船着場で船を指した。横っ腹にアビゲイル号と書かれているのでずいぶん目立つ。らけるが駆け寄り、船の周囲でデカい声を出していた女に声をかけた。
「アビーさん!」
アビーと呼ばれた女は振り返り、らけるを見るや否や笑顔になってがっしとらけると肩を組んだ。
「らけるじゃないか! 予定通り来たね!」
「当たり前だろ。アビーさんの好意を無駄にするわけないじゃんか!」
らけるはタンジェたちに向き直り、
「アビーさん! 話したろ? 貨物船の船長さん!」
「……おう」
誰も応答しなかったので、仕方なくタンジェが返した。
「なんだい、辛気臭いねぇ!」
アビーと呼ばれた女は、腕を組んで、ウェーブがかった金髪を搔き上げた。タンジェはそもそも女嫌いである。馴れ馴れしく強引で騒がしい女というのは、その中でもかなり苦手なタイプだった。
「顔がよくてもそんなんじゃあ話にならないよ。アタイのアビゲイル号に乗せてやろうってんだ、自己紹介くらいしたらどうだい!」
「失礼した。黒曜だ。星数えの夜会から来た」
黒曜は澄ました顔で言った。さすがである。
「サナギだよ。このたびは乗船許可をありがとう。素敵な船だね。アビゲイル号というのはアビーの名前が由来なのかな?」
こちらもさすがで、サナギは握手を求めながら世辞と質問まで重ねている。アビーは一転、気を良くした様子で、
「あんた、見る目があるねえ! そうさ、アビゲイル号はアタイの本名から取ってるんだ。イカしてるだろ?」
「沈むかもしれないものに自分の名前を付けるなんて……むぐ」
パーシィが余計なことを言おうとしたので、そしてそれを誰も止めようとしないので、またも仕方なく、タンジェが口を塞いだ。
「船に女性の名前を付けるのが流行ってるみたいだね」
パーシィの言葉を揉み消すようにサナギが続けると、アビーは景気よく笑った。
「まあ、願掛けみたいなものさね。船乗りは男が多いだろう? 愛しい相手の名前をつけりゃ、士気が上がるからねえ」
もっとも、とアビーは続けた。
「アタイがこの船にアビゲイルと付けたのは、野郎共が手を抜かないようにさ! アビゲイルの名の船を沈めたとあっちゃ、アタイに怒鳴られるだろう?」
そして、突っ立っていたタンジェたちに目を向けた。
「ほら、ほかの男共も名乗りな!」
「タンジェリンだ」
「パーシィだよ。こちらはアノニム」
「……緑玉」
「うーん。まだ辛気臭いけど、まあ及第点さね」
アビーは全員にまとめてよろしく、と言ったあと、
「さて、太平倭国だったね。長旅になるよ」
早々に話を本題へと切り替えた。
「野郎共が荷物を積んでるから、少し待ってな」
「おや? 積荷の上げ下ろしが乗船の条件では?」
積荷の上げ下ろしに一番役に立たないサナギが首を傾げると、アビーは笑った。
「行きだけはサービスだよ! 慣れない船旅、疲れて乗船したら下手すりゃ死ぬからね。万全な状態で乗り込んでもらうのさ」
「それは海賊や妖魔との戦いに備えて?」
「分かってるじゃないか。もっとも……」
アビーや口端を上げて、少し意地悪そうな顔になった。
「あんたたち陸の民にとって、一番の敵は船酔いだと思うけどね」