強者と弱者、あるいは摂理への反証 2
ある日、エリゼリカが店の裏で泣いているところに通りかかった。
俺が夜会に拾われて数ヶ月が経ったころには、もうエリゼリカは客を取っていた。元は貴族の娘だ。物珍しくて指名するやつが山ほどいたらしい。アルベーヌに依頼されて、エリゼリカにくっつくめんどくせぇ客を何度かぶちのめした。
どんな客がついたとしても、まだ10歳かそこらのエリゼリカが泣いているのは見たことがなかった。
だからどう、ということもない。
その場を通り過ぎようとして、足元に落ちていた枯れ木を踏み折った。それでエリゼリカははっとこちらを見て、涙を拭ったあと、すました顔になるのだ。
「ごきげんよう。アノニム」
立ち上がったエリゼリカは、スカートの裾を持ち上げて少し膝を折った。
「……」
「今日は何しに来たの? トラブルは起きていないわよ」
「泣くほど嫌なら」
と、俺は言った。
「主人を殺して出ていけばいいだろ」
エリゼリカの顔色は青くなったり赤くなったりした。だがやがて、
「騙されたとはいえ、私の家が背負った借金に違いないもの」
と、笑った。何がおかしいのだろうか?
「このまま逃げ出して、お父様が築き上げた家名をさらに傷付けたくはないの」
「お前の親は、お前を置き去りにして死んで逃げた弱者だろうが」
バシンと音がして、遅れて頬にぴりぴりとした痛みが走った。
さっきまで笑っていたエリゼリカが、今度は眉を吊り上げて、俺のことを睨みつけている。ビンタされた。
「あなたみたいに力を誇示することでしか強さを見出せない人には分からないのよ!」
何を怒っているのか、俺にはさっぱり分からなかった。エリゼリカは顔を真っ赤にして、いよいよ泣き出した。
「私の両親は弱者じゃない!!」
死んだなら弱者だ。エリゼリカが何をどう言ったって、見世物小屋のやつらの積み重なった死体の前じゃあ、何の意味も、説得力もない。
エリゼリカの泣き喚く声を聞きつけてアルベーヌたちがやってきて、その場をなんとか収めた。
エリゼリカは、俺が家族を悪く言った、とは言わなかった。エリゼリカが泣き出したこと、そして俺をビンタしたことは本当に単なるケンカで、ビンタに関しては悪いことをした、というようなことを言っていた。
俺は別に、エリゼリカが何に対して謝罪をしようが興味がない。痛みももうない。どうでもいい。
だが、何故俺はビンタされたのか、それだけは未だに分からない。顔を真っ赤にして喚き散らすエリゼリカが、俺の経験と結びつかない。
エリゼリカの両親は、抗う力がなく死んだ弱者だ。エリゼリカだってそうだ。だから泣いていたんだろうが。
★・・・・
年月が経った。俺は星数えの夜会で冒険者をやっている。最初は一人で。やがてパーシィと。いつの間にか6人揃って、なんだかんだ戦士役とかいうやつをやっている。
エリゼリカは変わらず娼婦だ。アルベーヌはまだ娼館の主として現役で、他の娼婦たちも俺に未だに菓子をくれる。厄介な客が来れば依頼を受けてぶちのめしに行く。そんな日常の中で、あるときエリゼリカは俺に「ねえ」と声をかけてきた。
エリゼリカは今となってはこの娼館の稼ぎ頭だ。それが客でもない俺――少し前まではたまに客としても利用していたが、最近は来ていない――と話すのは、俺とエリゼリカがいわゆる「幼馴染み」というやつだから、らしい。幼馴染みという単語はアルベーヌから教わった。
「私、赤ちゃんできたのよ、アノニム」
俺はエリゼリカの顔を見た。エリゼリカは腑抜けた顔をしている。十数年の付き合いだ、エリゼリカは今さら俺の返事なんか期待していないし、待ちもしない。続けて、
「ここ最近、毎日のように来てくれるお客さんがいたの。いい仲になったんだけれども、貴族の長男らしくて、つい先日どこかの令嬢と婚約が決まったみたい。今はもう来ていないし、来ることもないと思うわ。赤ちゃんができたのが分かったのは、彼が来なくなってすぐあとくらい」
「……?」
昔のエリゼリカもそうだったが、こいつはよく分からないタイミングで笑う。今の話に、何かおかしいところがあったろうか? エリゼリカの口は弧を描いている。
「彼に妊娠は伝えてないの。アルベーヌさんに、産ませてほしい、育てたいって言ったわ」
そしたらアルベーヌさんは、しぶしぶ承知してくれた、と言った。
「クソ野郎じゃねえか」
俺は思ったことを口に出した。
「女孕ませておいて別の女と結婚するんだろ」
エリゼリカは目を細めて、ころころと笑った。
「私ね、あの人が好きよ」
それから、娼館の裏手から見える、建物に囲まれた細い青空を見た。よく晴れた日だった。
「ちゃんと知ってたの。あの人が貴族なこと。いつか家を継がなくちゃいけないこと。だから私からは離れていってしまうこと……」
空なんか見たって何もない。雲しかない。
「分かっているから平気なの。でもまさか……赤ちゃんができたなんて……」
エリゼリカは自身の腹を優しくさすった。
「神様が私にくれたプレゼントかしら」
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