強者と弱者、あるいは摂理への反証 4
かなり早い仕事だったと思う。俺は走って花通りに戻った。娼館の前に立った時点で、赤子の泣く声が聞こえていた。出産が、終わっている。
娼館の中に駆け込む。パーシィがエリゼリカに寄り添っている。俺に気付くと、パーシィは黙って立ち上がり、無言でエリゼリカの横を俺に明け渡した。
ソファの横に膝をつくと、ほんのわずかに開いているエリゼリカの目と目が合った。まだ生きていた。
「わた、し……」
エリゼリカの声はか細く、それでもう彼女が死ぬと知れた。エリゼリカの口が弧を描く。面白くもないのに、またこの女はわらっている。
「あなたの……いう、と、お、り、……よわい、おんな、だった、ね……」
そんな昔に言ったことを、まだ覚えているのか。
お互い様だった。俺だってあのときのビンタを未だに覚えている。
「エリゼリカ」
俺が言うと、エリゼリカはゆっくりと目を見開いて、それから目を細めた。目の端から涙がこぼれたのが分かった。
「かわい、い、わたしの、かわいい、あかちゃん……」
心配しているのは、この期に及んで産まれた赤子のことだった。あのクソ野郎の子供だというのに。
「いっしょに、いられなくて、ご、め……」
それきりだった。
弱ければ死ぬ。当然の摂理だ。
みんな泣いている。俺とパーシィだけが泣いていなかった。赤子も泣いている。やかましいくらいに。
エリゼリカが死んだことに、パーシィはいっさいの言い訳をしなかった。だが娼婦たちはパーシィは本当によくやってくれたとやつを何度も労った。パーシィは本当によくやったらしい。俺に分かるのはそれだけだ。
「エリゼリカが暴行を受けているとき、エリゼリカは必死でお腹を守った……だから赤子は無事だったの」
アルベーヌが言った。
「あの子は本当に、強い子だよ」
みんな泣いている。エリゼリカを偲んで。エリゼリカを想って。赤子ですら、もしかしたら。
強いなら死なないはずだった。
エリゼリカが暴行で死んだのは、弱いからだ。だから死んで、終わった。
――本当にそうだろうか?
エリゼリカより赤子のほうが弱い。でも、赤子は死ななかった。エリゼリカが守ったからだ。誰かを守るためなら命を投げ出せること、それは、俺は――俺を庇って代理で試合に出て死んだ女がいる――甘さだと、ひいては弱さだと思っている。だって弱者はこんなにも容易く死ぬ。
★・・・・
★・・・・
パーシィと俺は夜会への帰路を歩いている。
「パーシィ」
「ん?」
「……ありがとよ」
パーシィは俺を振り向いた。
「め……珍しいこともあるものだな……?」
「お前の治癒の奇跡が、死にかけの人間をあそこまで生きながらえさせたんだろうが」
それは否定しないよ、とパーシィは言った。
「確かに、彼女ときみに最後に話す時間があったのは、俺のおかげだ」
「……だろうな」
「でも俺に、かろうじてあの瞬間、彼女を繋ぎとめる力があったとして……俺は、ヒトがヒトを産み落とすことの力にはなれない」
俺はパーシィを見やった。パーシィは空を見上げた。まだ日は高く、青空が見える。空なんか見たって何もない。雲しかない。
「……だから、なんだ」
俺が先を促すと、パーシィはまた、ゆっくりと振り返った。
「あの状況で赤子を死なせずに産んだ力は、確かに彼女の強さだった……ってことだよ」
エリゼリカ。
俺の幼馴染み。
あいさつのときに、スカートの裾を持ち上げて少し膝を折る。
何も楽しくないのに、口に弧を描き目を細めて笑う。
手に入れられたはずの幸せを、
自分が享受できないと知って、
それでも守った女。
「……ふん。だが、死んだらおしまいだ」
「はは、それもそうだな」
パーシィは否定しなかった。
★・・・・
★・・・・
見世物小屋ではちからがすべて。
奴隷剣闘士が得物を合わせる。弱いほうが負ける。負けたら死ぬ。
強さに種類がある。考えたこともない。強さとは力だと思っている。戦いに負けない力。だから俺はワッカーソーを殺せた。
だが、死んだエリゼリカは、何に負けたというのだろう?
きっとあいつは、何にも負けていない。ワッカーソーの暴力に屈さず、大事なものを守り切った。その結果エリゼリカは死んだが、それを敗北とは俺は思わない。むしろあいつは、勝っていた。
俺は幼い頃から知っていた。弱ければ負ける。負ければ死ぬ。それが当然の摂理だと。
だが見世物小屋の狭い世界の外で、きっとそうじゃない摂理があって、それは時に強者を殺し、弱者を生かす。
気高く強いエリゼリカの死、それはあるいは。
【強者と弱者、あるいは摂理への反証 了】
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