不退転の男(Side:アノニム) 1
「行ってくる」
と声をかければ、他の奴らの言うところの「親父さん」と「娘さん」が「気をつけてな」「いってらっしゃい」と応答する。
俺――アノニム――はいつも、それを聞き届けてから外出する。俺が挨拶をするのが意外らしく、初めて聞いたときのタンジェリンは目を丸くしていた。もっとも、今ここにタンジェリンはいない。親父に頼まれて買い出しに行っているらしい。
「アノニム! ちょっと待ってくれ!」
星数えの夜会の玄関を開けようとすると、バタバタと階段を降りてくる音と聞き慣れた声がする。パーシィだ。
呼び止められた理由は分かる。俺は大人しく玄関で待って、パーシィが小走りで俺の前まで来るのを見届けた。
「こんなに早く出かけるとは思わなかったから。呼び止めてすまない」
「さっさと行ってさっさと帰る」
「そうだな、それがいい」
と言いながら、パーシィは自身の胸の前で手を組んで目を閉じた。数秒、それだけだ。顔を上げたパーシィは「それじゃあ、いってらっしゃい」と笑って俺を見送るのだ。
あれがなんなのか詳しいことは知らない。だが、パーシィは俺が一人で出かけるとき、タイミングが合えば必ずあれをする。本人曰く、ミゼリカ教のおまじないらしいのだが、俺のような不心得者にどこまで効果があるのかは謎だ。どうでもいいことだが。
★・・・・
★・・・・
娼館の並ぶ花通り。そこいらの娼館を取りまとめているアルベーヌから頼みがあると呼ばれていた。花通りでは最近、俺の幼馴染みが死んだ。たぶん、その遺品整理でもするのだろうと思っている。といっても、幼い頃に娼館に来て以来ほとんど贅沢をしなかったあの女――エリゼリカに、そこまで大層な荷物はないことを俺は知っていた。
花通りは、昼間はほとんど娼婦たちが家事に勤しんでいて、晴れた今日は洗濯を干すものでいっぱいだった。娼館に入ればすぐアルベーヌと対面し、アルベーヌは俺をエリゼリカが使っていた部屋に案内した。
小さくはあったが小綺麗な部屋だった。俺にはものの価値は分からないが、たぶんしつらえた家具の値段はそんなに高くない。小さなものばかりだ。それでも女たちでこの家具を運び出すのは骨だろう。
「どこに運び出せばいい」
俺がアルベーヌに尋ねると、アルベーヌはびっくりしたような顔をして、
「運び出す?」
「?」
俺のほうもアルベーヌを見た。
「捨てるんだろ?」
アルベーヌは、一瞬怒ったような、呆れたような、よく分からん表情になり、
「あのねぇ。ここは、ベルギアの部屋にするんだよ。ベッドに柵を取り付けてやってさ。ここならみんなもすぐ様子を見に来られるだろう」
「……」
ベルギアというのは、エリゼリカが死に際に産んだ赤子の名だった。エリゼリカがあらかじめ決めていたのを、俺も何度も聞かされていた。
「で、材料は買ってきたんだけど、柵を取り付けるのもちょっとした労働だからあんたを呼んだのさ」
確かに材木が置いてある。俺向けじゃないと一発で分かった。親父に頼まれて星数えの夜会の屋根に上り雨漏りの修繕を試みたことがあるが、ろくなことにならなかった。
「俺向けじゃねえ」
俺は素直に言った。
「他に頼れるやつもいないのよ」
適当でいいからやっちゃって、と言う。
結局あのとき雨漏りを直したのはタンジェリンだった。どうせ買い出しに出ていて交替もできねえ。そもそもアルベーヌはよく知らねえタンジェリンをここまで上げないだろう。仕方なかった。
★・・・・
★・・・・
言われたとおり適当にベッドに板を打ちつけて、それでよしとした。赤子が落ちない程度にはなっているだろう。
そもそもそこまで高さはないベッドだ。落ちたって死にはしないはずだ。
「助かったわ、アノニム」
アルベーヌが俺に言って、金を握らせた。
「ん」
受け取ったが、たかが板をベッドに打ちつける作業の礼としては袋が重い。
「エリゼリカはずいぶんお金を貯めていたわ」
不意にアルベーヌが言った。
「……その金は赤ん坊を育てるのに使え」
「もちろんそのつもりよ。でも、エリゼリカはあなたにも何か礼をしたがると思うのよ」
だからその分、半分はアタシから、とアルベーヌは言った。
死人がそんなことを思うわけがない。思えるわけがない。死は終わりだ。死者はその死後に何の主張もしない。これはアルベーヌが思い描いた単なる理想で、妄想だ。
だが、金は受け取った。
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