カンテラテンカ

花通りの戦い 3

「さあ、アノニム。動かないことだね。ここの女の人たちがどうなってもいいなら別だけど」
 アルベーヌが不安そうにこちらを見る。俺はまた舌打ちした。
 娼婦のうち、二人がカミソリを俺に向ける。残りはみんなカミソリを自分自身に当てたまま、だ。
「このままアノニムの首を掻っ切ろうねえ」
 ハンプティが楽しそうに笑っている。意識のあるままの俺が成すすべなく娼婦どもに首を掻っ切られて死ぬのを見るのがお望みなんだろう。
 どうする? 俺は考える。
 もちろん、死んだら終わりだ。俺はここで終わるつもりはない。
 ならば、娼婦を押しのけるか。それをすれば、押しのけた数人は怪我はするだろうが助かる。だが自身を人質にしている娼婦は即座に喉を掻っ切り死ぬだろう。そいつらは自分が死ぬという自覚すらなく終わってしまう。
 天秤にかける。
 俺が死んで終わること。これは名実ともに敗北だ。俺が死んだあとアルベーヌも殺されるだろう。ベルギアも。娼婦たちも。そう考えれば、俺がやることは一択に見えた。そのはずだ。少なくとも俺はそう生きてきたはずだった。
 それでも、俺の選択で目の前で何も知らずに死んでいく娼婦がいることが、何故か我慢ならない。

 何故か? 考えたとき、脳裏を過ぎったのがタンジェリンだったことは――きっと、さっき会ったからだと思いたい。

 ――後悔だけはごめんだ。後悔しながら生きるくらいなら、俺は俺が思う最善で死ぬことなんざ怖くねえ。
 
 後悔。そんなもの、俺はしたことがない。するはずがない。俺は俺の戦いにおいて、常にタンジェリンの言うところの"最善"を尽くしてきた。それは何においても俺が生きること。戦って、生きて、それが続くこと。
 俺は今、何を恐れている? 最善が分かっていて、何故動けない?
 それは、戦って勝って俺が生きて、それから先のこと。顔見知りの娼婦たちのその未来を奪うこと。"生き抜くためにはそれ相応の戦いがあり、それに勝ったから命はここにある"。だが、これは娼婦たちにとって"それ相応の戦い"だろうか? 違うのだ。違うに決まっていた。
 だからきっと俺は、この選択を誤ったら"後悔"する。
 怖いんじゃない。それはきっと俺の誇りを脅かす。あの不退転の男と同じように。
 俺の首にカミソリが迫る。もうほんの一歩で、俺は容易く終わってしまう。

 ――突然、それまで眠っていたベルギアが目覚め、泣いた。

 別にそれ自体で状況が変わったということはない。ハンプティは驚きもしなかったし、娼婦たちのカミソリがよそを向くこともなかった。アルベーヌが慌てて「ああ、どうしたんだい、ベルギア。大丈夫、大丈夫だよ……」ゆっくりベルギアを揺すってあやす。

 ベルギア。俺の幼馴染のエリゼリカが、命を賭して守ったもの。
 ベルギアは、エリゼリカの"誇り"だ。
 エリゼリカは死んだ。死者は終わる。終わったものは、生者に何も伝えはしない。だが、そこに"誇り"は遺るのだ。
 エリゼリカの誇りを、俺が終わらせていいのか? いいわけがない。

 俺が命を懸けるとき。
 それは大事なものを守るためだと、俺は言った。
 大事なものを守るために"武器を取る"。それで守り抜いて、ようやく、初めて命を懸けたと胸を張れる。
 その気持ちは何も変わらない。ただ、俺にできる"最善"が、分からないだけで――。
 いや。俺は自分が取った武器のことを考える。そうだ――"最善"は、ずっと俺の手の中にあった。
 なんで俺は、こんなものを持って突っ立っているのか。
 要するに、人質が殺される前にハンプティを殺せばいい。こんなにも簡単なことだった。

 俺は手に持っていた棍棒を、ハンプティに向かってぶん投げた。
 狙いは正確に。だが一瞬の時間もかけず。
 ――光に。
 光に勝るとも劣らない速度で、棍棒はまっすぐにハンプティの腹に突き刺さった。

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