カーテンコール 4
翌朝、タンジェはいつも通りの時間にしっかり目覚めた。早い時間なのだが、それでも黒曜はもうすでに起きている。思わず、
「早いな」
「普段通りの時間だが」
タンジェは少し面食らった。普段、黒曜がそこまで朝早いという印象がなかった。単に、起きてすぐに活動を開始し早朝のジョギングなどをするタンジェとは違い、目覚めの直後はしばらく自室で過ごしているだけかもしれない。思えば黒曜の寝顔を見たのは、ベルベルント中に眠りの邪法がもたらされたあのときっきりだ。
「そうかよ……準備して飯食ったら出ようぜ」
「ああ」
タンジェたちは身支度を整え、荷物を準備し、食事をとってからエスパルタを出た。向かう先はプロポント山である。以前にエスパルタに来たときも登った山だ。
プロポント山の山中には小さな村が点在していて、タンジェの故郷であるペケニヨ村や、ラヒズの謀略にかかった際に目的地としていたストリャ村もそれに含まれる。二つ以外にもいくつか村がある。タンジェが知っているのは例えばリケーサ村。それから、ヘブラ村……。
「……」
エスパルタは湿度が低く、爽やかな晴れなこともあり、山中は過ごしやすいくらいだったが、タンジェは全身に汗をかいているのを自覚していた。プロポント山に入って3時間が経つ。息はまったく上がっていないが、汗くらいはかく。黒曜は涼しい顔をしていたが、そっちのほうが例外だ。
幸いなことに、今のところ『オーガ除けの結界』に引っかかる感覚はない。それでも念のため、ストリャ村への最短距離の移動は避けた。タンジェは大回りでストリャ村周辺を探索する。
ラヒズは確か「ペケニヨ村の襲撃後、オーガたちは少し南下し、ストリャ村近辺に住処を移した」と言っていて、だがストリャ村は『オーガ除けの結界』でそれに対応した。つまりオーガたちはそこからも多少なりとも移動したと見ていいだろう。それでも人里――エスパルタ近くまで下りることは想像しづらい。まずオーガの痕跡を探し、そこから追跡することを試みる。
幸いあては当たり、タンジェはストリャ村周辺でほどなくオーガの痕跡を見つけた。大きな足跡と、たぶん狩りの跡だろう。狩られたのが近隣の村民でないことを祈りつつ、タンジェはすぐにその足音を辿っていった。
プロポント山の山中深くに分け入り、数十分。鬱蒼とした森は人の手の入らない自然のままの姿で行く手を阻むが、タンジェは焦らず、丁寧に進んでいった。後ろから黒曜も草を踏む音すら立てずについてくる。自然が深まるのに反比例するようにオーガの足跡は複数見られるようになり、住処が近いことが察せられた。
にわかに声が聞こえてくる。こんな山深くに人の集落はまずないはずだ。木々で姿を隠しながらタンジェはこっそりと声のするほうを覗き込んだ。山肌にあけられた洞穴が複数あり、広場じみた少し開けた場所に、どっかりとオーガが3体、座り込んで何かを話している。
たぶん黒曜には、声こそ明瞭に聞こえているだろうが、内容は分からない。逆にタンジェは、声自体はあまり聞こえないのだが、会話の内容が多少理解できた。
どうやら3体のオーガは、冬までに食料の貯蔵を増やしたいが、なかなかどうして、最近は獣が減ってきたとぼやいているようだ。
「しょうがないだろ。人間は襲うなって言われてる」
「人間食わずに『食人鬼』か。まあ人間が勝手に呼んでるだけだがよう」
そりゃそうだ、オーガは別に、食人鬼と自分から名乗らないだろう。そもそもそれ以前に、オーガと意思疎通ができる人間なんかほぼ存在しないのだが……。
タンジェは黒曜にここで待機しているよう告げ――タンジェ一人で会話が通じればそのほうがいいからだ。黒曜の存在は恐らくオーガたちを警戒させる――できる限り敵意がないことを示すため、斧は構えずにオーガたちに向かっていった。
「……おい!」
それにしては第一声が威圧的ではあったが、びくりとこちらを見た3体のオーガはすぐに立ち上がり、臨戦態勢に入った。
「なんだあ、てめえ! 人間がなんでこんなところに!?」
「待て、俺は人間じゃねえ」
タンジェはその場に斧を突き立て、手を離した。さらに斧から一歩だけ下がり、
「タンジェリンだ。その……俺を知っているやつはいねえか?」
「こいつ、言葉が通じるぞ……!?」
困惑するオーガたちは、それでもタンジェの多少拙いであろうオーガとしての言語を汲み取り、
「今、タンジェリンって言ったんじゃねえか。それってよう、族長の『悲願の子』じゃねえのか」
「……ああ、そうかもしれねえ、そんな発音の名前だったな」
顔を見合わせ、それから、
「お前を知ってるやつがいないかって聞いたのか? お前こそ俺たちの中で知ってるやつはいねえのか」
「悪いが、全員同じに見える。てめえらだって人間全員同じに見えるだろ」
と、適当なことを言ってみたが、「確かに」「それはそう」と思いのほかすんなり納得が得られた。
「だが、一人だけ知り合いがいる。ただ、名前も分からねえ。そもそもテメェらに名前があるのかもよく知らねえんだが……」
「あるに決まってるだろ、じゃなきゃ、どうやって呼ぶんだよ」
「……そりゃそうだな」
思いのほか"人間らしい"答えが返ってきて、タンジェはそう頷くので精いっぱいだった。人間たちが知らないだけで、知ろうともしないだけで、妖魔たちにも彼らなりの営みがあるってことなのかもしれない。
だからって赦せるわけじゃない。だが、赦しに来たわけじゃない。タンジェは話を聞きに来ただけだ。
「その……あー……『悲願の子』を産んだ夫婦に、兄がいたろ」
何とか叔父を引き出すため、タンジェは言葉を選びながら説明した。
「そいつに会いてえ。話がしたい。暴力をする気は、今のところねえ」
オーガたちはまた顔を見合わせたあと、ちらとタンジェが手放した斧を見て、
「どうする?」
「まあ、簡単に殺せそうだし、大丈夫じゃね?」
心外ではあったが、タンジェは黙って返事を待った。
「そしたら肉が食えるな」
「でもこいつ人間じゃねえんだろう? 話が本当なら、こいつ見た目が人間なだけのオーガじゃねえかよう。それって共食いだろう」
「そうか、そりゃよくねえなあ」
それがよくない倫理観はあるのか。なおも返事を待つ。
「何の騒ぎだ?」
そこでのっそりと、穴倉の一つからもう一体オーガが現れた。さっき言ったことは嘘ではなく、タンジェはオーガの見分けはまるでついていないのだが、なんとなく"声"が、あのときの叔父に似ているような気がした。タンジェと目が合ったそのオーガははっとして、
「タンジェリン……!」
やはり、そうだった。叔父は大きな身体を揺らして早足に近づいてきて、
「何故ここに? 一人で来たのか?」
「いや、ツレがいる。少し……話がしたくて来た」
タンジェは黒曜が隠れているであろう木々の先を軽く示したあと、叔父をまっすぐに見上げて言った。叔父は頭の痛そうな仕草をしたものの、
「……そのツレも呼ぶといい。人間生活の長いお前にとって、快適な場所ではないだろうが、歓迎しよう」
最終的にはそう言った。