カンテラテンカ

神降ろしの里<前編> 6

 航海は順調だったのだが、8日目ともなるとトラブルなしというわけにもいかない。今日はいやに霧が出ていた。
 悪天候時に甲板になんか出ていられるわけもない。ましてや俺たちは海に関しては素人だ。大人しく船室で過ごしていた。筋トレをする俺を面白がり、腕立て伏せをする俺の背にサナギやららけるやらが代わる代わる乗るなどした。緑玉をはじめとした黒曜やアノニムといった獣人組はいつにもましてやけに無口で、船室に設けられた円い窓から外をぼんやりと眺めたり、居眠りをしたりしている。
 汗だくになった身体を軽く拭いていると、廊下がにわかに騒がしくなった。アノニムが面倒そうに瞼を上げる。
「アビー姐さん!」
「分かってるよ! 冒険者どもを呼んできな!」
 扉越しでも聞こえるその言葉に、俺たちは顔を見合わせた。
「冒険者さん!」
 すぐさま船室の入口が開いて、水夫の一人が飛び込んでくる。肩で息をしたその男は、俺たちを見回して、真っ青な顔でこう言った。
「ゆ、ゆ、ゆ、幽霊船でさァ!!」
 手早く装備を整えた俺たち――少し悩んだが、ダウンしてる緑玉はそっとしておくことにした――は、急いで甲板に向かった。
 ミルク色の霧は濃く、手を伸ばせば指先が見えないほどだ。それでも俺たちは互いを見失わないようになるべく寄り合いながら船首へと近づいた。
 先に霧の向こうを眺めていたアビーが振り返り、「来たね」と言った。それから、霧の向こうを指差す。
 大気の動きでゆっくりと霧が回る。うねるように、ちぎれるように霧が少し晴れたその合間に、確かに、ひどく汚れた船が鎮座していた。
「幽霊船だ……」
 らけるが言った。いや、てめぇはなんで来てるんだよ。俺がらけるに船室に戻れと言い含める前に、
「いや、アンデッドの気配はしない」
 まっすぐ船を見つめたパーシィが告げる。
「たぶん、単なる漂流船じゃないか?」
「こんなに幽霊船の雰囲気なのに!?」
「霧が出てるときに、たまたまボロい船を見つけたってだけの話だろうが」
 パーシィが言うなら、アンデッドはいないだろう。パーシィの人間性についてはともかく、元天使とやらのレーダーとでも言うべきか、アンデッドの探知能力は信用していいはずだ。
「野郎どもがビビっちまってね。悪いけど、少し中を見てきてくれないか。本当に漂流船なら、中に生き残りがいるかもしれないしね」
 アビーが腕組みして俺たちに言った。もちろん、乗船の対価の一つなのだから断る理由はない。アビゲイル号をギリギリまで漂流船に近付けてもらい、板を渡して漂流船へと乗り移る。
 漂流船は、アビゲイル号より一回り小さいくらいの船だ。盗賊役として俺はみんなを待機させて、先に船室の様子を探った。扉は半壊していて、鍵はかかっていない。慎重に開ける。
 俺は目を瞬かせた。
 簡易キッチンが取り付けられた船室で、火が焚かれていた。寸胴の鍋で何かが煮えている。まな板には、びちびちと跳ねる魚が載せられていて、包丁まで準備があった。
「……?」
 誰か、いるのか?
 困惑はしたが、室内に踏み入り、アンデッドらしい妖魔がいないことを確認する。ついでに、キッチン内に人間がいないことも分かった。
「どうだ?」
 黒曜の小さな声が甲板から聞こえてきた。
「誰もいねえな」
 キッチンから顔を出して返事をする。
「だが、なんか変だ。火が焚かれてるし、料理をしていたみたいな形跡がある」
「もしかして、隠れているのか?」
 パーシィが不思議そうな顔をした。
「いや、人の気配はねえんだが……。ゴーストなんかもいるようには見えねえな」
 ゴーストに関してはパーシィほどの察知能力はないが、ヤイ村で交戦した経験があるのでいるならそうと分かるはずだ。俺は感じたことをそのまま言った。
「気味が悪いぜ」
 とりあえず安全とみた黒曜たちがキッチンに入り、ともに探索を進めることにする。
「煮えてるのは……」
 サナギが寸胴鍋を覗き込む。
「お湯……かな? 具材らしきものは入ってないね」
 湯気で見づらいが、確かに単に湯を沸かしているだけに見える。大きな寸胴鍋を使ってこんだけの湯を沸かすなら、それなりの量の料理を作ろうとしてるってことだ。そんなにたくさん人がいる、のか?
「魚もまるで獲れたてだな。生きているし」
 びちびちと跳ねる魚をパーシィがマジマジと見つめている。
「だが、人の気配はしない……」
 黒曜の言うとおりだ。少なくともキッチンには誰もいない。俺はいったんキッチンを出て、少ない船室を見て回った。だが、やはり人らしい気配はなく、キッチン以外に生活の痕跡も見られなかった。
「誰もいねえ」
 キッチンに戻り報告すると、黒曜は少し考え込んだようだった。パーシィが、
「不審な船だが、やはり幽霊船ではなさそうだ。アビーには放置して進むように言うかい?」
 その言葉に、黒曜が口を開こうとしたときだった。
「あ……!!」
 突然サナギが大きな声を出した。
 俺たちはサナギが見つめているほうを反射的に見た。そして、すぐに悟った。
 キッチンの円窓から、巨大な目が、こちらを見ていた。
 認識し、理解して、一瞬。俺たちはキッチンから出ようとしたが、間に合わない。丸太のような太さの、うねる白いものが入口から伸び出てくる。それに一抱えほどもある丸い吸盤がついているのを見れば、白いものの正体は明白だ。
「クラーケン……!!」
 化け物のような巨大イカだ。伸ばされた触手がキッチン内でびちびちと跳ね回り、俺たちを掻き出すような仕草をする。まるで、ビンの底に残ったジャムを掻くスプーンのように。
「狭すぎる!」
 キッチン内で暴れられると、保たない。キッチンそのものも、俺たちも。
 俺とアノニムが同時に同じことを考え、俺は斧を、アノニムは棍棒を触手に叩き付けた。弾力。
「っち……!」
 あまりダメージにはなっていないらしい。もう一発、と斧を振りかざしたとき、キッチンの隅にいたサナギが叫んだ。
「火! 火を当てて!」
 それには黒曜が素早く対応した。キッチンで焚かれていた火から一本、素早く薪を抜き取ると、点火したままのそれを触手に押し当てた。
 ジュウ、と焼ける音がして煙が立つ。イカが焼ける匂いも立つ。間髪入れずパーシィが叫んだ。
「すごくいい匂いがする!」
「言ってる場合かよ!」
 触手はのたうって、ちかちかと発光した。突然、煮えていた鍋がひとりでに持ち上がり、俺たちに向かってぶちまけられた。狭すぎる船内ではあるが、かろうじて熱湯の直撃は避けた。それでも肌を露出した部分に飛沫がかかり痛みが広がる。
「なんだ、今のは!?」
「て……テレキネシス……!」
 サナギが震える声で言った。
「この海域のクラーケンがそんな特殊能力を持っているなんて!?」
 触手はキッチンから勢いよく引っ込んでいった。その隙に俺たちは甲板に出る。荒れ狂う波の上で、クラーケンが怒ったように触手を踊らせている。サナギが、
「信じられない……! この船はデコイだ! このクラーケン、テレキネシスを使ってあたかも誰かがいるような不審なキッチンを作り、そこに俺たちを誘き寄せたんだよ!」
 そんな馬鹿な!
 サナギの言葉を肯定するでも否定するでもなく、クラーケンは触手を船に絡ませた。木造の船がミシミシと音を立てる。
「ちっ……! やるしかねえか!」
 アビゲイル号に危険が及ぶ前に、こいつを倒すしかない。俺は斧を構え直した。

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