治癒と医術、あるいは恐れへの前進 3
集会所、と言えば聞こえはいいが、比較的小綺麗にされているだけの廃屋だった。名前の通り何人かの浮浪者が集会をしていて、俺たちの姿を見て目を白黒させた。
できるだけきれいなタオルと湯を用意するように言われて、それでもスラムの人々は同じくスラムに生きるこの女性とその中の赤子を見捨てはしなかった。洗濯したばかりだというタオルをようやく数枚、あるいは沸かした僅かばかりの綺麗な湯を持ち寄る。クエンはありがたく受け取り、こんなにいても仕方がないからと人々を退室させた。俺に声をかけたあの痩せ細った男性フレッドは、妊婦の身内らしく、入り口で心細そうに突っ立っている。
「子宮口がかなり開いてる」
「もう産まれるのか……?」
マリスに付き添ったときは、まるまる一晩かかったと記憶している。
「予定より早い」
クエンは妊婦にこまめに声をかけながら、分娩を進めている。
――突然、集会所の扉が強く開け放たれた。
俺が振り返ったときには、入り口にいたフレッドが突き飛ばされていた。よろけて尻餅をついたフレッドは、突如として乱入してきた男を見て顔を青くした。
「ワーミ! なぜここに!」
ワーミと呼ばれた男は、このスラムの中ではかなり大きな体格だった。痩せた男一人をゆうに突き飛ばすだけの力はあって、こう怒鳴る元気もあるようだった。
「医者が、医者が来たんだろ!」
ワーミの顔を見れば正気でないことはすぐに知れる。俺はすぐに彼の様子を薬物依存だと悟った。案の定、
「クスリだよ、クスリ! 俺にクスリを寄越すんだよ!」
「取り込み中だ! すっこんでな!!」
クエンはワーミを見もせずにぴしゃりと一喝したが、ワーミのほうはぜんぜん聞いていないらしい。
「せ、先生! こいつはヤク中なんだ、放っておいたら何するか」
フレッドの言葉にも、
「ヤク中にやる薬はねえ!! 余所を当たれ!!」
「産まれてこられるかわかんねえ赤ん坊よりよお、今生きてる俺を優先しろよなあ!!」
さすがに見かねた。俺はクエンとワーミの間に立って、左手の指先をワーミに向ける。
「<ホーリーライト>の射程内だ。一歩だけ下がるといい」
「なんだぁ……!?」
丁寧に言ったつもりだったのだが、通じなかったらしい。
「てめぇ……ミゼリカ教の神官か!? ちょうどいいなぁ、俺はてめぇらに聞きたいことがあってよぉ」
ワーミは手に持っていた錆びだらけのナイフを虚空にぶんぶん振ってから、
「神はどこにいやがるんだってなぁ!!」
叫んで、突っ込んできた。
それじゃあ仕方ないな。
「<ホーリーライト>!」
祈りが昇華されて聖なる光へと変じ、それがそのままワーミの鼻先で弾けた。手加減はしているから目くらまし程度だ。それでもワーミは勢いよくひっくり返り、床に頭を打ち付けた。
「いてぇ!! ちくしょう!!」
身悶えするワーミを上から覗き込み、
「神がおわすのは天界だ。ヒトには及びもつかない貴いところに座しておられる」
事実を伝えたが、ワーミのほうは忌々しそうに顔を歪めるばかりだった。通じないのは伝えている俺というより、受け取る側の人間が悪いのだろうな。
「くそったれ!!」
ワーミは勢いよく俺の顔面に向かってナイフを投げつけた。簡単にかわせたが、万が一当たっていたら大変なことだ。ナイフは俺の背後で、かろうじてこの廃屋にぶら下がっていた照明に当たり、ガラス製のそれは粉々に砕けた。
「うわ!」
ちょうど真下にいたクエンのもとにガラスが降り注ぐ。俺は慌てて振り返った。
「クエン! 大丈夫か!」
「まずい……!! パーシィ、来てくれ!!」
俺はワーミをちらと見たが、いよいよクスリが切れたのかぐったりしている。クエンのもとに駆け寄った。クエンの顔にいくつか切り傷があって、それよりも。
妊婦のルイーザの太ももに大きな切り傷ができていた。彼女が陣痛に力むたびに、鮮血が噴き出している。
「致死の可能性がある!」
「死……!?」
「動脈だ! ルイーザの気力も体力ももたない!」
クエンは俺を振り返った。
「治癒の奇跡は!?」
「も、もちろん使えるが……」
言葉の先は、当然――「母体と赤子が癒着する」。だが、俺がそれを口に出す前に、
「パーシィ、恐れるな! 怖いのは、見えないからだ! 知らないからだ!」
クエンは俺の目をまっすぐに見た。はちみつのような色をしたクエンの瞳は、顔じゅうに切り傷をつけてもその痛みに歪むことがなかった。
「いいか! 胎児は胎盤って膜を通して栄養やら老廃物を母体とやりとりしているが……胎盤と胎児はへその緒で繋がっている! もしお前が、治癒の力で母体と胎児がくっついちまうって思ってるなら、それは奇跡の力までへその緒を通して胎児に流れ込むからだ!」
はっとした。そうか、俺は……そんなことを考えたこともなかった。ヒトが産まれてくるしくみ。赤子と母体をつなぐもの。
「慎重にやれば、何も恐れることはない。奇跡の力をコントロールしろ!」
奇跡の力のコントロール。
一番得意なことと言ってもいい。俺が元とはいえ、天使であることの証左。
"怖いのは、見えないからだ。知らないからだ"
"今のあなたがやったところで、……"
マリスは知っていたのだ。俺が当時、ヒトの営みを、ヒトのしくみを理解できなかったであろうことを。
そして今ならできるのだ。俺は、もう、あのときの俺ではないから。
俺は血の流れるルイーザの太ももに手をかざした。ヒトの身体のどこに何があるのかしっかりと見て、そして……祈りの言葉を唱える。落ち着いていた。自分の力をゆっくり流す感覚。溢れないように。だが、足りすぎないように。そして、どこまでも流れていかないように……。
小さな光が彼女の傷に集まる。ほんのわずか明滅してはじけ、そして、消える瞬間に傷を癒していく。
「……!」
傷が完全に塞がったことを確認して、俺はかざした手を下ろした。
「でかした! パーシィ!」
母体の様子をつぶさに観察していたクエンは、大きく頷いた。
「ルイーザ、大丈夫だぞ。陣痛はあるか!」
ルイーザは苦しげに呻きながらも何度か頷いた。
「よし……! 続けるぞ!」
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