星数えの夜会の戦い 3
騎士団の詰所の場所は南門のほうだ。2人は大通りを南下していく。
言いたいことはたくさんある。しかし何もまとまらないし、そもそも言葉にすることに意味があるのかも分からない。ただ、やることだけは決まっていた。そうしたい、したくないに関わらず、サナギを詰所まで送り届けることが今の緑玉に与えられた役目だ。緑玉は今も昔も、それに逆らえない。
大通りはところどころ燃えていて、崩れた家の瓦礫がたくさんある。死体もあった。緑玉は故郷のことを思い出して嫌な気持ちになる。
ふと、泣き声が聞こえた。見れば、瓦礫の前に子供がいて泣いていた。足から血を流した子供がもう一人、力なく瓦礫の上にもたれている。
サナギが立ち止まった。
「怪我をしている。それに……避難場所が分からないのかな? 聖ミゼリカ教会に連れて行ってあげよう」
緑玉は紙束を持ったままのサナギの手を引いて止めた。
「聖ミゼリカ教会は騎士団詰所とは逆方向だ。移動距離が伸びることはリスクでしかない。無視するべきだ」
サナギは何度か瞬きをして緑玉の顔を見つめる。ちょっとびっくりしている、という感じで、緑玉に対して軽蔑や失望といった感情は伺えなかった。
緑玉は重ねて、
「<天界墜とし>の送還術式を書けるのはサナギしかいないんでしょ。サナギを喪うリスクは一つでも増やしたくない」
それから、視線から逃げるようにそっぽを向く。サナギは瓦礫の前の子供たちと緑玉を見比べて、やがてぽつりと言った。
「……過去の俺の因果応報だ、俺には<天界墜とし>に対する責任がある」
「分かったら、行こ」
緑玉はサナギの手を引いたけど、彼は動かなかった。
「でも、それって見捨てる理由になるかな? 俺の責任はこのベルベルントにいるすべての命から負っているんだよ」
そして緑玉を見て何故か微笑むのだ。
「大したことじゃないよ。ただちょっと寄り道するだけじゃないか」
「たった2人の、しかも片方は死にかけてる、あんなちっぽけな命のために危険を負う必要はないんだ!」
思わず大きい声が出てしまった。サナギは緑玉の激昂を静かに受け止めてから、
「でも、生きてて、生きたくて、なのに見捨てられたら、それって悲しいことじゃない?」
そんなのは、と、緑玉は思う。サナギがその身を危険にさらす理由にはならないじゃないか。
サナギは緑玉の腕を優しく振りほどくと、子供たちのほうへ向かっていった。軽く身体を屈めて「大丈夫?」と声をかけている。
「ああ……あ、弟、ぼくの弟なんです。た、たすけて……」
子供はワッと泣き出し、血まみれの子供のほうを指し示す。瓦礫の上でぐったりしている子供の顔を見れば、2人が双子であることはすぐに分かった。
サナギは大通りを見渡し、小走りで道具屋に駆け寄ると、ほとんど地面に散らばって割れている瓶の中から無事なものを見つけ出してきた。傷薬だろう。
紙束を小脇に挟み、ハンカチに傷薬を染み込ませたサナギは子供の怪我をゆっくりぬぐっていき、最後に一番深い足の傷に巻き付けた。
「心配しないで。さあ、避難所に行こう」
緑玉はそれをただ眺めていて、そして、たまらなくなった。
だって、そんなの……、緑玉だって、そうされたかった。
優しい手で救われて、「心配しないで」って微笑みかけられたかった。
でも現実は、緑玉は何もできずに捕まって痛い目に遭って、それだけだ。緑玉の人生に、"サナギ"は現れなかったのだ。
突然、気配がしてそちらを向けば、崩れた店と店の間から何者かが現れた。悪魔だ。まっすぐに双子とサナギを狙っている。サナギは反応して銃を向け、子供がヒッと息を呑んだ。だが、悪魔の槍が届くよりも、先んじて走り出し悪魔との距離を詰めた緑玉のトンファーが突き刺さるほうが早かった。
悪魔の頭蓋が割れて血飛沫が上がるのに子供が怯え、「ひぃ……ッ!」と情けない声を上げた。緑玉はそれにもイライラする。
「ありがとう、緑玉」
サナギは銃を下ろした。緑玉は無言を返す。サナギが子供を治療してる間、大通りを警戒するふりをして、ほんの数m、その場を離れた。そうするしか気持ちを収める方法がなかった。
あのままサナギの顔を見ていたら、泣き喚いてサナギに当たってしまいそうだった。そんなことになったら、緑玉はもう自分自身に耐えられない。
大通りの陰から複数の気配がする。悪魔だろう。ほんとうに多い。一様に、淡い紫っぽい色の肌に、黒い鎧を身につけている。天界に悪魔の軍とかがあるのだろうか。
出会い頭。むしゃくしゃついでに即、1体殴り倒す。悪魔が臨戦体勢に入るときにはもう1体、頭を潰していた。まだ3体残っている悪魔が一斉に武器を振るう。槍が腕を掠める。剣2本を続けざまにトンファーで払う。
隙の大きい槍の悪魔の懐に入り込み顎を一閃。それから剣の悪魔に回し蹴りを食らわせて吹き飛ばした。
最後の1体と対峙した瞬間、再びの銃声。悪魔はこめかみを的確に撃ち抜かれて崩れ落ちた。
見れば通りの向こうで、サナギが構えた銃を下ろすところだった。
「……」
「……」
緑玉とサナギは数秒だけ見つめ合って、でも特に何も言わずに、緑玉から視線を逸らした。
星数えの夜会の戦い 2
サブリナは間髪入れずに、予備動作もなく鋭い蹴りを繰り出した。かろうじてトンファーでいなしたが、相当な威力であることが分かる。それだけでかなりの熟練者だと知れた。
格闘術、より正確に言えば、蹴術がサブリナの武器のようだ。蹴りというのは拳での攻撃より単純に威力が高い。熟練者なら手数も多い。厄介だ。
蹴りにトンファーの構えを合わせて防御し、もう片手のトンファーで足を折ろうと試みる。体格で負けている以上、狙うのは"武器"だ。
だが叩き折る前にサブリナは素早く足を引き、踊るように回った。後ろ回し蹴りを防御する。しばし力が拮抗する。
「可愛い顔して意外と狡猾ね!」
サブリナが笑う。
「悪魔に狡猾とか言われたくない」
「いやん、アタシはラヒズたちとは一味違うわよ」
「何が違うの。悪魔でしょ」
ギリギリとサブリナの足に力が籠められていく。緑玉が少しでも気を抜けば、トンファーを突き抜けて蹴りが突き刺さるだろう。
「そもそもあんまり気が合わないのよね。今回は楽しそうだから手を貸してるけど」
「手を貸してる? でも、あんたも<天界墜とし>で落ちてきたんでしょ?」
サブリナは足にいっとう力を込めて緑玉を身体ごと跳ね飛ばすと、くるっと回ってハイヒールの踵を鳴らした。
「アタシは違うわよ。だいたい、あの召喚術式で天界までは堕とせないでしょう。たぶん、ラヒズも承知の上なんでしょうけどね」
「……」
「それでも悪魔を大量に召喚できれば、街一つくらいは攻め落とせる――そういう考えなのかしらね」
「じゃあ<天界墜とし>は、結局失敗してるの?」
緑玉が尋ねると、
「んーそうねえ。この街が陥落すれば成功だし、陥落しなければ失敗。そういうことじゃない?」
喋りながらもサブリナは足を止めてはいない。次々繰り出される蹴りをトンファーで叩き落とすが、緑玉の反応のほうが若干遅れている。
「とはいえあの術式は実際、大したものよ。悪魔が無尽蔵に召喚できるんだもの。熟練の召喚師でもああはいかないわ。人間側はジリ貧ね」
のんびり話しているように見えるのに、サブリナは攻撃の手をいっさい緩めてはいない。サブリナの話が有益そうだからと会話に集中しようもんなら、一瞬で流れをもっていかれるだろう。
「ただ、アタシはあまり侵略とかには興味ないのよね。強いオトコと戦えるならそれでいいわ!」
カンッとハイヒールのカカトが鳴って、頭部を狙うハイキック。緑玉は半歩下がってかわした。
「サナギを探してたんでしょ? サナギは強い男じゃないよ」
少なくとも物理的には。
「そっちはアタシの相棒の失敗のフォローよ。あの子、ほんとどこ行ったのかしらね」
それは知らない。
サブリナのハイヒールのカカトが緑玉の頬を掠る。蹴りだというのに鋭すぎるそれは切り傷になった。
「……」
強い、と、素直に思う。勝てるか? 分からない。どうしたものか。
もちろん、サナギは守り抜かなければならない。それが黒曜から与えられた役目だし、それに単純に、サナギに死なれては困る。
サブリナが足を引く。最低限の動作で、最大の威力を発揮してくる。防御しようと構えた。
が、突如バン、と音がして、でもサブリナはそれより早く攻撃をやめて身体を半身に傾けていた。何らかの回避行動をとったのだと理解するのと、先ほどの音が銃声だと認識するのは同時だった。発砲――!? この場において、敵に対して銃撃を仕掛けるもの。そんなの1人だけだろう。
サナギだ。研究室の出入り口から左腕で紙束を抱え、右腕でサブリナに銃を向けている。
一瞬、思考が停止する。――なんで出てきた!?
サブリナがあらまあ、という顔をして、でもすぐに体勢を立て直すと一直線にサナギに向かっていく。緑玉が守りに行く前に、勢いよく夜会の窓から転がり込んできたのはしなやかな黒い影。黒曜だ。サブリナの対応力はさすがで、突如として現れた黒曜に対しても冷静な彼は、黒曜に向かってキックを放った。
黒曜は青龍刀で受け止めると、サブリナの足を弾き迷わず一歩踏み込んで青龍刀を横薙ぎにした。
「行こう、緑玉!」
サナギは黒曜がサブリナを引き受けているうちに、あっという間に裏口から飛び出していった。
「ちょっとサナギ……!」
緑玉は慌ててサナギを追いかける。サナギなんて大して素早くない。難なく追いつき、並走する。
「どういうことなの!? どこに行く気!?」
「とりあえず……応戦本部、騎士団詰所! そこで続きを書く!」
それは、説明になってない。緑玉の顔を見て、サナギが、
「……もし夜会に悪魔が来て。その悪魔がきみの手に負えない強さ、あるいは数だったとき、黒曜が囮になって俺ときみを逃がす――そもそもそういう話だったんだよ」
「は? ……何それ、聞いてないんだけど」
「言ったら反対するでしょ」
「ふーん。……そう」
緑玉は、明確に、拗ねた。
「俺に黙って全部決めてたんだね」
だって、いつもそうだ。緑玉は蚊帳の外。ただそこにいるだけで、ほかで全部決まっていく。
サナギは走りながら何とも言えない顔を向けていたけれど、それ以上のことは言わなかった。もっとも、何かを言われたとして、今の緑玉にとってはすべて言い訳だ。
星数えの夜会の戦い 1
サナギが自分の研究室に籠って2時間が経とうとしている。緑玉は今は誰もいない星数えの夜会の食堂で、バーカウンターに寄りかかっていた。
もしかしたら、タンジェリン辺りはしっかり立って入り口と裏口を見張れなどと言うかもしれない。ただ、入り口を見張れば裏口が疎かになるし、その逆も然り。結局、この位置がどっちも見張れてちょうどいい。
もちろん警戒は解いていない。トンファーは握っているし、襲撃があれば対応できる。実際、対応したばかりだ。夜会の窓を割り、扉を破壊して、3体の悪魔がずかずかと入ってきたので、そいつらは殴り殺した。数で負けていたから、少し怪我は負ったものの、まだ対処可能だ。
ラヒズだってサナギが送還術式を書けるかもしれないことは知っているはずだ。ラヒズがサナギを放っておくはずはない。もう少し攻撃が激しくてもよさそうなものだ。もし、この街に襲い来ている悪魔全部にそのことが伝わっていないのだとしたら、指示系統の見直しをお勧めする。
サナギの研究室は静かすぎて、たまに様子を見に行こうか、と思う。でも集中している邪魔になってはいけないし、その間に襲撃が来たら……やっぱりできない。結局、ここでヤキモキしているしかない。
こうしていると、自分はいつも何もできずに突っ立っているだけだな、とか、考える。
――余計なことを考えているね。
思い浮かんだのは、老人のしわがれた声だった。
奴隷だったころ、緑玉は日常的に結構痛い目に遭っていた。そこの主は緑玉で長く"愉しむ"ために、怪我を老医者に治療させていた。その老医者のことは男女の別すら覚えていない――というか、当時からそもそも分からなかった。老爺だったのかもしれないし、老婆だったのかもしれない。老人に対して変な感じだけれど、中性的なひとだった。
その老医者は特段、緑玉に同情らしい同情を向けていたわけではないのだが、ただ、彼――あるいは彼女――との時間が、緑玉にとっては唯一、安らぎの時間だったことは間違いない。
人は、死んだ者の声から忘れていくらしい。これは確かサナギから聞いたことだ。そのときは「趣味の悪い雑学を植え付けてこないでほしい」と文句を言ったと思う。
あの老医者の声は明瞭に思い出せる。不思議だ。
ただ――この後に、何か一言、二言、あったような気がする。それがどんな言葉だったかは思い出せない。
不意に、人の気配がした。緑玉は入り口のほうを見る。破壊された扉から、ひょいと人影がこちらを覗く。緑玉はトンファーを構えた。
ずいぶん背が高い。緑玉より、黒曜より、アノニムより高いだろう。中に入ってくるのにカツカツと音を鳴らしているのはハイヒールで、それでさらに大きく見えた。
ハイヒールということは女性なのかと思ったが、ガタイがどう考えても男だ。顔は……化粧が濃くてどちらだか判断できない。どっちにしろ、知らない顔であった。緑玉と目が合い、
「あらやだ」
急な訪問者は頬に手を当てて声を上げた。声は男だ。口調は女。どっちなのか正直混乱しているけども、そんなことは些細なことだ。もっと重要なことはつまり――敵か、味方か?
お互いに一拍、沈黙。それから訪問者は、
「イケメンじゃないの!」
「……」
ここまでの情報じゃ敵か味方かは分からない。冒険者と言われればそうも見えるし、悪魔と言われれば……ラヒズが悪魔だというぐらいなんだから、こういうのもいるのかもな、という感じだ。
「ボウヤ。ここって『星数えの夜会』で合ってるかしら?」
「……」
星数えの夜会を探している。ということは……。緑玉の脳内の天秤は敵側に傾く。
「応援に来たのよ。アタシの相棒がやられたって聞いて……」
相棒がやられて、応援? ということは、冒険者? だが、緑玉の脳内の天秤は味方側には傾かない。一度疑いが出れば当然だ。
「……あんたの相棒が誰だか知らないけど。ここに来たのは悪魔だけ」
緑玉は真実をそのまま伝えた。あらまあ、と、それでも訪問者は焦る様子はない。
「あの子ったら。場所を間違えたのかしら。困った子ねェ」
まあいいわ、と。
「緑の髪の美形……アナタがサナギちゃん?」
「……」
サナギを探してるということは、つまり悪魔で、敵だということなのだろう。だがサナギを探すのに教えられた特徴としてはそれは雑すぎる。やはり悪魔の指示系統には問題がありそうだ。
とにかく、そうと決まれば戦うだけだ。一歩踏み込む。頭部を狙うには位置が高すぎる。ボディを狙ってトンファーを突き出した。訪問者はバックステップで難なく回避する。
「あら人違い? ごめんなさいね」
カツンとハイヒールが鳴る。
「それにアタシったら、自己紹介もまだじゃない。アタシの名前はサブリナ。悪魔よ」
サブリナと名乗った悪魔は続けた。
「さ、名乗りなさいな。戦いの前には必要よ」
戦う前に名乗りを上げる? 悪魔のくせにまるで武人だ。馬鹿馬鹿しい。そんな儀式的なことに何の意味があるのか。
だいたい、サナギのことを知っているなら、夜会のメンバーは把握しているだろう。それとも……サナギのことしか聞いてないのだろうか? サナギと緑玉を間違えるくらいだ、可能性はある。
緑玉は構えたまま一瞬躊躇ったが、
「……緑玉」
結局名乗った。
「緑玉ちゃんね。楽しみましょ!」
花通りの戦い 3
閃きと同時に決断、そして決断と同時に、アノニムは手に持っていた棍棒を、ハンプティに向かってぶん投げていた。
狙いは正確に。だが一瞬の時間もかけず。
アノニムの人並み外れた怪力から繰り出された棍棒は、恐ろしく凄まじい速度で、まっすぐにハンプティの腹に突き刺さった。
人間相手だったら棍棒はきっと骨を粉々に砕き、肉をひしゃげさせただろう。しかし見た目は少年でもさすがは悪魔といったところか、ハンプティは勢いよくゴムまりみたいに跳ねて階段を転げ落ちてきただけで、意識も失ってはいなかった。
だがハンプティが階段を落ちている間、アノニムは迷わず娼婦の手からカミソリを叩き落とし、足を払って床に倒した。ハンプティが階段の下で顔を上げるまで実に十数秒、アノニムはあっという間に娼婦全員のカミソリを奪い遠くに捨て、突っ立つ娼婦を全員組み伏せていた。
「――やっ、て、くれたね……!」
ハンプティが血反吐を吐いて心底苦い顔をした。
ホックラー遺跡で相対したとき、アノニムが遠距離攻撃や投擲の類を扱わなかったので、まるっきり油断していたのだろう。
アノニムは見世物小屋の奴隷剣闘において、どんな手を使ってでも勝利と生をもぎ取ってきた。あらゆる手段、武器、戦法――精通とまでは言わないが、一通りは経験がある。わざわざ所持することはないのだが、簡易な弓や投石程度は扱えるつもりだ。
ただ、それらが手元にないときに遠距離攻撃が必要になったとしても、手持ちの武器を投擲することは即ちその後の武器を失うということで、だいたいの場合、アノニムにとっては"負け筋"だった。今回も無意識にそう判断してしまい、思考にも上がってこなかったのだろう。
「よりにもよって、閃いたのがあいつのおかげってのは気に食わねえが……」
タンジェリンが聞いたらなんと言うだろうか。タンジェリンのことを何も知らないので特段思い当たらないが、もしかして「はっ、礼のひとつでも言ったらどうだ?」とか言ってくるのだろうか。やはりまったく気に食わない。
ハンプティはよろよろと立ち上がり、
「アルベーヌ! アノニムを取り押さえて!」
叫んだ。はっとした。やはりアルベーヌも<魅了>にかかって――
「え……?」
――いなかった。
アルベーヌはすやすや眠るベルギアを抱いたまま、アノニムとハンプティの顔を戸惑いがちに交互に見て、それから数歩下がった。むしろアノニムから離れるように。
「効、かない……!? なんで!? なんでさ!!」
駄々を捏ねるようにハンプティが怒鳴る。「そんなことを言われても」と、アルベーヌが困った顔をする。
「てめぇ、何か……まじないでも受けてるのか?」
「まじない……?」
アノニムの問いに、アルベーヌは首を傾げた。
「あたしはそんなもの受けちゃいないよ。でも、ベルギアには、落ち着いてから<祝福>をしてもらったね……」
「<祝福>?」
「あんたの仲間のあの優男にさ」
パーシィのことだ。いつの間に。
「何なんだ、<祝福>って」
「聖ミゼリカ教のちょっとした加護だよ。ふつう新生児にかけるもので、魔を払うって言われているんだ」
それなら、ずっとベルギアを抱きしめていたアルベーヌが無事な理由が分かる。
「しゅ……<祝福>……?」
ハンプティが呆然と呟いた。
「な……なんでそんなものを……? まさか、ボクの能力を警戒して……!?」
その言葉に、アルベーヌは何を言っているんだ、という顔を向けた。
「<祝福>は健やかな成長を願うおまじないだよ。我が子のように大事な娘から産まれた子なんだ。<祝福>してもらうのは当然のことだろう?」
分からないのだ。
悪魔のハンプティには、分からないのだ。
ヒトが抱く、ヒトに対するその感情が。アノニムですら、今なら少しは、分かるというのに。
もはやこれ以上、戦いを長引かせる理由はなかった。アノニムはハンプティまで足早に近づく。ハンプティはアノニムに<魅了>を使ったかもしれない。だが、それがアノニムの身体のコントロールを、意識を奪うより先に、アノニムはハンプティの横に転がっていた棍棒を拾って、ハンプティの頭を叩き割っていた。
ハンプティの身体が靄に包まれて、徐々に縮んでいく。靄が晴れたとき、そこには、1匹のコウモリがいた。
これがハンプティの本当の姿なのだろうか。コウモリは動かない。死んでいる。
「や……やったのかい……?」
アルベーヌが尋ねる。アノニムは頷いた。
「ああ」
「よ、よかった……ああ、よかった……!」
アルベーヌがその場にへなへなとへたり込む。
「おい。これから教会に移動だ。そんなところで腰抜かしてんじゃねえ」
「……誰も傷つかずに済んだね。アノニムのおかげだよ……。でも、あの子にはなんだか、可哀想なことをしたね」
アルベーヌが床に落ちたコウモリに同情的な顔を向けるので、アノニムは呆れてしまった。
「娼婦たちを人質に取ったのを見ただろうが」
「何も知らないという感じだったじゃないか……。生まれ変わったら、今度は仲良くなりたいもんだね」
生まれ変わりなんてあるものか。死んだら終わりだ。パーシィだってそう言っていた。
周りの娼婦たちが意識を取り戻して身を起こし始める。何が起きたか分からない、という様子の娼婦たちに説明を――するのは、アルベーヌに任せた。
アルベーヌに抱きしめられたベルギアは、いつの間にか目覚めていた。
アノニムの親友に<祝福>を受けた、アノニムの幼馴染が遺した誇りが、のんきに機嫌よく笑っている。
花通りの戦い 2
花通りに到着した。確かに娼婦たちが言っていたとおり様子がおかしい。人の気配はするが、騒ぎにもなっていなければ悪魔の侵攻した様子もない。
ひとまずアルベーヌが仕切る娼館の扉を開ける。娼婦が何人か突っ立っていた。
「何してやがる。さっさと――」
アノニムはすぐに違和感に気付き、足を止めた。娼婦たちの目は虚ろで、ぼうっとした無表情は、まるで亡霊のようである。
覚えがある。これは――!
「アノニム!」
そこで奥の部屋から赤ん坊を抱えたアルベーヌが飛び出してきた。言わずもがな、娼館にいる赤ん坊なんざベルギア以外にいるわけがない。
「てめぇ、なんで逃げてねえんだ!」
駆け寄ってきたアルベーヌに怒鳴るように言うと、アルベーヌは、
「逃げようとしたさ! けど、他の子たちがずっとこの調子なんだよ!」
と、突っ立ったままの娼婦たちを指し示した。
「これは悪魔の<魅了>とやらだ。俺が何とかするからてめぇは先にベルギアを連れて教会へ行け」
間違いない。花通りのどこかにハンプティがいる。娼婦たちを<魅了>してここに留めているらしい。目的は分からない。本人に聞くしかないだろう――そう思ったところで、その本人が現れた。
「来てくれたのは誰かなーっと! ……うげ、アノニムかぁ」
2階から跳ねるように降りてきたハンプティは、アノニムを見て苦い顔をした。
「あの坊ちゃんがどうかしたのかい?」
アルベーヌが不思議そうに首を傾げる。
「この状況下でのんびり娼館の2階にいるガキが普通なわけねえだろ」
外見に惑わされてはいけない。あの少年が何をしたのか忘れるわけがない。アルベーヌは少し青い顔になって「確かにそうだね」と頷いた。
アノニムは今朝方からの自分のことを振り返ってみた。――パーシィの<おまじない>は、受けていない。やはりどうやらあれが<魅了>を跳ね返したらしいことは、サナギから聞いていた。……まずいかもしれない。
だが、アノニムが自身の状態に違和感を覚えるような事態は、一向に起こらなかった。そういやアルベーヌもいつも通りだ。
「てめぇ、大丈夫なのか?」
アルベーヌに尋ねると、
「な、何のこと……?」
不安そうな顔が返ってくる。やはり<魅了>されている様子はない。
ハンプティはニヤニヤしている。どういうつもりなのかは知らないが、今のところ<魅了>がかかっていないなら好都合。この好都合が終わる前にケリをつける。
だがアノニムがハンプティに向かって駆け出そうとしたとき、ぼーっと突っ立っていた娼婦たちがいっせいに動き出し、アノニムの前に立ち塞がった。
娼婦たちを振り払うのは簡単だ。だが、数本骨を持っていく覚悟がいるだろう。そうなれば、<魅了>が解除されたあとに教会に連れて行くのも難しくなる。アノニムは手加減なんてものを知らずに生きてきたのだ、娼婦たちを傷付けずに目の前からどかす手段は、すぐには思いつかない。
「チッ……!」
「あんたら何してんだい! アノニムの邪魔をしちゃ駄目じゃないか!」
アルベーヌが必死に声をかけているが、
「無駄だ。<魅了>されてる。あのガキの言うことしか聞かねえ」
アノニムが言うと、アルベーヌは口を閉ざし、不安そうに腕の中のベルギアを抱き締めた。
先にアルベーヌとベルギアと逃がしてやりたいが、道中の悪魔の量を考えるとそれも現実的じゃない。アノニムにとってはそれほど脅威ではないが、赤子を抱えた女なんか悪魔にとっては容易く狩れる獲物でしかない。
いったんアルベーヌを守りながら先に教会に行くべきか? だがそうすると……。
「逃げようなんて考えないことだね」
ハンプティが笑った。
「<魅了>中はこんなこともできるんだよ!」
娼婦たちの数人が、カミソリを取り出して自身の首筋に当てる。アノニムはまた舌打ちした。
ハンプティは少なくともここを強行突破できない誰かしらを待っていた。娼婦たちを人質にとって、その誰かしらを嬲り殺すために。
唯一意識があるアルベーヌは、足枷だ。
「せっかくのお祭りだもんね。楽しませてもらうよ~!」
ハンプティはキャッキャと楽しそうに笑う。
「さあ、アノニム。動かないことだね! ここの女の人たちがどうなってもいいなら別だけど」
アルベーヌが不安そうにこちらを見る。
娼婦のうち2人がカミソリをアノニムに向けた。残りはみんなカミソリを自分自身に当てたまま、だ。
「このままアノニムの身体を切り刻んで、最後に首を掻っ切ろうね!」
ハンプティは終始、楽しそうである。言葉通りだ。意識のあるままのアノニムが成すすべなく切り刻まれ、首を掻っ切られて死ぬのを見るのをご所望なのだろう。
どうする? アノニムは考える。
もちろん、死んだら終わりだ。アノニムはここで終わるつもりはない。
ならば、娼婦を押しのけるか。それをすれば、押しのけた数人は怪我はするだろうが助かる。だが自身を人質にしている娼婦は即座に喉を掻っ切り死ぬだろう。そいつらは自分が死ぬという自覚すらなく、終わる。
アノニムが死んで終わることは、名実ともに敗北だ。アノニムが死んだあとアルベーヌもベルギアも、娼婦たちだって殺されるだろう。そう考えれば、アノニムがやることは一択だ。そのはずだ。"多少の犠牲は仕方がない"。少なくともアノニムはそう生きてきた。
それでも、アノニムの選択で目の前で何も知らずに死んでいく娼婦がいることが、アノニムの決断を鈍らせる。
"生き抜くためにはそれ相応の戦いがあり、それに勝ったから命はここにある"。だが、これは娼婦たちにとって"それ相応の戦い"だろうか? 考えるまでもない。違うに決まっていた。
――「後悔だけはごめんだ」
こんなときに思い出すのが、あの不退転の男であることに、辟易する。さっき会ったからだろうか。
――「後悔しながら生きるくらいなら、俺は俺が思う最善で死ぬことなんざ怖くねえ」
後悔。そんな感情に、アノニムは覚えがない。当然だ、後悔なんかするはずがない。アノニムは自身の戦いにおいて、常にタンジェリンの言うところの"最善"を尽くしてきたのだ。それは何においてもアノニムが生きること。戦って、生きて、それが続くことだ。
だからきっとアノニムは、この選択を誤ったら"後悔"する。
ん? ……タンジェリン?
前髪を留めていた金のリングが、アノニムの懐で肌に触れ、ひんやりとして、アノニムの頭をサッと冷やす。
アノニムの首にカミソリが迫る。死が近づく。
けれども、それより早く。アノニムの脳裏に、弧を描いて飛んできたリングが閃いている。
――なんだ、"それでいい"じゃねえか。
プロフィール
一次創作小説、
「おやすみヴェルヴェルント」
の投稿用ブログです。
※BL要素を含みます※