カーテンコール 7
「タンジェ? 山を下りるのではないのか」
と黒曜に声をかけられたので、タンジェは自分の次の目的を告げていないことに気付いた。
「悪い。ペケニヨ村の跡地に行こうと思ってな」
「そうか。理由を聞いても」
「ああ、話せば長くなるんだが――」
タンジェは日記のこと、手紙のこと、それを握り潰した冒険者のことを話した。その冒険者たちもとうに死んでいて、殺したのはラヒズで、そのラヒズを倒したのはタンジェで、すでにすべてが終わっている、ということも。
「……別に、何か意味があるとか、死んだ奴らの魂がどうこうとか言うつもりはねえが――」
タンジェは、ぽつりと言った。
「親父とおふくろに、礼が言いたい」
「……」
「それでよ、気付いたんだが……礼を言うにも、墓がねえ」
「?」
「ペケニヨ村が襲われたあと、俺はすぐに壊滅した村を出たからな。弔ってもねえし、墓も作ってねえんだよ」
我ながら酷い話だと思う。タンジェは復讐心に駆られ、すぐさまエスパルタまで下山し、そこで早々にベルベルントへ向かったのだ。焼けたままのペケニヨ村、そして村人たちの遺体を残して――。
だが黒曜は特段責める様子もなく、
「そうか」
とだけ言って、理解の様相を示した。
「だから、簡単なのでいい、墓を作ろうと思った」
呟いたタンジェの横顔を、黒曜はしばらく眺めていたが、小さく頷き、再びペケニヨ村跡地へと歩き始めたタンジェのあとに続いた。
だが、ペケニヨ村跡地でタンジェが見たのは、予想だにしない光景であった。
――墓が、ある。
跡地はまだ荒れてはいたが、村の中心部の瓦礫はどけられていて、そこに質素ながらもそれと分かる墓が並んでいた。みずみずしい野花が供えられてすらいる。
「どういうことだ……?」
バレンたちオーガがやったのだろうか? いや、そんな話はしていなかった。理由もない。
じゃあいったい誰が、それを考えたときに、たった一人だけ、心当たりがないでもなかった。その一人は――
「タンジェ?」
不意に声が聞こえた。向かいの森からペケニヨ村跡地に向かってくる男がいる。穏やかなトーンでタンジェの名を呼ぶその人は、
「兄貴」
タンジェの義兄、つまり父オーレンと母アマンダの”実の子"、マンダリン・タンゴであった。
★・・・・
「タンジェっ!」
マンダはまたタンジェの名を呼ぶと、抱えていた花の束が千切れんばかりに走り寄ってきて、
「兄貴、てめぇ……」
感動の再会かと思われたが、
「本当に、お前ってやつはーッ!」
マンダの右手が振りかぶられて、タンジェの額に手刀を喰らわせてきたことで、台無しになった。
「……」
別に痛くはないのだが、1年以上ぶりの兄の制裁は心にくるものがある。いい意味でも、悪い意味でも。
「てめぇ……怪我はもういいのかよ」
タンジェは誤魔化すようにぼそっと言った。マンダは、
「だいぶ前から、すっかりいいよ! もうとっくにエスパルタに拠点を移して、ここ数か月はずっとここで村の人たちを弔っていたんだ」
「そ、そうかよ……」
そこでタンジェの後ろに気配なく立っていた黒衣の男に気付いたらしい、マンダは驚いたような顔をしたが、
「こんにちは」
と、黒曜に頭を下げた。
「タンジェの兄のマンダリン・タンゴです」
「兄?」
黒曜はごく小さな声で反芻した。
「兄がいたのか? ペケニヨ村の人々は、タンジェを除いて全滅したとばかり思っていた」
「そうだろうな。言わなかったしよ」
タンジェは吐き捨てるように言う。が、黒曜には事情を説明するべきだろうと思った。
「兄貴、こっちは黒曜だ。黒曜、こっちは……俺の兄貴で、親父とおふくろの、つまり……本当の子だ」
後半は黒曜にだけ聞こえるようにわざわざ小声になった。それから元の声量に戻り、こう説明した。
カーテンコール 6
「手紙は届けられなかった」
ぽつりとバレンが言った。
「その依頼を受けた冒険者たちは、手紙なんぞオーガが読めるわけがないと決めつけ、自己判断でオーガたちの討伐を決め、私の仲間たちを惨殺したのだ」
「……! そしてそれが、オーガどもがペケニヨ村を襲うきっかけになった……そうだな?」
「ああ、そうだ。生き残ったうち、事情をよく知らない集落の若い衆は、そいつらがペケニヨ村からの依頼で来た冒険者だと分かると、たちまち激昂してペケニヨ村を襲いに行った。止める間もなかった……それでも『悲願の子』を殺さない理性は残っていたようだが。……そのときにペケニヨ村を襲ったやつらは、もうここにはおらん。別の集落を作って、そちらで暮らしている」
バレンの巨大な手が握られた。
「お前にはもう承知のとおり、我らの集落の族長筋は多少なりとも共通語が読める。手紙が無事に届けられたなら、我々とペケニヨ村は、良好とはいかずとも、不可侵のまま共存ができたかもしれん」
「……」
タンジェは日記を見下ろした。手紙を託す旨を書いたところで終わった、母の日記を。彼女は手紙を託した安心と希望で、この日は眠っただろうか?
「おふくろ……」
どんな気持ちで死んでいったのだろう。父オーレンと母アマンダは。
タンジェの内心でくすぶっていた火がにわかに火種を放り込まれて、めらめらと燃え上がる。沸き立つ復讐心を、だが、オーガに向けるべきか、それともあるいは、
「その冒険者ってやつらは……、どんな連中だった? 名前や顔は分かるのか」
「タンジェリン。気持ちは分かる。私もそいつらに仲間を殺された」
だが、知っても詮無いことだ、とバレンは言った。
「詮無いなんてことねえだろ! 親父とおふくろの手紙を……ッ」
一瞬、息が詰まり、だがタンジェは最後まで言い切った。
「握り潰すような奴らなんだろうがっ!! 我慢ならねえ! そいつらが元凶じゃねえかっ!」
「落ち着け、タンジェ」
急にごく冷静なトーンの共通語が聞こえて、タンジェの意識が逸れる。この場でタンジェ以外に共通語を話すのは黒曜しかいない。
「っ黒曜」
「事情はあとで聞く。だから今は冷静に、情報を収集しろ」
「……っ、ああ」
やはり、黒曜がいてくれてよかった。タンジェはまた、ゆるゆると木に座った。
タンジェが落ち着いたことを確認してから、バレンはこう告げた。
「どうしようもないのだ。やつらはとっくに殺されている」
「な……」
意気込んでいただけに、タンジェは言葉を失った。
「――なんで死んだ? 誰に殺された!?」
バレンはため息をついた。
「ラヒズ様によってだよ。ラヒズ様の封印を解いたとき、我々は願いを聞いてもらった。私たち族長筋側のオーガたちはタンジェリンの行方を知りたがったが、若い衆はその冒険者どもの死を願った」
「……」
「丁寧なことに、ラヒズ様は両方の願いを叶えたのだ。冒険者たちの首を持ってきたよ」
「ぐ……」
先を越されていた。
そして、そのラヒズを倒したのは誰でもない、タンジェ自身なのだ。
すでに決着はついている。
「……くそっ!」
タンジェは地面に拳を叩きつけた。
「……」
バレンはしばらくそんなタンジェの様子を眺めていたが、一つため息をつき、
「だが、よかったと思うよ」
「あ……?」
「タンジェリン。お前に同族殺しをさせたくはなかった」
「ああ?」
大真面目の声色のバレンに、タンジェは眉を上げた。
「あのなあ。俺はもう吹っ切れてるんだよ。俺はオーガで、冒険者どもは人間だろ?」
「お前は人の子だよ、タンジェリン」
と、バレンは静かに言った。
タンジェはしばし黙り、バレンのその言葉をゆっくりと、噛み締めるように腹の底に沈めた。
タンジェは今度はきちんと目的をもって冷静に立ち上がった。つまり、話は終わって、ここから立ち去るために。
思うところがないではなかったが、結果として、ここにきてよかったと言える。共通の敵の存在があって、だがそれにももうすでに決着がついていたことが知れた。
そして、タンジェの中で少しずつ、オーガが復讐の対象から外れかけていた――もちろん、物理的に両親や村の人々を殺したのがオーガたちであることを忘れてはいない。
ただ、分かった。人間が犯罪を犯したとて、すべての人間が悪ではないように、オーガの中にも善悪があり、叔父とこの集落に暮らす僅かなオーガたちは、タンジェの敵ではない。
タンジェは今、このプロポント山を探し回ってペケニヨ村を襲ったオーガたちの集落を見つけ次第、オーガたちを殺すことができる。でもそれは、もうあまり意味のないことのようにすら思われた。燃え上がったり萎えたり、忙しい復讐心だ。だが、両親がオーガとの共存を望んだのなら、それを蹴ったのがオーガたちの意思ではないのなら、オーガたちの生き死にをどうにかするのは、きっとタンジェの役目ではないのだろう。
タンジェは口端を歪めた。
「せいぜい人間に狩られるなよ――バレン」
「……ああ。タンジェリン。そちらも健勝で」
頷き、黒曜のほうを見て「行こうぜ」と告げた。オーガの言葉と共通語を意図して使い分けてはいないのだが、対面する相手でどうやら自然に切り替えているらしい。自分のことなのにらしい、というのは何とも歯がゆいが……。話が終わったことを察していたのか、黒曜は浅く首肯した。
母の日記は持っていくといい、と、バレンは言ってくれた。タンジェは荷物の中にしっかりと入れたことを確認して、その場を立ち去る。
バレンたちはタンジェと黒曜の気配がなくなるまで、長く二人を見送っていた。
カーテンコール 5
妖魔は火を使わないものだ。日が高くてよかった。鬱蒼とした森は陽の光を遮り、暗い影をタンジェの手元に落としてはいたが、それでも視界は悪くない。広場で丸太が横にされただけの簡易的なベンチに腰掛けたタンジェは、叔父が穴倉の奥から戻ってくるのを待っていた。黒曜はあくまで警戒しているらしく、タンジェの一歩後ろで直立している。
「待たせたな」
と、叔父が戻ってきた。
先ほどの3体のオーガは、こちらもまた黒曜と同様に、囲むように叔父の背後に立っていて、彼を守ろうとしているようだった。叔父はこの群れの中でもそれなりに高い地位で、慕われているらしいことも伝わってきた。
「改めて自己紹介しよう。私はお前の……叔父にあたる。名前は……、人間の発音で一番近いのは、バレンだろうか」
「バレン……」
そう聞き取れた。復唱すると、バレンは頷いた。
「お前の産みの両親はすでに死んでいて、私が最後の血縁だ。そもそもの話、オーガが親類というのが、お前にとっては耳を覆いたくなるような話だろうが……」
「……」
タンジェはさりとて、傷ついてもいなかった。
「まあ、それはいいぜ。それで……話なんだが……」
「ああ」
「向き合う覚悟ができたっつうのか。以前会ったときも多少の話は聞いたが……何か、聞き漏らしてんじゃねえかって思ったんだ。それで……」
バレンは頷いた。
「正直、どうするべきか悩んでいた。来てくれてよかった」
「あ?」
「もう二度と、こんな機会はないだろうと諦めていたが……」
と、バレンはタンジェに、一冊の本を差し出した。
いや、本ではない。ところどころ焼け焦げ、ボロボロになっていて分かりづらいが、それは日記だった。
「日記……?」
「私は族長筋でね。お前のことがあって、少しだけだが、人間の共通語というものが読めるように学ばされた。書けもしないし話せもしないのだが……、だが、だからここから、私はすべての真実を知った」
「誰の……日記なんだ」
動揺を悟られないように意図したわけではないのだが、タンジェの胆力はこんなときでもタンジェの声を震えさせはしなかった。
「お前を引き取った夫婦の、女のほうだ。お前の人間としての……育ての母だ」
「……」
バレンの言葉に、タンジェは日記に視線を落とす。
「おふくろの……」
タンジェの手の中で今にも朽ちそうな日記は、沈黙を保っている。
先の発言からするに、バレンはこれを読んだ。そして、タンジェも読むことを望んでいる。
タンジェは周囲に見守られながら、静かに日記を開いた。
日記は分厚く、最初の頃は些細な日常だ。タンジェのことも所々に記載がある。どうやらペケニヨ村が襲われ壊滅したあの日の数か月前から綴られている。タンジェの手が、あるページで止まった。
『村の近辺で妖魔の姿を見た、という村人が現れた。緑色の肌で大きな身体をしていたそう。ゴブリンだと思いたかったけど、もしかしたらオーガかもしれない。赤子を抱えているオーガを見かけたのはもう16年前になる。そのオーガは地面に優しく赤子を置いて、その場を立ち去った。あれ以来、オーガなんて見かけていなかったけど……。今回目撃されたのは、あのときのオーガだろうか? だとすれば、もしかして成長したタンジェを探しに来た?』
『オーレンと相談したけど、オーガに手紙を書いてみることにした。あのときのオーガの優しい手つきを考えると、悪者とは思えない。もしかしたら共存ができるかも。オーガって文字は読めるのかな? 分からないけど、書いてみる。これは下書き』
『プロポント山中に住むオーガの皆さんへ。
私どもはペケニヨ村に住む夫婦、オーレン・タンゴとアマンダ・タンゴです。
あなたがたオーガのおひとりが森に安置した赤子を拾って育てた者です。
あなたがたは、この赤子が成長したのち、この子を取り戻しにいらっしゃるのでしょうか? 不安で夜も眠れません。
この子にはタンジェリンと名を付けました。村の気風に合わずちょっと気の短い子ですが、本当にかわいい子です。真面目で、誠実で、うそをつかない優しい子です。私どもの大切な子です。
もし取り戻したいとお思いなら、お話の機会をいただけませんでしょうか。
あるいはオーガの皆さん方と、共存とまではいかなくても、これまで通り互いに互いを傷つけることなく過ごしていけたらと思います。
私どもはみな、プロポント山の恵みに生かされる同士ではでありませんか。
オーガの皆さんの中にこの文字が読める方がいたらよいのですが』
『どうなのだろう? オーレンはなかなかいいと言ってくれたけど。でも、文字を読めるオーガがいなかったらあんまり意味はないかも……。それでも気持ちは通じるだろうか?』
『オーガの場所も知らないし、オーガの群れに行く勇気は、さすがにない。たまたま訪れた冒険者に、手紙を託すことにする』
日記を持つタンジェの手が震えていた。
オーガへの手紙? 親父とおふくろが?
カーテンコール 4
翌朝、タンジェはいつも通りの時間にしっかり目覚めた。早い時間なのだが、それでも黒曜はもうすでに起きている。思わず、
「早いな」
「普段通りの時間だが」
タンジェは少し面食らった。普段、黒曜がそこまで朝早いという印象がなかった。単に、起きてすぐに活動を開始し早朝のジョギングなどをするタンジェとは違い、目覚めの直後はしばらく自室で過ごしているだけかもしれない。思えば黒曜の寝顔を見たのは、ベルベルント中に眠りの邪法がもたらされたあのときっきりだ。
「そうかよ……準備して飯食ったら出ようぜ」
「ああ」
タンジェたちは身支度を整え、荷物を準備し、食事をとってからエスパルタを出た。向かう先はプロポント山である。以前にエスパルタに来たときも登った山だ。
プロポント山の山中には小さな村が点在していて、タンジェの故郷であるペケニヨ村や、ラヒズの謀略にかかった際に目的地としていたストリャ村もそれに含まれる。二つ以外にもいくつか村がある。タンジェが知っているのは例えばリケーサ村。それから、ヘブラ村……。
「……」
エスパルタは湿度が低く、爽やかな晴れなこともあり、山中は過ごしやすいくらいだったが、タンジェは全身に汗をかいているのを自覚していた。プロポント山に入って3時間が経つ。息はまったく上がっていないが、汗くらいはかく。黒曜は涼しい顔をしていたが、そっちのほうが例外だ。
幸いなことに、今のところ『オーガ除けの結界』に引っかかる感覚はない。それでも念のため、ストリャ村への最短距離の移動は避けた。タンジェは大回りでストリャ村周辺を探索する。
ラヒズは確か「ペケニヨ村の襲撃後、オーガたちは少し南下し、ストリャ村近辺に住処を移した」と言っていて、だがストリャ村は『オーガ除けの結界』でそれに対応した。つまりオーガたちはそこからも多少なりとも移動したと見ていいだろう。それでも人里――エスパルタ近くまで下りることは想像しづらい。まずオーガの痕跡を探し、そこから追跡することを試みる。
幸いあては当たり、タンジェはストリャ村周辺でほどなくオーガの痕跡を見つけた。大きな足跡と、たぶん狩りの跡だろう。狩られたのが近隣の村民でないことを祈りつつ、タンジェはすぐにその足音を辿っていった。
プロポント山の山中深くに分け入り、数十分。鬱蒼とした森は人の手の入らない自然のままの姿で行く手を阻むが、タンジェは焦らず、丁寧に進んでいった。後ろから黒曜も草を踏む音すら立てずについてくる。自然が深まるのに反比例するようにオーガの足跡は複数見られるようになり、住処が近いことが察せられた。
にわかに声が聞こえてくる。こんな山深くに人の集落はまずないはずだ。木々で姿を隠しながらタンジェはこっそりと声のするほうを覗き込んだ。山肌にあけられた洞穴が複数あり、広場じみた少し開けた場所に、どっかりとオーガが3体、座り込んで何かを話している。
たぶん黒曜には、声こそ明瞭に聞こえているだろうが、内容は分からない。逆にタンジェは、声自体はあまり聞こえないのだが、会話の内容が多少理解できた。
どうやら3体のオーガは、冬までに食料の貯蔵を増やしたいが、なかなかどうして、最近は獣が減ってきたとぼやいているようだ。
「しょうがないだろ。人間は襲うなって言われてる」
「人間食わずに『食人鬼』か。まあ人間が勝手に呼んでるだけだがよう」
そりゃそうだ、オーガは別に、食人鬼と自分から名乗らないだろう。そもそもそれ以前に、オーガと意思疎通ができる人間なんかほぼ存在しないのだが……。
タンジェは黒曜にここで待機しているよう告げ――タンジェ一人で会話が通じればそのほうがいいからだ。黒曜の存在は恐らくオーガたちを警戒させる――できる限り敵意がないことを示すため、斧は構えずにオーガたちに向かっていった。
「……おい!」
それにしては第一声が威圧的ではあったが、びくりとこちらを見た3体のオーガはすぐに立ち上がり、臨戦態勢に入った。
「なんだあ、てめえ! 人間がなんでこんなところに!?」
「待て、俺は人間じゃねえ」
タンジェはその場に斧を突き立て、手を離した。さらに斧から一歩だけ下がり、
「タンジェリンだ。その……俺を知っているやつはいねえか?」
「こいつ、言葉が通じるぞ……!?」
困惑するオーガたちは、それでもタンジェの多少拙いであろうオーガとしての言語を汲み取り、
「今、タンジェリンって言ったんじゃねえか。それってよう、族長の『悲願の子』じゃねえのか」
「……ああ、そうかもしれねえ、そんな発音の名前だったな」
顔を見合わせ、それから、
「お前を知ってるやつがいないかって聞いたのか? お前こそ俺たちの中で知ってるやつはいねえのか」
「悪いが、全員同じに見える。てめえらだって人間全員同じに見えるだろ」
と、適当なことを言ってみたが、「確かに」「それはそう」と思いのほかすんなり納得が得られた。
「だが、一人だけ知り合いがいる。ただ、名前も分からねえ。そもそもテメェらに名前があるのかもよく知らねえんだが……」
「あるに決まってるだろ、じゃなきゃ、どうやって呼ぶんだよ」
「……そりゃそうだな」
思いのほか"人間らしい"答えが返ってきて、タンジェはそう頷くので精いっぱいだった。人間たちが知らないだけで、知ろうともしないだけで、妖魔たちにも彼らなりの営みがあるってことなのかもしれない。
だからって赦せるわけじゃない。だが、赦しに来たわけじゃない。タンジェは話を聞きに来ただけだ。
「その……あー……『悲願の子』を産んだ夫婦に、兄がいたろ」
何とか叔父を引き出すため、タンジェは言葉を選びながら説明した。
「そいつに会いてえ。話がしたい。暴力をする気は、今のところねえ」
オーガたちはまた顔を見合わせたあと、ちらとタンジェが手放した斧を見て、
「どうする?」
「まあ、簡単に殺せそうだし、大丈夫じゃね?」
心外ではあったが、タンジェは黙って返事を待った。
「そしたら肉が食えるな」
「でもこいつ人間じゃねえんだろう? 話が本当なら、こいつ見た目が人間なだけのオーガじゃねえかよう。それって共食いだろう」
「そうか、そりゃよくねえなあ」
それがよくない倫理観はあるのか。なおも返事を待つ。
「何の騒ぎだ?」
そこでのっそりと、穴倉の一つからもう一体オーガが現れた。さっき言ったことは嘘ではなく、タンジェはオーガの見分けはまるでついていないのだが、なんとなく"声"が、あのときの叔父に似ているような気がした。タンジェと目が合ったそのオーガははっとして、
「タンジェリン……!」
やはり、そうだった。叔父は大きな身体を揺らして早足に近づいてきて、
「何故ここに? 一人で来たのか?」
「いや、ツレがいる。少し……話がしたくて来た」
タンジェは黒曜が隠れているであろう木々の先を軽く示したあと、叔父をまっすぐに見上げて言った。叔父は頭の痛そうな仕草をしたものの、
「……そのツレも呼ぶといい。人間生活の長いお前にとって、快適な場所ではないだろうが、歓迎しよう」
最終的にはそう言った。
カーテンコール 3
そもそも何故、今、タンジェがエスパルタまでやってきたのか――タンジェの叔父を名乗ったあのオーガにもう一度会うためだった。
覚悟が決まったのか、と問われれば、分からない、としか言えない。
たとえばその"覚悟"ってのは、復讐のためにやつを殺す覚悟か? それならば、それは違う。タンジェはあのときに先送った、やつを殺すべきか否かについて、まだ保留にしていたいと思っている。それを決断できるほど強くなってはいない。
だが、覚悟が"決まっていない"と断言しない理由はある。タンジェは「話を聞きたい」――そう思った。その決断は、タンジェにとって勇気がいることだったし、覚悟は、要った。だから、覚悟がないわけではない、と思いたい。
今更、あのオーガどもに何の話を聞くことがあるのか――そう思わない自分がいないわけでもない。だがそれでも、3月にこのエスパルタを出てから1年半が経った今、本当にタンジェは純粋にこう考えたのだ――"知るべきだ"と。
かつてラヒズに謀られ出会った叔父を名乗るオーガ。そこから足早に立ち去ったタンジェは、あの瞬間は、すべてを知った、と思った。でも実際はそうではない。知らないことは、多い。
特段のきっかけがあったわけではないが、思い立ったが吉日で、多少の貯金ができ始めたのもあり、タンジェはすぐにエスパルタ行きの切符を買い、黒曜一行と親父さん娘さんに留守にすることを告げた。とはいえ本当に少しの間だ、数日もすれば戻ると。
ほとんどが深い事情を聞かなかったが、行き先がエスパルタだと聞いてみんな大体の事情は察したらしかった。ただ、出発の日になったら馬車の停留所に旅支度をした黒曜がいて、無表情のままエスパルタ方面行きの馬車にタンジェと共に乗り込み、平然とタンジェの横に座ったので、タンジェは面食らった。
「テメェ、どっか行くのか?」
黒曜は黙ってタンジェにエスパルタまでの切符を見せた。
「一緒に来んのか?」
黙ったままの黒曜だったが、ほんの少しだけ首を傾げた。「駄目か?」のニュアンスだったので、
「切符も買ってんのに、今更残れとは言えねえだろうが……。まあ構わねえよ。ただ」
タンジェはほとんど吐き捨てるように言った。
「情けねえ姿を見られるかもしれねえぜ」
今、改めてオーガを前にして、まともに会話が成り立つのか……。あるいは会話が成り立ったと思っていたのは、あのときの錯乱だったのかもしれない。タンジェがやろうとしていることは、もしかしたらそもそも、まともなことじゃないのかもしれない――オーガとの対話なんざ。
だが、黒曜は静かに小さな首肯だけして、それでも馬車を下りることはなかったのだ。
★・・・・
二度目の『情熱の足音亭』は、前回来たときに比べればまだすいていて――あのときは聖誕祭に被っていたためだ――ツインベッドの部屋を取ることができた。
黒曜と同じ部屋で過ごすのは落ち着かないような気持ちもあったが、タンジェが星数えの夜会以外の場所に一人で宿泊するのはほとんど初めてで、だから黒曜の存在は正直ありがたい。これまでの冒険においては、部屋は別でも誰かしら仲間が一緒に行動するのが常だった。だからといって別に心細いとか寂しいとかはないのだが、目的を考えれば、多少なりともナーバスになるもので。
黒曜と二人で階下の食堂で遅めの夕食をとる。タンジェはやっぱりエスパルタ風オムレツを頼んだ。黒曜の選んだメニューは牛テールの煮込みで、これもエスパルタの一地方の郷土料理だ。届けられたメニューをもりもり食べている黒曜を見て、タンジェはにわかにシリアスな気持ちを忘れた。故郷の食べ物を美味しそうに食べてくれるのはやはり嬉しいものだ。
食後に湯を浴びて寝支度を整えて、2人は部屋に戻った。それからようやく、タンジェは今回エスパルタに来た自分の目的を黒曜に伝え始めた。
「オーガに会おうと思ってる」
意外でもなかったらしく、黒曜は黙って小さく頷いた。
「別にぶっ殺しに来たわけじゃねえ。その……まあ、話ができたらと思ってる。成立するもんなのか、正直よく分からねえが……」
それに、オーガどもの居場所も分からねえとタンジェは言い添えた。
「『オーガ除けの結界』がまだ機能しているなら」
黒曜は淡々と言った。
「それを避けた場所にいることは間違いない。ただ、ラヒズの消滅後、結界が残っているものかは不明だ」
「チッ、サナギに聞いてくりゃよかったな」
結界のことは失念していた。あれのせいで散々な目に遭ったというのに。
「だが、あの山なら多少は歩けるつもりだ。オーガの痕跡を見つけることは難しくねえと思う」
「そうか」
少しの沈黙。それからタンジェは「寝るか」と呟くように言った。黒曜は、
「何を話す」
「あ?」
「オーガに会って、何を話す」
タンジェはまた少し黙った。それから、
「やつらが知ってることを、俺も……知りてえと思ってる。やつらだけが把握してる特別な何か、真実みてえなものがあるのかすら……知らねえが……」
「そうか」
黒曜はただそう言って頷いただけだった。否定も肯定もない。当たり前だ。これはタンジェの問題だ。タンジェの問題に何故、黒曜がついてきたのかは、タンジェは改めては聞かなかった。黒曜は、ただタンジェの決意を見届けに来ただけなのだろう。あるいはその身を心配してのことかもしれないが――だとしたら何も言わないのは正解だ。そんなに俺が頼りねえかよ、の気持ちになったに違いないから。
「……もう寝るか。明日は山登りだ」
「ああ」
2人はおやすみ、と声をかけあって、それぞれのベッドに潜り込んだ。まだ本格的な秋に入るには少し早いけれども、カラッとした気候のエスパルタは、夜はさほど暑くなく寝苦しさもない。最初は黒曜が横に寝ている事実が多少なりとも気になりはしたが、本来、決まった時間に寝るよう習慣づいたタンジェのこと、たちまち眠りに落ちるのだった。