堕天使の望郷 4
パーシエルがへリーン村に身を置いてからこっち、気になることはたくさんあった。
自身がたまに覚える未知の感情のこともそうだし、マリスのこと、村のこともそうだ。
今までは自分の振る舞いを考えるだけで精一杯だったが、ヘリーン村で過ごすにつれこの村を知り、それでも自身の中で解決せず気になっていたことを、パーシエルはマリスに尋ねることにした。
「マリス」
何ですか、とマリスはいつも通り柔和な笑顔で応答した。
「この2ヶ月で分かったことだが……この村はそこまで豊かではないが、飢えることもなさそうだな」
「そうですね、ここ数十年は飢饉に悩まされたこともありません」
「ここの豊穣を管轄する天使は誰なんだ?」
ここにいる天使は、贄を要求している気配も、この村の発展に関与している気配もない。それどころか、存在すら欠片ほども見当たらない。なるほどこれが"天使らしい"のだろう。あの審判のおり、"天使とは与えるもの"だと審判官が告げたのは、たぶんこういうことだ。
と、パーシエルは勝手に思っていたのだが、マリスはこう即答した。
「おりませんね」
「……え?」
パーシエルは、聞き間違えたかと思った。
「この村に天使はおりません」
「何だと……?」
では、とパーシィは続けた。
「何故この村は飢えない? 守護天使がいなければ豊穣など――」
マリスは黙って聞いていたが、じっと見つめてくるその視線が合えばパーシエルは言葉に詰まり、先を続けるか逡巡した。
結局パーシエルは言葉を呑み込み、代わりにこう尋ねた。
「――ヒトの力だけで、豊穣が成せるのか?」
「パーシエル。動物の死体は土の中の小さな虫たちが食べます」
「……?」
「その小さな虫たちは土を豊かにし、植物を育てます。植物からは木の実が落ち、リスなどが食べますね。それをヘビなどが食べ、そのヘビは鳥に食べられる……。鳥の死体はまた土に還ります」
「何の話を……」
「それが『豊穣』です」
絶句だ。パーシエルは言うべき言葉を失った。
「ともに生きるもののバランスが崩れず豊かであれば、ヒトはそのお裾分けで生きていける。天使の力なんていりません」
「…………それが真実なら」
と、ようやく絞り出した。
「それが真実なら――豊穣の天使など、不要ではないか!? では私がしていたことはなんなんだ?」
「それは私には知り得ないことです。ですが、パーシエル」
マリスはパーシエルをまっすぐ見て、いつも通り微笑んだ。
「『気付き』は、何物にも替えがたいことですよ。そうであるようにこの世ができているなら、私たちに必要なのは、なぜそうあるのかという思考です。思考は人間の生きる根幹ですから」
それはきっと、事情を知らないまま、けれど追及しないマリスの、慰めの言葉だったのだろう。
だが、それでパーシエルは、自分の犯した罪にようやく気が付いたのだ。
かつて豊穣の天使パーシエルに捧げられたもの。村でもっとも尊く、もっとも価値が高く、もっとも稀少なもの。それをあの村人たちがどう受け止め、何を考え、あれを差し出したのか。
パーシエルが食べたあの女が、望んでそうなったわけはない。"豊穣"が、天使パーシエルによってもたらされていないのならばなおさら、彼らは"信仰"の末にあの決断をしたのではない。彼らは恐れたのだ、それを与えなかったときのパーシエルからの報復を。
そしてへリーン村での営みを経るにつれ、ヒトとヒトの繋がりというものも分かってきた。それが分かってしまったら、あの女が、誰との繋がりもなかったわけがないことも理解できる。
誰かの家族であり、あるいは誰かの恋人であり、誰かの友人であったあの女、それが供されたあの瞬間、確実にパーシエルは、"人"を踏みにじった。
豊穣の守護天使? ――笑わせる! あんなものは、暴食の支配者だ。
パーシエルはここにおいて、ようやく本当に理解した。
何故、豊穣の天使パーシエルが追放され、堕天使に身を堕としたのかを。
パーシエルはマリスに、髪を切ってほしい、と頼んだ。
あの日、水面を通して自身の顔の刺青を見てから、パーシエルは前髪で刺青を隠せるように髪を伸ばしてきた。だが、この刺青は罰である。ならば受け入れよう。きっとそれが、第一歩だ。
急な要望だったが、マリスは理由は聞かず、髪を切ってくれた。
「貴方は綺麗な顔をしているんですから」
と、マリスがパーシエルの前髪を持ち上げて、
「このくらい出しても、罰は当たりませんよ」
そうして彼女は、”元”天使に、また罰を語る。でもここでマリスと暮らしてきたから、分かることがある。彼女の言う"罰"に、宗教的な要素はあまりない。
その"罰"は、誰がもたらすものだろう? でも"当たらない"のだから、きっと知らなくてもいいのだろう。
「そ、そうだろうか」
マリスに言われるまま、切り揃えられた前髪をさらに上げて整えた。視界が開けて見える。
「マリス、もう1つお願いをしてもいいか?」
「何でもお聞きしますよ」
切り落とした髪を払いながらこちらを見たマリスに、
「私に、新しい名前を与えてくれないだろうか」
「新しい名、ですか。それでは――」
そして、
「パーシィ、というのはどうでしょうか」
神からではなく、1人の人間の老婆に与えられた名が、
「ありがとう、マリス」
パーシエルのものになり、
「『俺』は今日から――パーシィだ!」
堕天使パーシィが、こうして産まれたのだ。