きっと失われぬもの 1
カーテンから射し込む光はまだ弱いが、俺――タンジェリン・タンゴ――の目を覚ますのには充分だった。
冬のエスパルタ。昔、親父とおふくろに連れられて、聖誕祭のマーケットに来たっけ。
エスパルタの聖誕祭は、ベルベルントのそれよりも期間が長い。十二月の後半から、年明けの一週間くらいまでは聖誕祭だ。
カーテンを開けて窓の外を見ると、通りにはガーランドがかかって、人々が往来している。
ここはエスパルタの『情熱の靴音亭』という名の宿だ。
悪魔ラヒズに騙されストリャ村行きのニセ依頼を受けた俺たちは、そこでまあ――散々な目に遭って、ストリャ村行きの必要も無くし、エスパルタへとやってきた。
エスパルタは何事もなく、聖誕祭で賑わっている。
当日、六人分の宿が取れたのも運が良かった。薄暗い通りの小さな宿で、部屋も屋根裏や倉庫みたいだったが、眠れれば充分だ。
昨晩は余計なことを考えたくなくて、俺はさっさと湯を浴びて寝た。疲れていたんだろう、ぐっすり眠ったからか、今はそう悪い気分じゃなかった。
ベッドの上で伸びをしているとノックの音がした。
「タンジェリン、起きているか?」
黒曜の声だ。わざわざ起こしに来てくれたということは、寝過ごしたのだろう。
「ああ……起きてるよ」
「朝食を注文するからそろそろ来い」
そうか、分かった、と俺は答えた。すぐにベッドから降りて手早く身支度を調えると、俺は軋む狭い階段を降りて階下に向かった。
「うおっ……」
がやがやとざわつく情熱の靴音亭。ほとんどが食事をとりにきた客らしい。
「ほら、どいたどいた! お待ちどおっ、牛肉のトマト煮だよっ!」
「おい姉ちゃん、こっちにも同じもの一つ!」
「空いてる席はどこだぁ?」
「三名ご来店ですー!」
星数えの夜会では信じられないくらいの盛況ぶり。聖誕祭の時期なのもあるが、飯が美味いのかもしれない。それにしたって、夜はあんなに薄暗くて人気の無い通りだったってのに。
「おーい、こっちこっち!」
パーシィが俺のことを呼びながらぶんぶん手を振っている。小さなスペースに大きな身体の黒曜、緑玉、アノニムがぎゅうぎゅうに詰まっていた。
「おお……座れるか? 俺」
「座っちゃっておくれ! 突っ立ってられると邪魔だよ!」
ウェイトレス姿のでかい女に言われて、ほぼ押し出されるようにして俺はテーブルにつく。見れば一応、今にも潰れそうな椅子があと二脚、どこに足を置くんだって幅で置かれている。
なんとか席に着くと、猛烈に腹が減ってきた。そういえば、昨晩は全然飯を食う気がしなくて、夕飯を抜いて寝たんだったな……。
「ほら、好きなものを頼みなよ!」
パーシィが出してきたメニュー表を見ると、大好物のエスパルタ風オムレツがあったので、迷わずそれに決める。エスパルタ風はただのオムレツじゃない。ジャガイモやベーコンが入ってるんだ。これが美味い。
「サナギは?」
もう一脚椅子があいているので尋ねると「まだ寝てるよ!」とパーシィが周囲の喧噪に負けないデカい声で答えた。寝坊した俺より遅いのはサナギらしい。
「注文頼むよ!」
忙しないウェイトレスに声をかけるパーシィ。「はーい」と慌ただしさに場違いなのんびりした声が聞こえて、さっきのでかい女とは別の三つ編みの女が注文を取りに来る。複数ウェイトレスを雇えるほど儲かってるってわけか。まあ、この混み方じゃな。
パーシィが料理を注文すると、のんびりした様子とは裏腹に素早くメモを取り、三つ編みのウェイトレスは厨房に去っていった。
「昨日はよく眠れたか」
隣の黒曜が俺に尋ねる。
「あ? ああ……」
俺は昨日の寝る前の自分の様子を思い出す。心配をかけても無理はないな、と思う。上の空だったし、飯も食わなかったしな……。
「大丈夫だ。よく寝た」
「そうか」
黒曜は頷いて、コップの水を飲んだ。
「ねえ……いつベルベルントに戻るの」
げんなりした顔の緑玉が弱々しく呟く。俺よりはるかに顔色が悪い。人間嫌いの緑玉にはこの混雑はきついのだろう。
「あんまり長居したくないんだけど」
「……」
黒曜が俺のことを横目で見たのが分かった。
「……タンジェリン次第だな」
「俺か?」
少なからず驚く。こういうとき決定権を持っているのは黒曜だし、意見を言うのはだいたいサナギの仕事だ。まあ、サナギは今はいないが……なんで俺次第になる?
「ここに残って復讐をするなら」
黒曜は言った。
「もう少し長居が必要だろう」
「……」
そうか、そりゃ、俺次第にもなるか。
「昨日は俺に殺すなって言ったじゃねえか」
「ああ。お前はそれを了承した」
平気で頷く黒曜。
「だが、一晩経って気が変わるということもある」
「まあ……あるかもしれねえが」
「お前が復讐を強く希望するなら、今度は止めない」
沈黙が降りる。
「……今日一日、考えさせてくれねえか。昨日の出来事全部、まだ……整理がついてねえんだ」
本心だった。
問題を先延ばしにするのは情けないと思うが、すぐに復讐をやめるとか、オーガだからどうとか、そういうことを考えられる状態にない。
一つ分かるのは、オーガだから俺をパーティから外す、という考えは、どうやら一同にはなさそうだ、ということだ。
「分かった。緑玉、今日は耐えろ」
緑玉はひどく苦い顔をした。
>>2
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