カンテラテンカ

堕天使の望郷 5

 私がへリーン村に身を置いてからこっち、気になることはたくさんあった。
 私の感情のこともそうだし、マリスのこと、村のこともそうだ。
 今までは自分の身の振る舞いを考えるだけで精一杯だったが、私はいよいよ、マリスに気になっていることを尋ねることにした。
「マリス」
 何ですか、とマリスはいつも通り柔和な笑顔で私に応答した。
「この二ヶ月で分かったことだが……この村はそこまで豊かではないが、飢えることもなさそうだな」
「そうですね、ここ数十年は飢饉に悩まされたこともありません」
「ここの豊穣を管轄する天使は誰なんだ?」
 ここにいる天使は、贄を要求している気配も、この村の発展に関与している気配もない。それどころか、存在すら欠片ほども見当たらないのだ。
 いったい誰がこんな謙虚な豊穣を与えているのか?
 マリスは即答した。
「おりませんね」
「……え?」
 私は、聞き間違えたかと思った。
「この村に天使はおりません」
「何だと……?」
 それは、おかしな話ではないか。
「では、何故この村は飢えない? 守護天使がいなければ豊穣など――」
 マリスは黙って聞いていたが、じっと見つめてくるその視線に、私は言葉の先を続けるか逡巡した。
 結局私は言葉を呑み込み、代わりにこう尋ねた。
「――ヒトの力だけで、豊穣が成せるのか?」
「パーシエル。動物の死体は土の中の小さな虫たちが食べます」
「……?」
「その小さな虫たちは土を豊かにし、植物を育てます。植物からは木の実が落ち、リスなどが食べますね。それをヘビなどが食べ、そのヘビは鳥に食べられる……。鳥の死体はまた土に還ります」
「何の話を……」
「パーシエル、それが『豊穣』です」
 私は、言葉を失った。
「ともに生きるもののバランスが崩れず豊かであれば、ヒトはそのお裾分けで生きていける。天使の力なんていりません」
「…………それが真実なら」
 と、私はようやく言葉を絞り出した。
「それが真実なら――私がしていたことはなんなんだ?」
「それは私には知り得ないことです。ですが、パーシエル」
 マリスは私をまっすぐ見て、いつも通り微笑んだ。
「『気付き』は、何物にも替えがたいことですよ。そうであるようにこの世ができているなら、私たちに必要なのは、なぜそうあるのかという思考です。思考は人間の生きる根幹ですから」
 それはきっと、慰めの言葉だったのだろう。
 だが、それで私は、自分の犯した罪にようやく気が付いたのだ。
 かつて私に捧げられたもの。村でもっとも尊く、もっとも価値が高く、もっとも稀少なもの。それをあの村人たちがどう受け止め、何を考え、あれを差し出したのか。
 私が食べたあの女が、望んでそうなったわけはない。豊穣が私によってもたらされていないのならばなおさら、彼らが恐れたのは、それを与えなかったときの私からの報復に違いなかった。
 そしてへリーン村での営みを経るにつれ、ヒトとヒトの繋がりというものも分かってきた。それが分かってしまったら、あの女が、誰との繋がりがなかったわけがないことも理解できる。
 誰かの家族であり、あるいは誰かの恋人であり、誰かの友人であったあの女、それが出されたあの食卓には、確実に誰かの悲しみがあったのだ。
 私は、ついに本当に理解した。
 何故私が追放され、堕天使に身を堕としたのかを。

 それは私がもはや豊穣の天使ではなく、
 暴食の支配者になっていたからに他ならないのだ。

 私はマリスに、髪を切ってくれと頼んだ。
 あの日、顔の刺青を見てから、私は前髪で刺青を隠せるように髪を伸ばしてきた。だが、それでは堕天した意味が何もない、と、私は気付いたのだ。
 マリスは理由は聞かず、髪を切ってくれた。
「貴方は綺麗な顔をしているんですから」
 と、マリスが私の前髪を持ち上げて、
「このくらい出しても、罰は当たりませんよ」
「そ、そうだろうか……?」
 マリスに言われるまま、切り揃えられた前髪をさらに上げて整えた。視界が開けて見える。
「マリス、もう一つお願いをしてもいいか?」
「何でもお聞きしますよ」
 切り落とした髪を払いながらこちらを見たマリスに、
「私に、新しい名前を与えてくれないだろうか」
「新しい名、ですか。それでは――」
 そして、
「パーシィ、というのはどうでしょうか」
 神からではなく、一人の人間の老婆に与えられた名が、
「ありがとう、マリス」
 私の、いや、『俺』のものになり、
「俺は今日から――パーシィだ!」
 堕天使パーシィが、こうして産まれたのだ。

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