不退転の男 3
ハンプティは子供ながらにしっかり体力があって、ホックラー遺跡までの道のりに文句一つ言わなかった。両親とホックラー遺跡に行ったことがある、と言っていただけはある。道案内も的確だ。年齢や家柄がなければあるい冒険者になれるかもしれない――いや、冒険者になったところで、か。冒険者なんてのは憧れてなるもんじゃない。
「こっちだよ!」
パーシィが面倒をみているはずだったが、案の定、すでにパーシィは彼の御守をほとんど放棄していた。一応ハンプティの動きを目で追ってはいるが、そんなことは俺にだってできる。
「ちゃんと手でも繋いでおけよ」
俺がパーシィに声をかけると、
「嫌がられてしまって」
……パーシィではなく、ハンプティの側の問題だったようだ。
「もうあの年頃だと手なんか繋がないものだろうか?」
「あー……ガキはめんどくせえからな……」
そういう時期が自分にもあったかもしれないことを棚に上げて俺は適当に相槌を打った。
「見て見て! ほら、あそこ!」
ホックラー遺跡の入り口が木々に沈んでいる。さすがにベルベルント郊外は騎士団の見回りもしっかりしているのか、ここまでの道のりには妖魔の気配も賊の潜伏もなかった。
ダンジョンってわけじゃない、すでに公的な調査が入っている場所だ。さすがに何もないだろうとは思ったが、俺は遺跡の入り口を丁寧に調べて、罠の類がないかを確認した。もちろんそんなものはなかったが、昔に解除されたのであろう罠の残骸は残っている。
確かに最近、何者かが侵入したような形跡はあった。これは俺が盗賊役になってから身につけた観察眼というわけではなく、ペケニヨ村での山歩きで培った能力だ。
「大丈夫だ、進める。行こうぜ」
盗賊役は、こういうとき先頭を歩くものだ。
★・・・・
★・・・・
遺跡の入り口すぐに地下へ向かう石造りの階段があって、それを降りていけば少し開けた空間に繋がった。遺跡と言うだけあってやや人工的な造りで、古びた燭台が壁にあった。燭台にはいくつか火が灯っていて明るい。
「やっぱりパパとママがいるんだ!」
ハンプティは喜んだ。
「血の臭いはしない」
黒曜が先頭の俺に囁く。獣人の黒曜は俺より五感が鋭いので、彼がそう言うなら間違いはないだろう。
「少なくとも怪我はねぇってことか……? それじゃあなんで帰ってこねえんだ?」
「……分からない」
それはそうだ。黒曜にだって分かるはずがない。
だが、血の臭いも、妖魔の気配もしない以上、考えられるのは、やはり……。悪魔の姿が脳裏をチラつく。
遺跡はそこまで広くなく、多少の分かれ道もハンプティが奥への道を案内してくれたことで、俺たちは早々に遺跡の最奥まで来てしまった。広い空間だ。
壁の燭台には相変わらず火が灯っていたが、誰ひとりいない。気配もない。
「おい、どうなってんだよ。誰もいねえじゃ――」
「タンジェ!!」
突然黒曜が俺の名を叫んだ。
「――かわせ!!」
意味を理解するより先に身体が動いて、俺は大きく一歩身を引いた。俺の頭があった場所を、鋭い刃が通り過ぎる。
「……何の冗談だ?」
問題は刃の正体だった。俺の首を的確に狙ったその刃は、間違いなく青龍刀のそれだった。ベルベルント近辺で青龍刀の使い手は多くない。少なくとも今ここでそれを振り回せるのは黒曜しかいなかった。
「……!」
俺に避けるよう指示した当の黒曜が、青龍刀を構えて俺に向けている。
「やられた……!」
黒曜は珍しく忌々しげに顔を歪めて、
「身体が動かん……! 何とか避けろ、タンジェ!」
「ふざけんなてめぇ! どうなってやがるんだ!?」
容赦のない一閃が再び俺を襲う。盗賊役というのは身軽さがウリで、見切りも得意なものだが、こと俺に関しては別にそんなことはない。取っ組み合いのほうが得意だからだ。それでも黒曜の申告があったので何とか回避できた。
「く……!」
視界の端で、異変を察したパーシィがハンプティを振り向いた。それからハンプティに向けて素早く左手を翳し――
「それを向ける相手は、ボクじゃないよね?」
ニッコリと微笑んだハンプティの視線に射貫かれたパーシィが、突如ぐるりと俺を振り返った。
おい待て、つまり、これは……!
「タンジェ、すまない、少し痛いと思う……! <ホーリーライト>!」
マジかよ……! パーシィから放たれた光弾が俺の左肩に着弾する。いてえ!
「パーシィ、てめぇ!」
「俺の意思じゃないんだ……!」
パーシィも顔を歪めた。ということはつまり、
「ハンプティ、てめぇだな……!?」
今さっきのパーシィとのやりとりを見れば、一発で分かる。このガキが俺たちを謀ったのだ!
「あはは! 大正解ー! パパとママがいるなんて、真っ赤なウソでした!」
口でピンポンピンポンと効果音を言いながら、ハンプティは元気よく声を上げた。
「それにしても、お兄さんたちみんな<魅了>が効きづらいねえ。ここまでかけ続けてやっと二人の身体のコントロールを得られただけなんてさ」
唇を尖らせたハンプティが拗ねたように足元にあった石を蹴る。そんなことを言っている間に、黒曜が容赦なく俺の背後をとった。
「会話する気があんならよ……!」
咄嗟に振り返り青龍刀を斧で受け止める。怪力なら負けやしない。
「攻撃やめさせやがれ!」
斧で強引に青龍刀を弾く。だが、それが限界だ。黒曜に隙ができた一瞬で距離を取るが、パーシィの光弾が退くことを許さない。近距離と遠距離をカバーしてんじゃねえよ!
「やだよーっ」
ハンプティはけらけら笑っている。
瞬間、視界の影からアノニムが躍り出て、まっすぐにハンプティへ向かった。だがアノニムの攻撃が届くより先に、遠慮も容赦もあったもんじゃないパーシィの光弾の雨が二人の間を遮る。
「……ちっ!」
不退転の男 2
「名前は?」
「ハンプティ!」
黒曜の質問に元気よく答えたハンプティは、俺たちの顔をじーっと見比べてから、何か質問があれば、とでもいうように首を傾げた。
「両親が遺跡から帰らないという話だったが」
「うん! 北にあるホックラー遺跡に行くって、パパとママが言ってた」
「ホックラー遺跡か」
黒曜が言いながら――今回サナギが不在のため――メモを取っている。
「いなくなったのはいつ頃だ」
「昨日のお昼くらいから。昨日の夜には帰るって言ったのに、帰ってこないんだ」
ここで、だいたいサナギかパーシィが「それは不安だろうね」くらい言うものだが、サナギはいないとして、パーシィが黙って聞いているのが何となく不自然に感じた。パーシィの顔を見やると、特に変わった表情はしていないのだが、何か考え事をしている様子だった。無視してもよかったが、
「パーシィ、何かあんのかよ」
「え?」
俺が声をかけると、パーシィは顔を上げた。
「俺かい?」
「何か考えてることがあるんだろ」
目を何度かぱちぱちと瞬かせたあと、パーシィはハンプティを見て、
「それじゃあ、……ハンプティ、きみ、片眼鏡の、長身の男性に会ったことはあるかな?」
……ラヒズのことに違いない。
「うーん……あ。あの人のことかな? あるよ。パパとママの友達だって」
パーシィはそれを聞いてまた少し考える素振りを見せたあと、俺たちに小声で言った。
「この少年から、若干だが……ラヒズの気配を感じる」
「あいつどこにでも出てきやがるな……! しかし、どういうことだ?」
「分からない」
本当に僅かなのだけれど、警戒はしたほうがいいかもしれない、とパーシィは告げた。
警戒と言ってもな、と俺はハンプティの様子を眺めた。大きな目を不思議そうにキョロキョロ動かしている。こいつの両親がラヒズに関わっていた、ということなんだろうか。だとすれば帰ってこない原因は、遺跡の妖魔ではなく……?
……考えても仕方がないことだ。
「報酬は出せるのか」
黒曜が淡々と聞くと、
「うん! あのねぇ、お小遣いがあるから。普通どのくらい払うものなのかとか、よく分かんないんだけど……300Gでどうかな?」
充分すぎるくらいだ。というか、300Gをぽいと出せるガキなんざめったにいない。裕福なんだろうな、と思う。そういえば、着ている服もかなり上等だ。
「ホックラー遺跡自体は、1時間半もすれば着く」
頷いた黒曜が言う。
「早めに出たほうがいいだろう」
確かに、初動はハンプティの両親の生存率に繋がるはずだ。
とはいえおそらく日帰りの依頼。俺たちは簡単に、だが的確に装備を整えて、さっそくホックラー遺跡に向かうことにした。
「じゃあハンプティ、依頼が終わったらここで……」
「え、ボクも行くよ!」
ハンプティはぴょんと椅子から飛び降りて、きらきらとした顔を俺たちに向ける。
「連れて行くわけねえだろ、足手まといだ」
「えー」
俺が言えば、ハンプティは不服そうな顔をして、それから、
「でもボク、パパとママにくっついてホックラー遺跡に行ったことあるんだ! だから案内できると思うよ」
「……」
別に観光地でもない、出涸らしの遺跡の地図を売っているところなどあるはずもない。盗賊ギルドに行けば出回っているかもしれないが、そこまで手間をかけたくないし金も無駄だ。俺が天秤にかけて悩んでいると、パーシィが耳打ちした。
「彼を連れていけば、ラヒズが出てくるかもしれない」
……撒き餌じゃねえんだからよ。
「あいつはベルベルントの街中では戦闘を避けがちだ。ミゼリカ教会があるからだろう。ホックラー遺跡ならベルベルントの外で、けど離れすぎてもいない。やつと戦うなら悪くない立地だ」
「しかしフルメンバーじゃないどころか、足手まといのガキを連れて、か?」
パーシィはその言葉に、
「ああ……それもそうか」
あっさり引き下がった。
「悪いが、やはりきみを守るのに割く戦力はないよ」
俺への耳打ちとは打って変わり、パーシィはハンプティに言い含めた。
「……」
ハンプティは少し考えるようにしたあと、
「分かった、じゃあここで待ってるね!」
にこりと笑った。よし、聞き分けのいい子供だ。
ところが黒曜が、
「あとから追ってこられるほうが、やりづらい」
淡々と言った。思わず彼を見て、
「……何のことだ?」
「ハンプティは、あとから俺たちを追いかけて遺跡に来るつもりだ。見れば分かる」
ハンプティは黙っていたが、ちろっと舌を出した。俺は頭が痛くなる思いだった。
「……なら、初めから連れてったほうがまだマシか……」
どうせ来るなら、俺たちといたほうが危険は少ない。どっちにしろラヒズの気配は気になる。
仕方ない。
不退転の男 1
ようやく買い出しが終わった。店が開いてすぐに出かけたのに、昼前になってしまった。
親父さんから頼まれたお使いはなかなかの量で、これを歳のいった親父さんや娘さんに運ばせるのは悪い。引き受けた理由はそれだけだ。
俺――タンジェリン・タンゴ――がこのお使いを引き受けなかったとて、別に他に予定があるわけでもなかった。
お使いメモを確認して――サナギの書くそれに比べて、なんと読みやすいことか!――不足のものがないことを確認する。問題ないと判断し、星数えの夜会への帰路を歩く。
馬車が横切るのを待つ大通りで、くい、と服の裾を引かれた。見下ろすと、子供がひとり、俺の服の裾を掴んで俺を見上げている。
知らないガキだ。もっとも、知ってるガキのほうが少ない。
「なんだよ?」
上から睨んだが、子供はまったく怯んだ様子がない。太陽光をいっぱいに浴びてキラキラ光る大きな目でしばらく俺のことを見上げていたが、
「パパとママが……」
と、呟いた。
「あ?」
「パパとママが戻ってこないんだ」
子供にはまるで悲壮感も焦燥感もなかったが、その言葉に同情した。内心で、ほんの少しだけだ。とはいえ俺にできることなんざ別にない。
「で?」
と俺は言った。
「お兄さん、冒険者さんでしょ?」
「……なんで分かった?」
「星数えの夜会は、お兄さんたちが思ってるより有名だよ」
俺は子供を見下ろした。子供は無邪気に笑っている。
「ね、依頼を受けてほしいな。ボクのパパとママを探して! お礼ならできるんだ」
依頼内容の割に、ずいぶん気楽な様子だった。
★・・・・
とりあえずお使いの荷物を親父さんに預けて、結局ついてきた子供を適当なテーブル席に座らせて、それからパーティのメンバーを探した。ガキの親を探す程度の依頼、本来なら俺一人でも済むのだが、問題は子供が告げた「パパとママがいると思う場所」だった。子供は「パパとママは学者さんで、遺跡に行ったんだよ」と言った。
とりあえずお使いの荷物を親父さんに預けて、結局ついてきた子供を適当なテーブル席に座らせて、それからパーティのメンバーを探した。ガキの親を探す程度の依頼、本来なら俺一人でも済むのだが、問題は子供が告げた「パパとママがいると思う場所」だった。子供は「パパとママは学者さんで、遺跡に行ったんだよ」と言った。
遺跡。確かにベルベルントの周囲にはいくつか遺跡がある。すでに発掘・盗掘され尽くした出涸らしだと聞いているが、学者ならば行くこともあるのだろうか。問題は、放棄されたその遺跡には定期的に妖魔が住み着く、と聞き及んでいること。そのたびに駆除されているようなのだが、こいつの両親が帰らないなら、最悪の場合を考えなければいけない。
子供がテーブル席で足をぷらぷらさせているのを横目に、見慣れた顔を探せば、黒曜とパーシィはすぐに捕まった。アノニムはたまたま外出から帰ってきたところに声をかけることができた。
「サナギと緑玉知らねえか」
たまたま近くにいた翠玉に尋ねると、鳥がさえずるように控えめに笑って、
「二人でお出かけしましたよ」
と。
サナギと緑玉が? ……もしかして、本当に仲がいいのか?
ともかく、そういうことなら仕方ない。妖魔のいるあでろう遺跡とはいえ、ベルベルントの郊外。フルメンバーで臨むほどの危険はないだろう。
強者と弱者、あるいは摂理への反証 4
かなり早い仕事だったと思う。俺は走って花通りに戻った。娼館の前に立った時点で、赤子の泣く声が聞こえていた。出産が、終わっている。
娼館の中に駆け込む。パーシィがエリゼリカに寄り添っている。俺に気付くと、パーシィは黙って立ち上がり、無言でエリゼリカの横を俺に明け渡した。
ソファの横に膝をつくと、ほんのわずかに開いているエリゼリカの目と目が合った。まだ生きていた。
「わた、し……」
エリゼリカの声はか細く、それでもう彼女が死ぬと知れた。エリゼリカの口が弧を描く。面白くもないのに、またこの女はわらっている。
「あなたの……いう、と、お、り、……よわい、おんな、だった、ね……」
そんな昔に言ったことを、まだ覚えているのか。
お互い様だった。俺だってあのときのビンタを未だに覚えている。
「エリゼリカ」
俺が言うと、エリゼリカはゆっくりと目を見開いて、それから目を細めた。目の端から涙がこぼれたのが分かった。
「かわい、い、わたしの、かわいい、あかちゃん……」
心配しているのは、この期に及んで産まれた赤子のことだった。あのクソ野郎の子供だというのに。
「いっしょに、いられなくて、ご、め……」
それきりだった。
弱ければ死ぬ。当然の摂理だ。
みんな泣いている。俺とパーシィだけが泣いていなかった。赤子も泣いている。やかましいくらいに。
エリゼリカが死んだことに、パーシィはいっさいの言い訳をしなかった。だが娼婦たちはパーシィは本当によくやってくれたとやつを何度も労った。パーシィは本当によくやったらしい。俺に分かるのはそれだけだ。
「エリゼリカが暴行を受けているとき、エリゼリカは必死でお腹を守った……だから赤子は無事だったの」
アルベーヌが言った。
「あの子は本当に、強い子だよ」
みんな泣いている。エリゼリカを偲んで。エリゼリカを想って。赤子ですら、もしかしたら。
強いなら死なないはずだった。
エリゼリカが暴行で死んだのは、弱いからだ。だから死んで、終わった。
――本当にそうだろうか?
エリゼリカより赤子のほうが弱い。でも、赤子は死ななかった。エリゼリカが守ったからだ。誰かを守るためなら命を投げ出せること、それは、俺は――俺を庇って代理で試合に出て死んだ女がいる――甘さだと、ひいては弱さだと思っている。だって弱者はこんなにも容易く死ぬ。
★・・・・
★・・・・
パーシィと俺は夜会への帰路を歩いている。
「パーシィ」
「ん?」
「……ありがとよ」
パーシィは俺を振り向いた。
「め……珍しいこともあるものだな……?」
「お前の治癒の奇跡が、死にかけの人間をあそこまで生きながらえさせたんだろうが」
それは否定しないよ、とパーシィは言った。
「確かに、彼女ときみに最後に話す時間があったのは、俺のおかげだ」
「……だろうな」
「でも俺に、かろうじてあの瞬間、彼女を繋ぎとめる力があったとして……俺は、ヒトがヒトを産み落とすことの力にはなれない」
俺はパーシィを見やった。パーシィは空を見上げた。まだ日は高く、青空が見える。空なんか見たって何もない。雲しかない。
「……だから、なんだ」
俺が先を促すと、パーシィはまた、ゆっくりと振り返った。
「あの状況で赤子を死なせずに産んだ力は、確かに彼女の強さだった……ってことだよ」
エリゼリカ。
俺の幼馴染み。
あいさつのときに、スカートの裾を持ち上げて少し膝を折る。
何も楽しくないのに、口に弧を描き目を細めて笑う。
手に入れられたはずの幸せを、
自分が享受できないと知って、
それでも守った女。
「……ふん。だが、死んだらおしまいだ」
「はは、それもそうだな」
パーシィは否定しなかった。
★・・・・
★・・・・
見世物小屋ではちからがすべて。
奴隷剣闘士が得物を合わせる。弱いほうが負ける。負けたら死ぬ。
強さに種類がある。考えたこともない。強さとは力だと思っている。戦いに負けない力。だから俺はワッカーソーを殺せた。
だが、死んだエリゼリカは、何に負けたというのだろう?
きっとあいつは、何にも負けていない。ワッカーソーの暴力に屈さず、大事なものを守り切った。その結果エリゼリカは死んだが、それを敗北とは俺は思わない。むしろあいつは、勝っていた。
俺は幼い頃から知っていた。弱ければ負ける。負ければ死ぬ。それが当然の摂理だと。
だが見世物小屋の狭い世界の外で、きっとそうじゃない摂理があって、それは時に強者を殺し、弱者を生かす。
気高く強いエリゼリカの死、それはあるいは。
【強者と弱者、あるいは摂理への反証 了】
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強者と弱者、あるいは摂理への反証 3
出産までは十月十日。エリゼリカはその間、娼館の小間使いとして過ごしているらしい。
別にエリゼリカが誰を好きだろうが、誰の子を産もうが、それはエリゼリカが決めたことだ。俺には関係がない。
それでもたまに依頼を受けて娼館に行けば顔を合わせて話をする。
つわりはあるが、みんな優しくしてくれるし大丈夫だと。幸せだと。早く産まれてきてほしい。名前も決めてあるのと言って、俺にその名を教え、しきりに呼ばせた。
★・・・・
じきに、エリゼリカは出産するだろうか。そんなことを考えていた矢先のことだった。
アルベーヌから緊急の依頼が入った。緊急だというのにアルベーヌ本人からではなく、娼館の新人の一人が伝達として夜会に駆け込んできた。
花通りの依頼はほとんどが俺を指名する。今回の新人も俺の顔を見て駆け寄ってきて縋り付き、
「アノニムさん! アノニムさんですよね!?」
「アノニムさん! アノニムさんですよね!?」
と、くしゃくしゃの顔をした。
「アルベーヌさんからの依頼です。あなたと。治癒、治癒の奇跡が使える、ひと。ここにいるって、聞いてます! その人と一緒に、花通りに来て、急いで!!」
俺はアルベーヌの娼館であることを確認したのち、先に新人を娼館へ帰らせ、茶を飲んでいたパーシィの首根っこを掴んだ。
「な、なんだい!?」
俺からすりゃパーシィなんか軽い。持ち上げて「行くぞ」と声をかける。床に下ろされたパーシィは走り出した俺に迷わずついてきたが、
「どこへ行くのかくらいは説明が欲しいが……!?」
「花通りだ」
花通り、とパーシィは復唱した。
「きみがたまに出かけていくところか。俺はよく知らないが」
「そうだろうな」
「何があったんだい?」
「分からねえ」
だが、切羽詰まったあの新人の様子を見るに……。そして、程なくして辿り着いた花通りのアルベーヌの娼館、そこの騒ぎを見るに。何らかの緊急事態が起きていた。
慌ただしい様子の娼館に強引に入ると、ソファの上に、変わり果てた姿のエリゼリカが寝かせられていた。
死んではいなかった。かろうじて。エリゼリカは腹を庇うようにうずくまり、血だらけで、虫の息だった。
さすがの俺でもなぜ治癒の奇跡の持ち主が呼ばれたのかを理解した。パーシィを見る。
パーシィは「妊婦」と小声で呟いた。そしてそのおびただしい出血量と凄惨な怪我の様子を見て、難しい顔をした。それからようやく俺を見て、それで俺と目が合った。
「……なんとか頑張ってみるよ」
エリゼリカのもとへひざまずくパーシィと入れ替わるようにして、アルベーヌがこちらに来た。
「暴力を受けたんだ、そのせいで産気づいてしまって、でも、エリゼリカが死……んだら、中の赤ん坊まで死んでしまう」
アルベーヌはパーシィを見た。
「あの優男の腕は確かなのかい?」
俺は頷いた。
「なあアノニム。勝手なお願いだけど……とてもエリゼリカには聞かせらんないけど。エリゼリカをこんなにした男に、思い知らせてやってくれないか」
「犯人は誰なんだ」
言っておいて、本当は見当がついていた。
「ワッカーソーという名の貴族さ……。エリゼリカのお腹にいる赤ん坊の父親だよ」
「……」
どこにいるか分かるか、と聞けば、屋敷の場所を教えてくれた。高級住宅街が立ち並ぶ通りだ。俺には縁のない場所だ。そんなことはどうでもいいが……。
俺は アルベーヌに頷いて見せた。アルベーヌが神妙な面持ちで、
「よろしく頼むよ」
と言った。
★・・・・
ワッカーソーを殺すのは本当に容易だった。
屋敷に正面から入り込み、部屋の扉を片っ端から叩き割り、見つけた若い男には名を聞いて、それでそいつがワッカーソーだと知れた。
「私は何も悪いことはしていない!」
死に際にワッカーソーはそう言った。
「あの女が妊娠してるなんて知らなかった! もし出産したら……それが婚約者にバレたら……! 貴様のような下等生物には分からんだろう、この苦悩は!」
俺は壁に掛けられていたサーベルを見つけて、それを眺めていた。
「貴様もこのままじゃ済まない。すぐに騎士団がきて貴様を捕縛する!! 処刑だ!!」
サーベルを取って、二、三度振り回す。切れそうだな。
「騎士団は来ねえ」
「え……!?」
俺はサーベルを振りかざした。
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