モントランの蒐集家 4
翌朝、タンジェはいつも通り早い時間に目覚めた。同室の黒曜も、朝弱いわけではないのだが、いくらなんでも寒すぎる。元より寒さに弱い黒曜のこと、布団に全身くるまって丸くなっており、その様子が猫のようなのでタンジェは微笑ましく思った。
こんな時間に無理に起こすことはない。そもそも、起きてはいるかもしれない。布団から出られないだけで。
タンジェは階下に降り、もう活動を始めているメイドに洗面所を使う許可を取り、手早く身支度を整えた。
それにしても、寒い。洗面所の手押しポンプからくみ上げた水は凍っていないのがおかしいほどで、北にある町の極寒が身に染みる。まだ10月だというのに……。
日課のランニングがてら町を見て回ろうかとも考えたが、結婚式前に汗だくになるのもどうかと思ったので、やめた。一応、新郎役のパーシィ以外に、タンジェたちも参列者として同行を求められている。
ただ、早く起きすぎて暇なので、タンジェは屋敷の中を、常識の範囲でふらふらすることにした。
厨房で慌ただしく働くメイドたち。すでに暖炉に火の入った客間。さすがに領主たちの私室側は入るのは憚られたので、そこを避けると意外と行ける場所は少なかった。タンジェのうろつける範囲の限界はせいぜい中庭までだ。その中庭の小さな噴水のふちに、女が一人腰かけていることに、タンジェは気が付いた。
白肌に長い金髪の女だ。昨日は見かけなかったし、服装からメイドでないことも分かった。件の領主の娘らしい。
結婚式前夜、見初めた男に逃げられた娘・フロイナを気遣った領主から、彼女との対面が許されたのは新郎役のパーシィだけだった。パーシィは夕食後のごく短い時間、フロイナと対面し、ごく普通に戻ってきて、それからも別に変わった様子もなく過ごしていた。
偽装結婚する相手への感想は聞けたが、これにも別に興味はなかったので聞かなかった。どうせ今回限りの縁だ。本当に結婚するわけでもなし。パーシィも特に思い入れた様子もなかったし、そもそも聞くまでもないだろう。
ふと、フロイナが視線に気づいたのか、彼女の青い目がタンジェのほうを向いた。フロイナはしばらくタンジェを上から下まで見ると、
「中の中というところね」
と、唐突に言った。意味は分からなかったが、少なくとも褒められたわけではなさそうだ。思わず、
「あ?」
「いいえ、なんでも。あなた、パーシィさんの旅人仲間?」
威嚇するような声を上げたタンジェに、さりとて怯むこともなくフロイナは、
「今日はよろしくお願いするわね」
と首を傾けて微笑んだ。
「別に、よろしくお願いされるようなことねえよ。俺たちはただの茶番の参列者なんだからな」
「あら、手厳しいのね」
フロイナは目を細め、口元に手をあて奥ゆかしく笑った。ともすれば魅力的な仕草だったが、ことタンジェに至ってそんな要素が心に響くわけもない。タンジェは特にこれ以上の会話に必要性も感じず、それでも一応、
「じゃあな」
とだけあいさつをして、中庭を離れる。
この寒いのにフロイナがネグリジェ姿で中庭に出ていたことに、とうとうタンジェが関心を向けることはなかった。
モントランの蒐集家 3
「もちろん、本当の結婚式ではない。いわゆる『偽装結婚』です」
領主は何とも苦渋の表情で、
「娘はひと月前に夫を亡くしましてね。それで、新たな夫を迎え入れることになった」
「それはあなたのお嬢さんが選んだのか? ずいぶん切り替えが早いな」
普通は思っても親の前で口には出さない。だが止める前にすらすらとパーシィの口から出た言葉だ。出た以上はもうどうしようもない。
「そうですね。町人の中にもそういう者はいる。ただ、娘が求めるなら与えてやりたい親心も分かってほしい」
「親であったことがないからな……」
と、身も蓋もないことを言いつつ、パーシィは続きを促した。
「うむ。それで……その。恥ずかしい話なのですが、結婚式が明日に迫っているというのに、その新たな夫が……行方をくらましてしまって」
「ええ!?」
サナギが軽く仰け反った。
「それは大変なことですね。事件性はあるのですか?」
「う、うむ……いや。分からない。性急すぎる話ではあるので、逃げられたのかもしれん」
確かに、旦那を亡くした娘がひと月で別の男を見初め、即結婚、というのは、なんとも忙しい話だ。拒絶されるのも無理はないかもしれない。
「だが、いなくなってしまったものは仕方ない。そちらを追う気はないのですが……、結婚式の準備がしっかり終わっているので、どうしても結婚式だけは挙げたいのです。町人にももう報せは届けているし、これで新郎に逃げられたと知られたら……」
「赤っ恥だなあ」
パーシィの発言は、逆上されてもおかしくない言葉選びだったと思うが、領主は素直に「……そういうことになります」と肩を落としただけだった。
「お願いします。結婚式の間だけ、新郎のふりをしてくれればいいのです。幸い、きみは新郎になるはずだった青年に体格が近い。用意したタキシードも着れそうだ」
「しかし、その青年も町人の一人だったのでは? 顔は誤魔化しが効かないぞ」
「いえ。娘が見初めた男性は旅人だったので、彼の素性はさほど知られていません。おそらく大丈夫でしょう」
「なるほど……」
と、サナギは言った。
「ミスティは、偽装新郎を探してベルベルントに来たのですね?」
領主の顔がピクリと引きつり、わずかに青くなったり赤くなったりを繰り返し、やがて観念したように大きく息を吐いた。
「その通りです。スパイスのお使いも嘘ではないのですが、本命はその――偽装新郎を探してくることでした」
それなら、ミスティの護衛の依頼にいまいち必然性がなかったことに納得がいく。彼女は最初から、自身を助けたパーシィに偽装新郎としてあたりをつけていた。パーシィたちを強引にモントランに連れ込み、領主と引き合わせることが目的だったのだ。
「近隣の住人だと、偽装結婚のあとが面倒だからね。比較的遠く、根無し草の多いベルベルントまで探しに来たというわけですね」
「はい……」
「どうする? パーシィ」
「俺かい!?」
と、またクッキーを食んでいたパーシィがサナギを振り返る。
「当たり前だろ、てめぇに言われてんだからよ。クッキー食ってんじゃねえ」
タンジェが呆れると、パーシィは、
「アルフのことを考えると、因果なことだなあ……」
ぼそりと呟いた。パーシエルのふりをして結婚詐欺を繰り返し、その名を地に堕とそうとしたアルフ……。確かにパーシィの言うとおりかもしれないが、
「依頼されてやることだし、そこまで深刻に考えることではないと思うけれどね」
サナギは気軽な調子で言った。
「もし引き受けてくれるのなら、報酬金に糸目はつけないつもりです。お願いできませんでしょうか?」
領主がそう言い、頭を下げるのに、パーシィはしばらく考えていたけれども、黒曜を始めほかに返事をする者がいないと分かると、
「それでは、結婚式の間だけ……」
快諾という様子ではないものの、最終的には引き受けた。
「ありがとうございます! もちろん今晩はこの屋敷に泊まっていってください。ディナーもご用意します」
「それを先に言ってくれ!」
パーシィは途端に満面の笑顔になり、
「結婚式でも食事が出るだろうか? 楽しみだなぁ!」
たちまち明日の結婚式に、もといそこで出される食事に思いを馳せる始末である。
★・・・・
「なんで引き受けた」
と、アノニムが言う。領主に貸し与えられた客間はツインが3つで、一同は2人1部屋に分かれて部屋を使わせてもらうことにした。
その中でパーシィと同室になったのは当然というかやはりというかアノニムで、そのアノニムは食事のあとに湯を浴びたら早々にベッドに横になったものの、まだ寝る気配はない。アノニムの問いにきょとんとしたあと、パーシィは、
「なんでって、依頼だからな……もちろん、断ることもできたが……」
冒険者らしいことを言った。
アノニムは不機嫌な様子でごろりと寝返りを打ち、向こう側に身体を向けてしまった。それでも聞こえてくることには、
「ケッコンなんざ、ろくなもんじゃねえ」
「そういうものか?」
「あいつが泣かされて帰ってきた」
パーシィは少し考え、星数えの夜会の娘さんに思い至った。アノニムの義姉ともいえる彼女は、実は過去に結婚していた。ただ、選んだ男が悪かったらしい。間もなく浮気をされ、泣きながら夜会に戻ってきた。親父さんともども怒り心頭のアノニムが旦那をぶちのめし、娘さんはきっぱり離婚した……と聞いている。
アノニムにとって結婚にいい思い出がないことは分かる。ただ、そんなに不機嫌になるほどのことだろうか? アノニムはこう見えて、かなり感情の起伏が希薄なほうだ。他者に興味がなく、ほとんど心を砕くことがないためである。今回のこともてっきり"無関心"一本だと思っていたので、パーシィは内心ちょっとだけ驚いた。
「でもいい食事が出ると思うよ。たぶん、結婚式ってそういうものだと思うし……」
言っているパーシィもそこまで人間同士の結婚について知識があるわけでもないのだが、先日、宿場町ソレルの食堂で出された結婚式前夜の食事が思い出される。前夜であれなのだから、当日はたぶんもっとすごい。まあ地域差はあるかもしれないが。
だがアノニムは、「ふん」と鼻を鳴らして、
「もういい、寝る」
と、取り付く島もなかった。パーシィは首を傾げながらも、
「ああ、おやすみ」
就寝のあいさつをした。寝るには少し早い時間だが、明日は早い。自分ももう寝たほうがいいかもしれない。
モントランの蒐集家 2
さて、午後の中でも、遅めの時間に出た馬車に乗ってきたので、じきに日も落ちるだろうという時間帯だ。今日はもうこれ以降、モントランから出る馬車はない。黒曜一行は宿をとる必要に迫られた。
ミスティは黒曜たちの馬車代と護衛の報酬金を出していて、「宿代もお出ししたいのですが……今は手持ちが」と申し訳なさそうな顔をした。
「まあ、せっかくの初来訪だし、観光させてもらおうかな。そのほうが自分たちで宿代を出す甲斐があるからね」
とサナギは笑っていたが、ミスティは、
「いえ。よければ、旦那様の――領主様のお屋敷に来ませんか? 客室をお貸しくださるかもしれません」
ありがたい提案である。だがサナギはぱちぱちと何度か瞬きをしてから、
「メイドを送り届けたとはいえ、こちらは一介の冒険者だよ? 領主殿に直接、寄与したわけでもない」
「ですが、あなたがたがいたおかげで、安心してお使いの品を届けることができますわ」
「そのお使いの品、いったい何なんだ? 高価なものなのかい?」
パーシィが尋ねた。領主のプライベートな使いならわざわざ把握しておくようなことでもないし、タンジェにとっては大して興味もないことだったが、本来なら最初に聞いておくべきだったのかもしれない――もっとも、"本当に必要"だと判断したら、タンジェがどうこう言わなくてもサナギが聞くだろう。サナギにとってもそれほど重要な情報ではなかったのだろう、とは思ったが、
「ああ、これは……スパイスです。料理に使う……」
「スパイス?」
「旦那様はこれを使った料理が大層お好きなのですが、このあたりでは流通が悪くて。相当な高値で売れる物品ですから、そうと知れれば野盗にも狙われます」
「そんなに珍しいものなのか?」
「ベルベルントでも、多少、値の張るものだよ」
とサナギが言った。ミスティのお使いがスパイスであったことに、さほど驚いている様子はない。「てめぇ、知ってたのか?」とタンジェが尋ねれば、サナギは黒曜のほうを指し示した。ああ――スパイスということは、それなりの香りがする。黒曜の鋭敏な嗅覚が察知し、あらかじめサナギと情報を共有していたのだろう。サナギは続けた。
「このあたりだとざっと5倍の値段になるだろうけれどね」
「な、なるほど……」
示された金額はパーシィも難しい顔になるようなちょっとした高値である。金銭感覚がいまいちズレているパーシィですらそうなのだから、タンジェにとっては顔が引きつるくらいの金額だ。たかが料理のスパイス一つがこの値段で取引されること、何よりこの金額を出してまでスパイスを欲しがる人間がいることは信じがたい事実だった。だが、モントラン近辺の取引額で買うよりベルベルントまで行ってそちらの金額で買ったほうが、確かに交通費、護衛の報酬込みでも安く済む。めまいがするようだ。
「領主様は皆様のご活躍をお認めになり、歓迎なさると思います。ぜひいらしてください」
この金額を見せられたからには、自分たちの護衛も真っ当な仕事であったと思われる。黒曜が「そうしよう」と呟いたので、一行はひとまず、ミスティの言葉に甘え、町のいっとう目立つ高台にある領主の館に赴くことにした。
領主の館の周囲は町の中心地より高い位置にあるからか、とりわけ寒い。山から下りる風は暗くなるにつれいっそう冷え込む。立派な髭をたくわえた壮年の領主は、ミスティと黒曜一行を見回し、それでもう事情を察したらしい、にっこり微笑むとすぐに一同を客間に通した。
客間は立派な暖炉にもう火が入っていて、外の寒さと対比し暖かさがより引き立つようだ。寒がりが多いので、みんなこぞって暖炉の近くのソファに座ろうとしたのが可笑しく、タンジェは思わず口端を歪めてしまった。タンジェは暖炉から一番遠い席に率先して座り、暖炉争奪戦から離れた。タンジェの頑強な肉体は、多少の寒さではびくともしない。さすがに外は寒かったが、万が一、町中で戦闘があってもいつも通り動けるだろう。
領主はミスティを労い、お使いで買ってきたというスパイスを確認して喜び、彼女に少し休むよう言った。別のメイドが湯気の立つ温かいお茶を淹れてきて、一同に配った。甘い香りがする。さっそく口をつけると、香りに違わず甘いお茶だった。上品な甘さではあるのだが、タンジェには少し甘すぎる。残すのも悪いので一応飲み干しはしたが、空になったカップに追加で注ごうとするメイドの気遣いは遠慮した。
「このあたりの伝統的なお茶なのですが、お口に合いませんでしたかな」
はいそうですとは言えず、タンジェはただ苦い顔をした。サナギが、
「すみません、彼は甘味を好まないのです。これは……メープルですか? 美味しいです」
と、実に軽やかなフォローをしてくれる。
「彼が例外で、甘党が多いので。お土産に買っていこうかな」
「そうですか! 町のね、大通りにある『テイクファイブ』という店が、紅茶の専門店ですが、あそこのは実にいい。ぜひ帰りに」
領主が身を乗り出して言うので、サナギは「『テイクファイブ』ですね。もちろん、ぜひ」と微笑んだ。
結果的に領主は逆に上機嫌になり、タンジェはサナギに借りができた形になる。ジトリとサナギを睨むと、サナギはウインクし返してくる始末である。
「それで、ですね……。皆さん、冒険者でいらっしゃる?」
突然、領主が声のトーンを少しだけ落として、そう尋ねた。サナギは領主に視線を戻し、不思議そうに首を傾げた。
「ええ。ミスティさんの護衛を引き受けました」
「そのぉ、モントランにはそういう生業の者がおらんので理解は浅いのですが、冒険者というのは、謝礼を払えば頼みを聞いてくれる、何でも屋という認識で間違いない?」
「うーん、パーティによって、受ける依頼の方針は違います。どんな依頼も頼むがままとはいきません」
サナギでなくとも、タンジェですら、明らかに領主が黒曜一行に何か"言いづらい依頼"をしたいのだ、ということが分かった。内心ではさっさと言えよと思いつつ、さすがにこちらも言葉には出せない。こういうときにタンジェよりよほど不躾なのはパーシィで、案の定、
「何か言いづらい依頼でも?」
と、そのまま聞くので、領主が何度か汗を拭いた。
「いやぁ、はは。それがまあ……そうです」
ストレートに尋ねられれば、まあ、そう答えるしかないだろう。領主は、
「特にあなた……パーシィさんといったね」
客間に案内されながら、自己紹介は済ませていた。名指しされたパーシィは紅茶とともに供されていたクッキーを食べ続けていたが、きょとんとしてようやく手を止め、
「俺が何か?」
「その……私の娘と、結婚式を挙げる気はありませんか?」
パーシィは領主に向かって、「はあ?」と、大きな声で不遜な疑問符を上げた。
モントランの蒐集家 1
ひどく寒い町であった。
ベルベルントより北のカルナディーン領にある、モントランという小さな町である。氷雪に覆われた山を背負っていて、まだ10月だというのに、そこから吹き下ろす風は冷たい。タンジェたちは外套の前を手でとじるなどしたが、凍てつく空気には身震いした。
黒曜、タンジェ、アノニム、パーシィ、緑玉、サナギの6人は、ちょっとした依頼を受けてベルベルントからこのモントランにやってきた。街道を走る乗合馬車に乗り、依頼人に付き添うだけの楽な依頼だ。名目は"護衛"であったが、これが必要な仕事だったのか、タンジェに訝しく思う気持ちがないではなかった。
とはいえ今のところ、依頼人の女――名をミスティという――に、怪しい素振りは特にない。上品なコートに身を包んでいるが、彼女自身はさほど身分は高くないとのことだ。聞けば、領主宅のメイドであるらしい。
ミスティは数日前、ベルベルントに、領主から命じられたお使いに来ていた――。
ベルベルントの夕暮れ時。スラム街に続く通りだ。街灯が少なくこの時間には他より暗くなる。そこで、
「いいじゃねえか、一晩付き合えよ」
と、典型的な絡まれ方をしていたのが、のちに名を知るミスティであった。
日ごろから特に目的もなくスラム街をふらふらしているパーシィが、たまたまそこからの帰り道で彼女と男を見かけた。それでパーシィは男を、本人曰く"ごく穏便に"退かせ、ミスティを助けた。ミスティは礼に食事を奢ると言い、それならとパーシィは星数えの夜会にミスティを連れて来た――パーシィがミスティと連れ立って宿に帰ってきたので事情を聞いたら、そういうことである。
「本当にありがとうございました……」
ミスティは約束通りパーシィに彼が頼むままの食事を奢って、それに舌鼓を打つパーシィのことをちらちらと見ながら、改めて礼を言った。パーシィは、
「大したことじゃないよ。あんなことで奢ってもらって悪いくらいだ」
「いえ、そんな。あのままでは危なかったですから。護身の心得もないもので……」
そんなのがスラム近くをうろつくもんじゃねえ、と隣のテーブルで夕食をとりながら話だけを耳で拾っていたタンジェは思ったが、ミスティとパーシィの会話に割り込む理由はない。だが思ったことはパーシィも同じらしく、
「丸腰でスラムに近づいたのか? 失礼だが、何か目的があって?」
「いえ。その……、土地勘がないもので。馬車の停留所を探していたのです。宿泊している宿への目印にしていました……」
「正反対の方向だ。それは運がなかったな」
ないのは土地勘でも運でもなく、単に方向感覚じゃねえのか。これもタンジェは言わずに黙っていた。
「それは……残念です。でも、災い転じて福となすとでもいいましょうか。パーシィさんのような方に出会えたのは幸いでした」
「ん?」
「モントランに帰る前に、頼れる冒険者を見つけようと思っていました」
と、ミスティは言った。そこから黒曜一行に相談されたのが、彼女の故郷・カルナディーン領モントランへの護衛だった、というわけである。
しかしサナギ曰く、モントランへの道のりは、馬車を乗り継いで2日ほどと多少の時間はかかるものの、整えられた街道、地元騎士団の見回り、定期的な馬車便と特に問題は見当たらない。
「護衛の依頼理由がまだちょっと不明瞭かな」とサナギははっきりミスティに告げた。「ベルベルントに来るのにも護衛を雇ったの?」
「いいえ」
ミスティは答えた。
「でも、ここからモントランに帰るのに、旦那様から申しつかったお使いの品を何としても無傷で持っておきたいのです」
「ははあ」
念には念をというわけか、とサナギは言って、一応、納得の様相を示した。そのサナギの様子を確認してから、黒曜はいつも通りのごく淡白な口調で、
「受けよう」
と言った。そうなれば決まりだ。一同はミスティの明日の朝に出たいという要望を聞き、それまでに準備を整え、翌日つつがなく出発した。
やはり想像通り道中に何か事件があるわけでもなく――冒頭に至る。
カーテンコール 8
ペケニヨ村がオーガに襲撃されたとき、マンダは大怪我を負って意識もなかったが、かろうじて生きていた。生き残っていたのはタンジェとマンダだけだ。だがマンダが死ぬのは時間の問題であった。
タンジェはすぐにマンダを抱えて下山を試みた。エスパルタまで行けば医者か、聖ミゼリカ教徒がいる。だが、タンジェも無傷ではない。マンダを抱えて下山をするのは無理があった。
そこでタンジェは、プロポント山中腹、ペケニヨ村からエスパルタまでの間にあるヘブラ村に寄った。少しでも兄を救える可能性を探して。
幸いなことに、ヘブラ村にはたまたま聖ミゼリカ教の巡礼者たちが宿泊していた。彼らに応急手当を任せると快諾し、癒しの奇跡はマンダの傷を塞いだ。
「それでも全快はしなかった。兄貴の意識は戻らなかったし……これ以上の治療は、この場では無理だとも言われた。だが、その巡礼者たちは、次の目的地がヴァルチアだっつったんだ」
ヴァルチア。聖ミゼリカ教の総本山である。そこまで行けば、マンダは全快するだろう。タンジェはかろうじて謝礼を払い、巡礼者たちにマンダを連れてってもらうことにし、単身で山を下りた。それからエスパルタからベルベルントへ向かったのである。
「酷い話だと思いませんか!」
とマンダは黒曜に熱弁した。
「それ以降、ヴァルチアで目覚めた僕のもとに、会いに来ないどころか手紙の一つも寄越さないなんて!」
「しょうがねえだろ。俺はてめぇをいないもんだと思うことにしたんだ」
「それこそ酷い話だな! なんでさ!?」
「それは……」
復讐に関わらせる気がなかったからだ。
マンダはタンジェと違い、というより、両親やペケニヨ村全体の雰囲気に違わず、気性は穏やかで心優しくのんびりしていて、間違っても復讐なんてものには縁のない男だった。タンジェがそうあってくれと思っていた。そして彼の存在は、自分の甘えと隙になるだろうとも思った。だからタンジェは、兄の今後の人生は放っておくことに決めたのだ。ヴァルチアに行ったあとの兄のことも、どこでどうやって暮らしてるかも知ろうとしなかった。
口ごもったタンジェのことを不服そうに眺めていたマンダだったが、
「まあ、でも、いいよ。こうしてまた会えた」
と、タンジェのよく知る穏やかな微笑みを浮かべた。
「今はどこで何をやってるの? エスパルタにはいないようだということは何となく分かっていたけど……」
「……ベルベルントで冒険者をやってる」
「ベルベルント? 冒険者!?」
マンダは驚き、
「あ、じゃあ黒曜さんは冒険者仲間だということ?」
「話が早えな。ベルベルントにはあと4人、パーティメンバーがいる」
昔からマンダは実に聡明だ。そうなんだ、と少しだけはしゃいだような様子で、
「帰りにエスパルタに一度寄るよね? 荷物を整える時間をくれる? 僕もベルベルントに行く!」
「はあ!?」
穏やかなせいであまり目立たないのだが、マンダはこうと言い出したら聞かないところがあって、タンジェは彼のことを頑固だと思っている。となれば、タンジェと黒曜が黙ってベルベルントを発ったとて、マンダは意地でもベルベルントに来るだろう。ヴァルチア、そしてエスパルタで過ごした期間があるとはいえ、彼がベルベルントのような大都会に一人で来て無事でいられるとは思えない。だったら一緒に行き、星数えの夜会で過ごさせたほうがまだましだ。
「……仕方ねえな……いいか? 黒曜」
「ああ。家族なら、一緒にいろ」
タンジェは目を瞬いて黒曜を見た。黒曜はごく涼しい顔をしている。だが、そうだな、とタンジェは思った。そうするべきなのかもしれない。
「ありがとうございます!」
顔を輝かせるマンダ。なんでかタンジェは眩しく思い、目を細めた。
★・・・・
そうだ、とタンジェは言った。
「親父とおふくろの墓はどれだ?」
「ああ、こちらだよ」
と、マンダが指し示した墓に、ナイフで両親の名が刻まれている。見れば、墓すべてに村人の名前があった。誰一人欠けることなく。
律儀な兄らしい、と、タンジェは思った。
タンジェは両親の墓の前に屈み、目を閉じた。たった数秒。思ったことは、シンプルに「ありがとう」だった。
あの日記を見て分かったのだ。自分がいかに両親に愛されていたのかということが。
タンジェは目を開け立ち上がり、爽やかな秋晴れの下、黒曜とマンダのほうへ向かって身を翻した。
出会い、真実、再会。
かつて復讐のためなら投げ捨てるつもりだった命だって、ここまで持ってこれたから、黒曜との出会いを思い返し、バレンから聞かされるすべてを知って、兄マンダとの再会もできた。マンダとの再会は、別に望んじゃいなかったが……兄の元気そうな顔を見れたのは、よしとしよう。
――ラヒズとの因縁に決着がついたことが、こうしてまた意味を持ってタンジェの物語にピリオドを打とうとする。
だからこれは、拍手も喝采もないけれど、ある一幕のカーテンコールだった。
復讐すべき相手がいないこと。それがまるで、タンジェの物語の終幕であるかのように。
けれど、終わりになんかさせるかよ、と思う。復讐なんか目的にしなくたって、愛する人と歩む日々はある。
何度だって、タンジェの物語の幕は上がる。
カーテンコールなんざまっぴらだ!
【カーテンコール 了】