聖ミゼリカ教会の戦い 3
翼に絡んだ鎖が粉々に砕け散る。飛び方はよく知っている。天界を自由に羽ばたき回っていたそれは、堕とされた地上にあってもなお、パーシィの自在に動いてくれるはずだ。
聖歌を背に受けて飛び立ち、空中を旋回する。突如現れた天使の姿に悪魔たちの動揺が広がるのが分かる。だがその穢れた翼を見ればパーシィが純粋な天使でないことはすぐに知れるだろう。
「堕天使か」
ざらついた声が言った。目の前の悪魔の嘲笑である。
「堕天使の誹りは甘んじて受け入れよう。事実なのだし」
「敢えて言う。市民を一カ所に集めるのは愚行だったな。まとめて我々に殺られるだけだ」
悪魔が闇色の衝撃弾を人々に放つ。光弾で相殺する。それを区切りに複数の悪魔が次々と聖ミゼリカ教会とその広場にいる人々に攻撃を放つ。
「<プロテクション>!」
不可視の壁がミゼリカ教会とその周囲を一瞬包み込み、すべての攻撃を弾き飛ばす。ミゼリカ教会を中心に滑空しながら、すれ違う悪魔をメイスで殴り殺していった。複数の悪魔の攻撃が、羽根や身体を突き貫こうと迫る。何発か羽根に食らい、砂のような光が零れた。天使の攻撃が悪魔にとって致命傷になるように、悪魔の攻撃は天使にとって致命傷になる。じんじんとした痛みが広がるが、気にしない。あとで治せばいいだろう。
悪魔の表情が、狩る側の余裕のそれから少しずつ変わっていく。
「そっくりそのままお返ししよう」
パーシィは言って返した。
「集まった市民に群がるのは愚行だったな。まとめて消し炭になるだけだ」
地上はアノニムがいるから心配していない。空中から見ても地上で悪魔の侵略を許している様子はなかった。血の赤は広がりつつあったが、アノニムたちは持ちこたえていたし、それよりはるかに青のほうが多い。悪魔の血だ。
アノニムだけではない。クエンの護衛もいるし、他にも数人、救助基地と避難所の護りについた冒険者がいるようだ。地上からも空中からも悪魔は聖ミゼリカ教会を攻め落とせはしない。
悪魔の槍をかわしてメイスで頭を割る。1匹、また1匹と悪魔は消滅していく。
「……ちっ!」
1匹ずつでは埒があかないと察した悪魔が数匹集まって融合する。悪魔同士が互いを吸収し能力を高めるのは、特に中級格までの悪魔には珍しい行為ではない。だが、巨大になっていく悪魔の姿は、見る人々に圧倒的な絶望を与えたのだろう。聖歌が止みそうになる。
怯えた人々が身体を寄せて震えている。それでも決して怯まずひときわ響く娘さんの歌声は、空中にいるパーシィにも届いていた。
人々は娘さんに勇気づけられ、必死に聖歌をうたう。
人々の祈りが、パーシィに力を与えてくれる。
戦える。迎え撃つパーシィの肉体が1つとて、背負う祈りの数が膨大だ。もはや自分のエネルギー残量なんて気にする段階ですらなかった。
パーシィが普段、光弾や治癒の奇跡を使うときに口にする聖句は、少しでもエネルギーの負担を軽くするためのものなのだが――今のパーシィには、聖句すら必要ないだろう。
――そう思った瞬間、身体が傾いた。
一瞬、落ちるかと思った。慌てて体勢を立て直す。
人々の聖歌は続いている。何故バランスを崩したのか、何が起きたのか確認すれば、パーシィの羽根に一つだけ鎖が絡みついている。
鎖といえばラヒズの攻撃手段だが、これは違う。外部からの攻撃というわけではない。
そうなったタイミングで自覚できた。この鎖は『欲』かもしれないと、パーシィが自分で言ったのだ。
鎖が、聖句が必要ないなどというパーシィの傲慢を戒めたのである。
この鎖は、罰だ。パーシィのすべての罪を、欲を、邪悪を戒めるための。反省する。こんなところで落ちたら天使の名折れだ。
羽ばたく羽根の鎖と、パーシィの様子を見ていた悪魔が、くつくつと嗤う。
「今さら天使ぶってみても、貴様はこちら側だよ」
悪魔が闇弾を何発か放つ。ご丁寧にそれぞれの闇弾に数秒の時間差を与えている。パーシィの<プロテクション>が長くは続かないことに気付いているのだ。
それでも民衆を狙った一番大きなものを<プロテクション>で弾き、残りの弾は仕方ない、危険な軌道のものは身体で受けた。
「くっ……!」
全身が焼ける痛みはあるが、祈りの力は膨大だ。この程度では死にはしない。
相殺したもの以外の闇弾が地上に着弾し、人々の大きな悲鳴が響き渡る。地面が抉れ、広場の植木が焼かれ消し飛んでいく。
「罪、欲、邪悪を身に持って天使を名乗るのは無理がある」
先ほどは小規模の闇弾を複数放ったが、今度は巨大なものを一発。パーシィは民衆と悪魔の間に入り、<プロテクション>と自身の身体で強引に守り切る。<プロテクション>で削り切れなかった悪魔の闇弾が周囲で小さく弾けて、羽根を筆頭に、カソックを突き抜けてパーシィの肌を爛れさせた。
「……」
――悪魔の言うことは信じるな。
かつてパーシィがタンジェに伝えた言葉でもある。
悪魔の言葉は正しい。正しいからヒトは騙される。そして今も、パーシィはやつの言葉が間違っているとは思わない。
「だが、それでも、」
人々の祈りはパーシィの力になる。
パーシィの力は傷を癒す奇跡になり、
また、邪悪を滅する刃にもなる。
「今の俺は、昔の俺とは違うと」
聖句を唱える。
「――信じている」
――<セイント・フレア>!
空から降り注ぐ数多の光弾が焼けるように閃いて、ベルベルント中を照らす。空を白ませるほどの、眩いばかりの光だ。
光弾が巨大な悪魔の身体に何十もの穴を開ける。すぐさま穴から焼け爛れ、灰になっていった。
聖歌が徐々に歓声に変わる。
まだ悪魔はたくさんいるけれど、巨大化した悪魔を葬り去ったことは、人々の不安を払拭する役に立ったようだ。
しかし気は抜けない。まだ戦える。パーシィは焼け爛れた翼で空中を羽ばたきながら、新たに飛来する悪魔を1匹ずつ潰していく。
――胸を張れるか?
この戦いにおいて人々を守り切ったならば、俺は変われたのだと堂々と言えるか?
神は地にいるパーシィには応えない。
慈母はすでにこの世にはいない。
けどきっと、アノニムは、みんなは頷いてくれる。
……いや、頷いてはくれないかもしれない。
でも、それでも別に構わない。
黒曜はいつも通り無口で、タンジェは「そういうところが傲慢なんだよな」とパーシィを罵り、緑玉は呆れた顔をして、サナギは笑って肩を竦め、そしてアノニムは「昔のお前を知らないから知らん」とか言うのだ。
それを考えるだけでパーシィは楽しくて、嬉しくてしょうがない。
聖ミゼリカ教会の戦い 2
死にかけていた老人をなんとか救ってすぐ、親父さんがパーシィに声をかけてきた。
「パーシィ」
「親父さん! 何かあったのか……!?」
親父さんは首を横に振ったが、
「いや、聖ミゼリカ教会の中は定員オーバーでな。外で待機することにしたんだよ。それで、ぼうっと突っ立っているのもナンだから、何かワシにも手伝えることがあればと思ってな」
……聖ミゼリカ教会の容量は無限じゃない。ベルベルント中の人々全員が収容できるはずもない。そろそろあぶれてしまう人が出る頃だとは思っていた。
それでも親父さんは別に恐慌状態にはなかったし、それどころかごく冷静だった。たまたま通りかかったクエンが、
「ああ、じゃあ医療班に飲み物でも配ってくれるか?」
と、聖ミゼリカ教会から出してきたのだろう、水のたっぷり入った水瓶を指差した。親父さんは「そいつは得意技だ」と笑うと、積み重なったグラスにてきぱきと水を汲んでいく。
俺もすぐに次の"赤"を治療しよう、と思って身を翻したとき、嫌な気配がパーシィの背筋を這った。咄嗟に振り返ると、悪魔が1匹、空からこちらへ向かって滑空してくるところだった。
迷わず迎え撃つ。光弾を放てば悪魔に直撃し、悪魔はぶすぶすと焼け死にながら落下してくる。外で待機していた人々の悲鳴が上がる。死体は灰になり空中で霧散した。
「まあ、ここを見逃してくれるわけはないよな……! スクード!!」
「ああ」
クエンが呼ぶと、鎧姿のガタイのいい男性が頷いて立ち上がった。彼も護衛を付けてきたわけだ。アノニムを見れば、すでに臨戦態勢だ。地上からの悪魔は任せてもいいだろう。しかしアノニムは空からの攻めに対応できない。
冒険者ではない聖ミゼリカ教徒のほうがはるかに多い。祈りを癒しの奇跡に変えられる者は、そういった非戦闘員の聖ミゼリカ教徒の中にも一定の割合いる。戦えるパーシィは悪魔を迎え撃つほうに集中したほうがいいかもしれない。テントから出ている間に、すでに地上では悪魔との交戦が始まり、怯えた人々がパニックになって騒いでいる。
「ぎゃあ!」
「ぐわ……!」
地上で交戦する冒険者たちが何人か悪魔に槍を突き刺されて倒れた。彼らを引き倒すようにして後方に放り、アノニムが前に出て悪魔を殴り殺す。槍はついと回避し、返す棍棒は的確に悪魔の頭をかち割っている。練度の低い冒険者は攻撃に怯んでしまい、先ほどスクードと呼ばれたクエンの護衛が彼らに怪我人を奥に移動させるよう指示を飛ばしている。
怪我人の鮮血を見れば人々はたちまちパニックになる。それだけじゃない、空中からも10匹は下らない数が来ていた。それほど格の高くない悪魔ばかりだが、非戦闘員のことは赤子の手を捻るように殺せるだろう。
光弾を連続で放って2匹仕留める。耳障りな音を立てて悪魔が落ちていく。灰になって消えた。
悪魔たちは半分はパーシィに、もう半分は人々にかかっていく。パーシィを相手にするよりパニックになった人々を殺すほうが割が良い、と察した比較的賢い奴らは中級格とでも呼べる悪魔ばかりで、叫び逃げ惑おうとする――人の壁があって逃げられるわけはない――非戦闘員に剣や槍を振りかざす。
「<ホーリーライト>!」
それとは別に、目の前には迫り来る悪魔はいたけれども、パーシィは人々を襲っているほうの悪魔を優先して焼き殺した。眼前にいる悪魔の槍が肩を掠める。悪魔の力が流れ込み、傷が焼けたように熱くなった。
「ここは安全なんじゃないのかよ!」
「死にたくない! 逃がして! どいて!」
「押すんじゃねえ、どこにも逃げられやしねえよ!」
「助けて……! 助けて……!」
ざわめきがあっという間に広まる。泣き喚く人々。これを納める手段はパーシィにはない。悪魔を焼き殺して安全を確保することでしか、恐怖に陥った人々を守るすべはない。
だが、その恐慌の中で、確かにパーシィは聴いた。
聖歌だ。
誰かが聖歌をうたっている。
悪魔を前にしてパニックに陥る人々の真っ只中に、悪魔を真っ直ぐに見て聖歌をうたう者がある。
――娘さんだった。
彼女は聖ミゼリカ教徒ではない。だがこのベルベルントの初等教育では誰しもが簡単な聖歌を習う。その一番拙く、簡単で、でも誰もが知る旋律を、彼女はたったひとりで、うたっていた。
神に捧げる歌は尊い。聖歌は、たとえ歌い手が聖ミゼリカ教徒でなかったとしても、聖なる力がわずかばかり宿るものだ。悪魔を浄化こそできないが、やつらを怯ませる程度の力はある。パーシィの目の前の悪魔も明確に動きが鈍って、パーシィはそいつを容易く消し炭にできた。
人々のどよめきは静かになり、やがて、
やがて人々は、娘さんの声に合わせて、いっせいに聖歌をうたい始めた。
信仰だった。
確かにそこに、信仰があった。
悪魔たちが真っ先に聖ミゼリカ教会の尖塔を攻撃したことを、パーシィは悪魔たちからの聖ミゼリカ教の――ひいては神への宣戦布告と受け取ったが、それはきっと、はじめに人々の心を折るためだったのだろう。
だが、ヒトはこんなにも、挫けない。誰か一人でもその心をまっすぐに保っていられたら、その一人に次いで誰しもが前を向ける。
サナギは、祈りは欲で、欲は重さだ、と言った。
それが間違っていると、パーシィは言い切れない。人々は我欲で神に祈り、祈りが届かなければ簡単に信仰を捨ててしまう。
だが、ここにあって聖歌は、何よりも清く、何よりも美しかった。
この純然たる祈りにおいて、人々に救済をもたらさねば、天使としての名が廃る。
祈りを借りて力を集中させれば、天輪と羽根は具現化する。
パーシィの翼は。
血で濁り、鎖に繋がれ重く、その重さで羽ばたくことすらままならない、穢れたそれだ。
負った天輪は赤黒に錆び付いている。
パーシィは、堕天使だ。ヒトの肉を喰らって『暴食』の罪により罰を受けたもの。
だが人々の祈りを昇華して聖なる力に換えることを赦されたこの身は、こういう日のためにあったに違いない。
堕天使パーシィは、神の名において、悪魔を殲滅する。
聖ミゼリカ教会の戦い 1
聖ミゼリカ教会の前は人で溢れてはいたが、それでも医療班の手腕か、比較的整然としていた。即席ではあるが救護用のテントが建てられ、広場にはきちんとシートが敷かれてその上に怪我人がいる。
パーシィが先にこちらに様子を見に訪れた際は、本当に酷かった。さっきまで人びとは押し合いへし合いミゼリカ教会の内部に入ろうとしていたし、救護テントもまだなく、怪我人はミゼリカ教会前の広場に転がされていた。
それが短時間でここまで様になったのは、緊急時においても冷静に場を整えた者たちがいたからに違いない。その中に『水槽の白昼夢亭』の医者クエンがいることをパーシィは知っていた。
ここまで護衛してくれたアノニムに礼を言い、親父さんたちには聖ミゼリカ教会の中で待機するように伝えた。
怪我人たちの間を、医者もミゼリカ教徒も忙しなく往復している。怪我人が呻いたり泣いたりしているのが聞こえてくる。パーシィは、小柄な後ろ姿が、泣いている子供の腕を治療してやっているのを見つけた。
「クエン!」
「パーシィ」
クエンは視線だけでパーシィを見ると、
「来てくれて助かる! 宿への報告はもういいのか?」
「ああ」
先に訪れたこの場所から、いったん夜会への報告のために離れたことを、クエンは責めなかった。
「怪我人にはすべてタグを付けている。お前には赤いタグ、次に黄色いタグの怪我人を優先して治療してもらいたい。緑のタグは僕たち医者の応急手当で何とかなるが、 赤と黄色はそうはいかない怪我人だ」
トリアージだ。治療の優先順位を決めるためのタグだという知識があった。これは聖ミゼリカ教徒の発想じゃない。医者たちが始めたのだろう。おそらく聖ミゼリカ教徒から文句は出たはずだ――「患者に優先順位を付けるなんて」と。それでもなおトリアージの実施を押し切った医者側の苦労は計り知れない。こうして改めてここに来たパーシィがすぐに治療に参加できるのはトリアージのおかげだった。
黒のタグ――優先順位が最も低い、即ちもう死んでいる――をつけた者は、人々を不安にさせないためだろう、救護テントからいくらか離れた場所に安置されていた。ここに来るまでの道端でも、もう手遅れの人間を何人も見た。
死人はどうしようもない。それでも生きてさえいてくれれば、救える命はある。パーシィはすぐに治療に取りかかった。
盗賊ギルドの戦い 4
「へっ……殺さねえのか? 『我を通す』んだろォ?」
驚いた。脳を思いっきり揺さぶるつもりで蹴ったが、まだ意識があるらしい。その質問にタンジェが答える前に、
「タンジェ!」
ブルースの声がした。
タンジェがギャジを警戒したまま顔だけ傾けて後ろを見ると、ブルースが盗賊ギルドの入り口から駆け込んできたところだった。てっきり奥で震えているもんかと思っていたのでこちらにも驚く。いつの間にか外に出ていたらしい。治癒の奇跡が使えるやつを探しに行っていたのだろう。
ブルースの後ろには何故かイザベラがいて、生存している盗賊にすぐに駆け寄り、聖ミゼリカ教の聖句を唱え始めた。なるほどシスター服のイザベラを見れば聖ミゼリカ教の治癒の奇跡が使えるだろうことは一目瞭然だ。
「ぶ、無事か!?」
「おう」
タンジェはまだギャジに斧を向けたまま頷いた。斧の先に倒れ伏しているギャジを見たブルースは、
「死んだのか?」
「死んでねえぜェ」
ギャジ本人が答えた。うお、と言ってブルースはタンジェの後ろに隠れる。
「てめぇは悪魔じゃねえ、獣人だろ?」
タンジェが尋ねると、ギャジは天井を見たまま「そうだぜェ」と言った。
「なんで悪魔に加担したんだよ? ベルベルントの住人じゃねえのか?」
「ベルベルントには来たばっかさァ。俺の相棒が悪魔だからよォ、悪魔側に協力するだろ、フツー」
「相棒が、悪魔?」
ラヒズも、かつてのサナギを『友人関係』だと言っていたか。だが、悪魔とのそれを信頼できるものなのだろうか。誰を信頼するかなんてギャジの勝手だし、交流関係を他人に口出しされたくはないだろうが……。
「あいつは狩りの仕方も教えてくれたしよォ……」
その『相棒』とやらが<天界墜とし>で来た悪魔なら、墜ちてきたのは本当につい最近のはずだ。情報を少しでも得ようと、タンジェは尋ねた。
「その悪魔ってのは誰なんだ? ラヒズか? ハンプティか?」
「どっちでもねぇなァ。サブリナってやつだよ」
知らない名だ。タンジェの眉根が寄っている。それを見たブルースが、
「こいつの『相棒』とやらの名前がそんなに重要か? 誰だろうとぶちのめすとか言い出すと思ったがな」
……そりゃそうだ、と答え、思考を切り上げた。タンジェが考えを巡らせたところで意味がないことだ。きっと答えに辿りつくこともない。ただ、ギャジの相棒である悪魔も恐らくベルベルントのどこかにいるのだ。警戒しておくように黒曜たちにも伝えたいところである。
とすれば、いつまでもここにはいられない。盗賊ギルドを去ろうとすると、
「おい待て、行くのか? こいつはこのまま?」
「どうせもう武器もねえんだ、戦えねえよ」
タンジェが言うと、ギャジのくぐもった笑い声が聞こえてきた。
「俺ァよォ、この戦いの前にも人間を何人も喰い殺してんだぜェ? 言ったろ、狩りの仕方は教わったってよォ」
それで、タンジェはゆっくりとギャジのほうを向いた。
「それでも俺を殺さねえってかァ? お人好しだよなァ! 武器なんざなくてもお前らの喉笛噛み切れるんだぜェ」
口はよく回っているが、顎を打たれたギャジは立てないらしく、未だ大の字で転がっているのみだ。
「さァ、我を通せよ! そのために戦ったんだろォ!?」
「……」
信念、思想、そのほかあらゆるもの――人をその人たらしめる条件は膨大で、その中の何かしら、たった一つでもほかの何かとぶつかったのなら、そこに争いが起こる。
たとえばかつて巨大熊ノワケと戦ったのは、ロッグ村の人々が、平穏を望む我を通そうとしたからだ。
オーガと戦うつもりだったのは、タンジェが復讐という我を通したいがためだった。
ギャジと戦ったのだって、そりゃあ、ベルベルントへの侵略を許さないという我を通すためである。そしてそれはとっくに通った。ギャジの生死に、戦いとの因果関係はない。
それでもギャジは納得がいかないらしい、
「そうでなくても、そこのやつらはもう死んでんだろォ? 俺が殺したんだぜェ!」
まるで殺してみろと言わんばかりだ。
ギャジの言うとおり、ギャジは人を殺した。だが、いつかその事実がギャジを殺すのならば、それはギャジの因果応報であって、タンジェが我を通した結果ではない。タンジェは呆れてギャジを見下ろした。
「てめぇが何人も殺して、殺した末に喰ったって? その決着を俺につけさせようとするんじゃねえ。てめぇのケツはてめぇで拭けよ」
義憤に燃えたタンジェがギャジを裁き、殺すことは、なるほどギャジの中では筋が通っている話なのだろう。見当違いとまでは言わないし、タンジェにだって邪悪をぶちのめそうという気概はある。だがギャジを裁くのはタンジェではない。ギャジがこの世界に生き、共通語を解す獣人である以上、この世界の法律が、彼を裁く。あるいは殺されたやつらの遺族が怒りに燃え、ギャジを裁くだろう。それを請け負ってやる義理はない。
復讐相手への逆恨みに萎え、誰かを助けるための放火の覚悟もなく、それでいて黒曜が言うほど潔白でもない。
それでもここに至って、タンジェは、殺す相手くらい自分で選ぶ。
「……」
ギャジは大の字になったまま、黙って天井を見つめていた。
「お、おいおい、マジかよ……マジで生かしとくのか!?」
困惑したのはブルースだ。鬱陶しく思い、タンジェが、
「殺したいならてめぇで殺せよ」
ぶっきらぼうに返事をすると、ブルースは唇を尖らせたが、やがてしぶしぶといった様子で腰からナイフを抜いた。
マジかよ、とタンジェは思った。ああ言ったのは自分だし止める理由もないが、さすがに意外だった。腐っても盗賊ギルドの所属、ということだろう。
「待ってください」
止めたのはイザベラだった。生存していた盗賊たちの治療は終わったらしい。イザベラは立ち上がり、ブルースに歩み寄る。
「彼は獣人です。ベルベルントには獣人が多い。今ここで彼を殺すと、それが万が一ほかの獣人に知れたときパニックになります。『悪魔と戦争しているはずなのに、住人が獣人を殺した』――そんな話にでもなったら大変なことですよ」
「だがこいつ、放っておけねえだろう。仕掛けてきたのはこいつだしよぉ」
「それを説明する猶予は私たちにはないでしょう。『獣人を殺した』というレッテルが貼られる可能性はないに越したことはありません」
「……」
沈黙するブルース。イザベラの言っていることは正論に思える。タンジェは別に正義の人ではないが、悪辣な殺人鬼だと思われるのにいい気持ちはしない。ブルースだってそうだろう。
「悩んでいる時間は多くはありません。ここは私に任せてくれませんか?」
「任せる?」
「彼の処遇を、です」
イザベラは言いながら、手振りでブルースのナイフを下ろさせた。そして横たわるギャジの傍らに座り込み、微笑みかけたかと思うと、突然ジャギの首元に針のようなものを突き刺した。
「ギャッ」
短い悲鳴を上げたギャジが意識を失う。ギョッとして思わず「な、何だよ今の!?」と尋ねると、イザベラは不思議そうな顔をして、
「睡眠針です」
「なんでそんなもんシスターが持ってんだよ!」
「盗賊役なら誰しも懐に持っているものかと思いますが」
理解が追い付かず「あ?」という声が出る。ナイフを腰の鞘にしまいながら、ブルースが言った。
「シスター・イザベラは午前3時の娯楽亭において、役職を兼任している。聖職者と盗賊役の2つをな」
「盗賊役? シスターが!?」
さすがにインチキすぎる! 冒険者になる聖職者ってのはインチキまがいのやつばかりなのか?
声には出ていなかったはずだが、顔には出ていたらしい。イザベラは笑ってこう言った。
「戦斧を振り回す盗賊役も大概かと思いますよ」
ぐうの音も出ないとはこのことだ。
盗賊ギルドの戦い 3
「てめぇ!」
白い影が振り回しているのが両手に着けられたクローだと知れたのは、タンジェの振り下ろした斧が交差したそれで受け止められたからだ。金属同士がぶつかり合う音がする。
初めて見る顔だ。白い髪に一房だけ赤いメッシュが入っている。頭の上にピンと立った猫のような耳が生えていて、獣人と知れた。
「獣人? 悪魔じゃねえのか……!?」
「ジュージンなんて名前じゃねえぜェ!」
獣人は不必要なほどデカい声で応答した。
「俺様はギャジ様だ! あいさつは明るく元気にってかァ! よろしくゥ!」
面倒くさいテンションの相手だ。返事はせずに、斧でクローごとギャジを圧し潰そうとする。
「おっ! お前結構パワーあんじゃん!」
ギャジとやらがギザギザの歯を見せて笑った。
「ほかのやつらは歯ごたえなかったぜェ!」
ちらと倒れた盗賊たちを見れば、どう見ても事切れている盗賊もいれば、傷を抑えて呻いているものもいる。
「……!」
さっさとこいつをぶちのめして手当てしなくては! 斧を握る手に力を籠める。
「へえ、マジでやるじゃん……!」
タンジェの斧の重さに耐えきれず、徐々にギャジが腰を落とす。だがギャジは怯むどころか笑っている。猫のような瞳孔がぎゅっと細くなり、金の瞳はギラギラしていた。
「ほかのはひょろくて味気ねえなァと思ってたんだよ……!」
交差させたクローを勢いよく振り抜き、ギャジはタンジェの斧を弾く。あの体勢から出せる力としては並外れている。
素早く突き出されたギャジのクローを斧で叩き軌道を逸らす。気にせずギャジはもう片手のクローを振り下ろした。返す刃で跳ね返す。
クローという武器は取り回しがよく手数が多いものだ。すぐさまギャジの右手のクローがタンジェの顔面に迫る。かろうじて回避できた。髪の毛が何本か切り裂かれて落ちる。避けたそばからもう片手のクローが迫った。腰を落として避ける。
低い姿勢からギャジの腹めがけて斧をぶん回した。ギャジは引くことは知らないらしく、再びクローを交差させることで防御した。
また武器同士が重なって力が拮抗する。態勢が悪い。今度はギャジのほうがタンジェを抑え込む形になる。
「このままぶった斬っちまうぞォ!」
だがタンジェはぜんぜん焦ってはいなかった。徐々に徐々に……斧に力を込めて、抑え込むクローを持ち上げていく。ゆっくりと腰を上げて、頃合いを見てクローごとギャジを跳ね飛ばした。
「すげえ怪力だな。マジに人間かよ、お前!?」
「そいつを言われると回答しづれえんだがな……!」
オーガだぜ! と名乗れるほどは吹っ切れていない。そもそも初めてオーガと化して以来、死に瀕してもオーガに変じることができていないので、自称していいものなのかも謎だ。
「ああ~!? よく分かんねえけどまぁいいさァ! なんてったって楽しいからなァ!!」
左手のクローがタンジェの顔面をかっ切ろうとするのを後ろに避けて、
「お前も楽しめよォ!」
右手のクローが脇腹を裂こうとするのを斧の柄で受け止める。
「楽しめだぁ? ……ふざけろ! 戦いなんてのはな――」
命のやりとりに喜楽を見出せるのは、それを生業にする者にとっては、あるいは長所になりえるだろう。目の前のギャジがそうなのだろうし、そういうやつがこの世に存在することは別に否定しない。それでもタンジェにとって戦いは娯楽なんかになりえない。戦いは手段だ――強くなるための。相手を黙らせるための。そしてあるいは、
「――我を通すためにするもんなんだよ!」
吠えて、タンジェから仕掛ける。斧を横薙ぎにして再びやつの胴体を狙う。どちらかといえば隙の少ない挙動だ。
ギャジはタンジェに伸ばしかけていた左腕を咄嗟に防御に回し、重ねたクローで受け止める。もう3回目になるその動きを、ぼんやり見ているつもりはない。タンジェは敢えてすぐに斧を引いた。力を込めていたクローごとギャジがよろける。
その瞬間に跳ね上げたタンジェのブーツの爪先がギャジの顎下に直撃した。
「がっ……!」
仰け反って倒れるギャジ。それでもクローは身に付けたまま取り落とすことはなかったが、起き上がっても来なかった。
念のためギャジのクローの根本を斧で叩き折る。これで無力化されたと見ていいだろう。