カンテラテンカ

盗賊ギルドの戦い 2

 盗賊役というのは――タンジェは例外だが――基本的にはクレバーなやつがなるもので、だからこの状況下にあっても、盗賊ギルドはパニックに陥ってはいなかった。だが普段よりはるかに雰囲気は忙しなく、黙ってテーブルについているような奴はほとんどいない。
 タンジェは察している。師ブルースは、それでもたぶんいつも通り奥のテーブルに突っ伏して寝たふりをしているだろう、と。
 いつもの場所へ行けば、案の定だった。
「おい!」
 思わず強めに声をかけると、ブルースは声を上げて、
「生きてやがったな、タンジェ!」
 タンジェの無事を喜んだ。
 改めて言うけれども、そもそもブルースがタンジェに盗賊スキルを教えてくれるのは、やつにそれ以外に金を稼ぐ方法がないからだ。技術はあれど、冒険に出られない臆病者。だからこの期に及んでも、こいつは戦いに出るような真似はしない。承知の上だ。
 それより用があるのは、ブルースの情報屋としての顔のほうである。
「敵の数や手薄な場所なんかの情報はねえか? それから……片眼鏡の背の高い男……名前はラヒズだ。悪魔の軍勢の大ボスだ。居場所を知りてえ」
 後半は黒曜からの指示にはなく、タンジェの自己判断だった。ラヒズの居所が知れれば、ラヒズをぶちのめして悪魔どもを送還させるのが一番早いはずだと思ったのだ。
「ラヒズ……? 一時期、星数えの夜会に泊まっていた兄ちゃんか? ヤーラーダタ教団って新興宗教の宣教師だよな」
 そこまで分かっているのはさすがとしか言いようがない。だが当然ながらラヒズが悪魔だという情報はなかったらしく、ブルースは目を白黒させている。
 この様子だと、どこにいるのか知れるのには時間がかかりそうだ。さすがに総大将がすぐに出てくるわけはない、か。
「まあ……情報は集めとくぜ。それを聞きにここまで来たのか?」
「いや……戦いに必要な情報をかき集めて、ベルベルントの各地で応戦中の仲間に伝えるのが、黒曜からの指示だ」
「なるほどな。弟子が立派になっておっちゃんは嬉しいぜ……」
 ブルースが泣き真似をするので、そういうのはいい、と言った。
「冗談にノる余裕もねえか?」
「俺がノったことあったか?」
「うーん、確かに、ない。そうか、普段から余裕ねえもんな、お前」
「ああ?」
 これでもベルベルントに来た当初よりは余裕が出てきたと自負している。言い返そうかと思ったが、……こんなくだらない言い合いに使う時間がもったいない。ブルースも察して、話を進めた。
「手薄なところと言えば、やはり北門か」
「北門……スラム側だな」
 そこに駆けつける余裕がある冒険者も多くはないはずだ。手薄になるのは止むを得ないだろう。
「スラムにも『ロンギヌスの仮宿』って、最近できたばかりの冒険者宿があるんだが……」
「ロンギ……? ……初耳だな」
「スラムでは慕われてるが、街中にいる奴らにとっては目立つ宿じゃねえだろうな。だが結成から日が浅いわりに練度は低くねえ。たぶん、そこのやつらが北門で持ちこたえてる」
「でも街中に悪魔は入ってきてんだろ?」
「そりゃ、飛ぶからなあ。悪魔は」
 何てことはないようにブルースは言った。タンジェはげんなりする。
「とにかく手薄なのは北門だな。敵の数は?」
「そっちは正確に把握できてねえよ。次から次に攻めてきている、としか」
「……」
 <天界墜とし>は、今もまだ続いているのだろうか?
 だとすれば、天界そのものが堕ちてこなくても、無尽蔵に天界から悪魔が補充されるのか? そうなると時間が経つほどこちらが不利になる。望みの綱はサナギの送還術式、か。あるいはラヒズの居所さえ知れれば……。
「分かった。ほかにどっかに伝えておきたい情報はあるか?」
「ああそうだ。ちょうどよかった。街中の店が店のものは戦いに役立てる限り自由に使っていいという声明を出してる。たぶん、街の外壁側に行くほど伝わってないだろうから門を回ったときに伝えてほしい」
「分かった」
 頷いた。こんな危機にあっても、のちの賠償責任を恐れて店先の商品の使用を躊躇う気持ちは分かる。そういう声明が出ていることはタンジェも知らなかった。特に道具屋の傷薬なんかは使っていいと知っているのといないのとじゃ生存率に関わるかもしれない。いい情報だ。
「それから……逃げ遅れたやつを誘導してやらにゃならん。避難所と救助テントは聖ミゼリカ教会だ。……これはさすがに知ってたか?」
「ああ」
「南門はドンパチが激しいから練度が低い冒険者は近寄らないほうがいい」
「そうだな、それは各門に行きながら声をかけてみるぜ」
「定期的にまたここに戻ってくるといい」
「ああ。分かった」
 ブルースから今得られる情報は以上のようだ。この情報量なら、走ったり暴れたりしているうちに忘れることもないだろう。大丈夫だ。
 そのとき、突然バーカウンターから大きな音がして、棚にあった酒が崩れて何本か割れた。ブルースのいる『いつもの場所』は盗賊ギルドの奥で、見通しが悪く狭い。とはいえ視線を動かすだけでバーカウンターの状況は把握できる――バーテンが酒棚に叩きつけられて、バーカウンターに突っ伏すところだった。
「――敵か!?」
 タンジェがカウンター側のバースペースに駆けつけたときには、もう何人かの盗賊が、白い影にあっという間に切り裂かれて倒れるところだった。

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盗賊ギルドの戦い 1

 黒曜の指示を受けて、タンジェは迷わず盗賊ギルドへ向かった。すでに侵略してきた悪魔の破壊活動があったらしく、通りに家の瓦礫が転がっている。火が立っているところもあった。もう事切れた人間の死体は、戦闘能力がない市民のものだろう。
 脳裏にペケニヨ村がよぎる。だが、一瞬のことだった。今のタンジェには、戦う力がある。抗う仲間がいる。
 大通りで、金の鎧を身に着けた男と複数の悪魔が交戦している。悪魔は一目でそれと分かった。淡い紫の肌に黒い軽鎧のようなもので武装している。いびつな羽と先の尖った尻尾がが生えているのが分かりやすい。
 それほど劣勢には見えなかったが、不意打ちするに越したことはない。悪魔の頭を斧で叩き割った。
「がっ!」
 くぐもった声を上げて、血しぶきが上がる。悪魔の血は青いと初めて知った。ラヒズの血はどうだっただろうか――以前、不意打ちでやつに一本傷を負わせたが、色までは暗くて見えなかった気がする。あるいは擬態のようなカモフラージュができるものだろうか?
「やるな! 負けてられん!」
 囲まれていた男が威勢よく言って、手にしていたレイピアで悪魔の目から脳天を貫いた。立派な鎧が返り血で汚れるのも厭わずレイピアを引き抜く。襲い掛かる悪魔の槍は身体を捻ることで回避した。
 男の金鎧には赤い血が付着していたし、それが男の切られた頬から流れている血によるものだというのも分かった。土埃にまみれてもなお、戦闘に沸く青い瞳は爛々としている。
「はっ、余裕あるな。余計な世話だったか?」
「助力というものはいつ、誰からでも嬉しいものよ!」
 明朗な声で笑った男は、
「我が名はブランカ! 名を聞こう、赤毛の斧使いよ」
「タンジェリンだ」
「タンジェ! ここは心配ない。先を急ぐのだろう?」
 俺はちら、と悪魔を見る。残りは3体。
 数の上では不利だ。放ってはおけない。タンジェが斧を構え直すと、突然、悪魔の1体の顔にスッと刃が通り、音もなく顔より上半分が落ちた。一拍遅れておびただしい量の血液が噴き出す。それに怯んだ悪魔にブランカのレイピアが2発、3発と突きを仕掛ける。頭の落ちた悪魔の裏から、ひらりと藤色の髪の男が現れた。
「ハツキ! 向こうはもう大丈夫か?」
「あちらにはアロゥがいるからな」
 パーティの仲間なのかもしれない。ハツキと呼ばれた男は左手を軽く振って刀についた青い血を払った。こちらも多少の怪我と土埃、そして返り血の汚れはあるが、切羽詰まった様子はない。
 狂乱して襲い掛かる悪魔の剣を、振る刀で受け止め打ち合う。ハツキに気を取られている悪魔の後頭部を斧で叩き割った。ブランカのレイピアも悪魔の胸を刺し貫いたところだ。
 悪魔が通りに青い染みを作っていく。死んだ、のだろうか? 屈んで死体を確認するが、起き上がってはこなかった。不死性はないのだろう。サナギの言う通り、天界ごと墜ちてきているということはなさそうだ。
「助かった。有難う」
 ハツキがわざわざ刀を鞘に戻して、左手でタンジェに握手を求める。タンジェは何気なく彼の右腕を見た。服の右袖が風にひらひらと揺れていて、彼の片腕がないことが知れた。
「元から欠損している、この戦いで落としたわけではない」
 タンジェの視線に気付いたらしく、ハツキは何てことはないように言った。それからタンジェの手を取って強引に握手してくる。
「しかし……この悪魔たちはなんなんだ?」
 ブランカの言葉に、タンジェは簡単に説明を返そうとした。だが、複雑な事情を要約して出力するなんていう高度な変換を、タンジェができるはずもない。最終的にタンジェは、
「悪魔どもの……大ボスがいるんだ。そいつが先導してるはずだ」
 続けて、
「ただ、どこにいるのかまでは分からねえ。今、俺のパーティのやつが悪魔どもをまとめて天界に還す方法を探ってる」
「そうか! それは良い情報だ」
 タンジェの言葉をしっかり最後まで聞き届け、ブランカは頷いた。そして死んだ悪魔を見下ろし、ぽつりと呟く。
「俺にとってはまだ、大した相手ではないが……ここに来るまでに半壊している冒険者パーティも見かけた。まともに対応できるパーティがベルベルントに何組あるか」
 このベルベルントには、もちろん黒曜一行より練度の高い熟練冒険者もいる。だが逆にゴブリン退治が精一杯の駆け出しもたくさんいるのだ。そいつらにプライドがあるならば、無辜の人々のため、ベルベルントのために武器を持って立ち上がるだろう。タンジェは苦い顔をした。
「ところで、貴殿もどこかへ移動中だっただろう、タンジェ」
「そうだったか。時間をとらせてすまないな」
 ハツキとブランカの言葉で我に返ったタンジェは、自分の目的を思い直す。
 盗賊ギルドで情報を得て、それをベルベルントの各地へ届ける。要するに、やることは伝達係だ。だが、ただの伝達係ではない。だってタンジェは斧を握り、悪魔の頭を割ることができるのだ。戦える。情報を届ける間に救える命がきっとある。タンジェは足を盗賊ギルドのほうに向けた。
「てめぇらも気をつけろよ!」
「ああ。平和になったらまた会おう!」
 ブランカとハツキは手を挙げて別れを告げる。そしてタンジェは盗賊ギルドに。2人は次の戦場へと。

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<<【ベルベルント防衛戦】

ベルベルント防衛戦 2

 <天界墜とし>だろうとサナギは呟いた。
 今まさにベルベルントを取り囲み、侵攻を進めている悪魔の量は、100や200ではきかないという話であった。星数えの夜会に出入りする情報通が駆け込んできて真っ青な顔で告げたことだ。
「<天界墜とし>でもなければ、そんな量の悪魔がまとめて召喚できるはずはない」
「成功、したってことなのか?」
「いや……。成功というには、悪魔の数が少なすぎる。本当に成功したならごっそり天界がこっちに来るんだよ。となれば悪魔の数はベルベルントを即刻陥落させるくらいの量いたっておかしくはない」
「……はっ。聞いても仕方ねえことだな」
 サナギに短絡的な答えを求めてしまったことを自覚して、タンジェは自嘲した。
「今俺たちがするべきなのは、あの侵略者どもを全員ぶちのめして、ベルベルントを守ること――それだけだ」
 長い間平和を保ってきたベルベルントには、こういった緊急時の指示系統はまともに定められていない。災害時の避難経路くらいは整っているはずだが、それを実際の危機時に使える者がどれだけいるかは疑問だ。人々は騎士団には従うだろうが、その騎士団の初動が遅れれば多くの死人が出るだろう。
 地響きのような音が時折聞こえてくる。地面が揺れる。
 すでに悪魔からの攻撃は始まっていた。
 たまたま星数えの夜会にいた数人の客と、親父さんと娘さんは戦う手段を持っていない。夜会にいるタンジェを含めた冒険者が、入り口と裏口を警戒している。
 だが、いつまでもこうしているつもりかというと、そうではない。
 一同はパーシィの帰りを待っていた。
 昨晩から「嫌な気配がする」と言って眠れない様相だったパーシィは、聖ミゼリカ教会の尖塔が攻撃を受けたとき真っ先に飛び出していった。止める間もない。だが、行き先が聖ミゼリカ教会であることは分かっていたので、状況が分かったら戻るようにとだけ大声で伝えた。それからここで待機している。パーシィに情報を持ち帰ってもらおうというわけだ。
「……」
 大急ぎで走ってきたのだろう、それから10分もすればパーシィは返ってきた。
「どうだった、聖ミゼリカ教会と通りのほうは……」
 親父さんが神妙な顔で尋ねる。
「避難が始まっていて、そこに悪魔の攻撃も重なってる。大騒ぎだ」
 パーシィは言った。
「しかし、ベルベルントは完全に悪魔の群れに囲まれている。ベルベルントを離れるのは無理だな……」
「そんなに大量の悪魔が取り囲むまで感知できなかったのかよ?」
 言ったあとすぐ、問い詰める形になってしまったことを自覚し、再度恥じる。
「悪い」
「いや、タンジェの言う通りだ。察知するべきだった」
 そうではない。パーシィの責任ではない。先のハンプティの件で、パーシィにだって感知できない危機はあると学んだばかりだ。だいたい、この数の軍勢が集まると知ったとて、パーシィ1人に何ができたというのか。
 これはかつてのサナギの責任――それも違う。これはラヒズと敵対し何度でも殺すタイミングと意思があって、にも関わらず毎回逃げられ野放しにしてきた、ほかならぬタンジェの責任なのだ。
 パーシィの表情からは特別、怒哀の感情は伺えない。ただひたすらに真剣な表情で、淡々と言った。
「聖ミゼリカ教会が避難所として開放されている。救護基地もそこだそうだ」
「最初に尖塔が破壊されてんだろ。避難所にして大丈夫なのかよ?」
 そこで初めて、パーシィは何とも言えない、呆れたような顔になった。
「……人々が、勝手に集まってしまったんだよ。破壊されてなお。侵略者が悪魔の軍勢だと知った者から聖ミゼリカ教会に駆け込み、そのまま大多数が集まってしまった。攻撃も始まっている今、そこから恐慌状態の人間を移動させるのは無理だ」
「その心理は分からんでもないよ。神にも縋りたかろう」
 人の信仰心を責めるのはやめなさい、と親父さんは穏やかに言った。
「うん。……俺はまた聖ミゼリカ教会に行くつもりだ。救護基地もそこだから、役に立てると思うし……」
「そうか……」
 黒曜は頷いた。
「それがいいだろう。パーティ単位にこだわる必要はない」
「親父、てめぇらも避難しとけ」
 アノニムが声をかけると、親父さんは頷いた。
「そうだな。ここは今は静かだが、いつまでも安全じゃない」
 娘さんにすぐに避難の準備を始めるように、それから、夜会に来ていた客も一緒に行くように指示を出した。青い顔の客たちが、それでも親父さんの冷静さに助けられ、荷物を整え始める。
「俺たちはどうする?」
 それにはサナギが真っ先に声を上げた。
「これが<天界墜とし>であるという前提の話だけど……<天界墜とし>は結局のところは大規模なトランスファー。つまり、召喚されたものは召喚主にしか還せない」
「……不死性がないことを祈って、1体ずつ殺していくしかねえか」
 タンジェが結論を焦ると、サナギは「それももちろん大事だけど」と言って続けた。
「この召喚術式は、そもそも過去の俺が書いたものだ。この写本に載っている術式がそのまま使われているとしたら、俺にも悪魔たちを天界へ送還できるかもしれない」
「本当か」
 黒曜の言葉に頷くサナギ。
「けど、ここから誤差やアレンジを想定して術式を完成させるのは時間がかかる。俺はここに残ろうと思う。参考資料なんかも加味すると俺の研究室が一番捗る」
 それから親父さんを向いて、
「構わない?」
「もちろん構わんよ。ただ、この夜会が攻撃を受けて崩れるときには、どうか逃げてくれよ」
「引き際は心得てるつもり」
 そこで、非戦闘員の避難準備が一応整った。娘さんが心配そうな顔で、
「アノニムはどうするの?」
「よければついてきてくれないか。ところどころで戦闘が始まっているから、いてくれたら心強い」
 パーシィが言うので、アノニムは黙ってパーシィの横に立った。頷いたパーシィが親父さんたち非戦闘員を避難所へと先導していく。サナギは黒曜と小声で何かを話し合い、すぐに研究室へと向かった。その背中を見て、
「緑玉、ここでサナギを護衛できるか」
「俺が……?」
 黒曜の言葉に、緑玉は一瞬だけ戸惑う様子を見せたが、最終的には頷いた。
「分かった。やるよ」
 その言葉に、黒曜も頷き返す。
「俺は何をすればいい、黒曜」
 パーティ単位で動く必要はない、とは言っていたが、一応リーダーの黒曜の指示を仰ぐべきだろう。
 黒曜はタンジェをまっすぐに見て、淀みなくこう言った。
「盗賊ギルドで情報収集しつつベルベルント各所の仲間たちに情報を逐次報告。随時悪魔との交戦があれば、勝利しろ」
 タンジェは口端を上げた。
「任せろ!」

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【盗賊ギルドの戦い】 >>

ベルベルント防衛戦 1

 ベルベルントの歴史を紐解くと、驚くほど争いと無縁であったことが分かる。
 ベルベルントの地下には今も現役の下水道が街中に張り巡らされているが、これは古代文明時代に造られたものだ。その古代文明が何らかの理由で滅びてからこっち、ベルベルントが戦争に巻き込まれたとか、あるいは戦勝国だのその逆だのになったとか、そういう記録はいっさいない。
 交易都市としてあらゆる人、物、事を内包するベルベルントは、世界に対して中立を保ってきた。
 世界のどの国にとっても交易の"要"。だから、"不可侵"。
 それが、この交易都市に約束された安全、の、はずだった。

 不躾な侵略者どもの宣戦布告は、聖ミゼリカ教会の尖塔の破壊をもって行われた。
 轟音を立てて地面に降り注ぐ信仰のシンボル。そこでようやく人々は、ベルベルントの壁の外から迫る悪魔の軍勢に気が付いたのだ。

 歴史が、変わろうとしていた。

 ベルベルントに軍はない。かろうじて騎士団がある程度で、それすら実戦にはさほど慣れぬ治安維持隊だ。
 だが、ベルベルント自身がその慈悲と寛容で得ていたものの中には、冒険と戦闘を生業とする多くの者たちがあった。
 冒険者。ベルベルント以外に行き場を失い、ベルベルントで居場所を見つけ、ベルベルントに生かされた者たち。

 タンジェリン・タンゴもそうだ。
 復讐を志し、冒険者を稼業に決め、訪れた交易都市ベルベルント。今のタンジェが帰る場所。
 この街を守り抜く。そのために戦うことに、一片の躊躇いもありはしない。

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NEMESIS 7

 サナギの家のリビングで円座になったタンジェたちに、サナギが写本の前文を読み上げてみせた。
「『長寿の生き物は地上にもいるが、私が求める<永遠>を持ったものはいない。<不老不死>の存在である天使を、天使のまま、地上に存在させることはできないか。堕天や天界追放では不死性が失われる。天界ごと地上に墜とすことで、天使を物質的な存在にしつつ不死性を保ったまま確保できるかもしれない』……」
 パーシィが青い顔をしている。震える唇から、ほとんど叫びに近い声が出た。
「……できるわけがないだろう!」
「落ち着け。事実『できなかった』……そうなんだろう?」
 黒曜の言葉にサナギが頷く。それから、サナギは<天界墜とし>の概要を告げた。
「この写本によれば、過去の俺は、天界をそっくりそのままこの地上にトランスファーしようとしていた。だが、ただでさえ召喚は難しい技術だ。そんな大規模なトランスファーを普通の理屈で起こすのは不可能だ。……そこで俺は、ヒトの『欲』に目を付けた」
「『欲』?」
「ヒトの『欲』には『重さがある』……過去の俺が立てた仮説だ」
 "欲に重さがある"……ピンとこない。タンジェが一同の顔を見渡したが、誰もが難しい顔で黙っている。顔色の悪いパーシィは思案に視線を泳がせていた。
「……その仮説は『正しい』のか? パーシィ」
 心当たりはないでもない、と、パーシィが掠れた声で答えた。
「そういう理屈を直接聞いたわけではないけれど、少なくとも堕天する際に俺に与えられた『罰』の中には、俺の翼を重くすることで縛る鎖があった」
「その重てえ鎖が、てめぇの『欲』だと?」
「……否定はできない」
 サナギは浅く頷いて続けた。
「その仮説を立てた俺は、ヒトの欲を『祈り』に乗せて天界へ送り込み、その『重さ』で天界を墜とす<天界墜とし>を思いついたんだ」
「……俺の聖なる力が『祈り』によって成されるように、良かれ悪しかれ祈りには力がある。それを過去のサナギが『重さ』だと表現することに違和感はない……」
 タンジェにはそれがどこまでパーシィに――ひいては天界に対して侮辱的なことなのか、正直なところ、よく分かってはいない。ただ、パーシィの反応を見れば、よほどのことらしいことが察せられた。
「だが、できなかった」
 改めて、黒曜が呟いた。「そうだ」とサナギは頷く。
「途方もない量の『欲』が、『祈り』が必要だった。少なくとも当時の聖ミゼリカ教徒の数では無理だった。そもそも、純然たる聖ミゼリカ教徒の祈りは、そこまで欲深いものでもない。検証するにも、物量が圧倒的に足りなかったんだよ」
「だから凍結した」
 サナギはまた頷いた。
「俺は協力者であるラヒズがのちにこの理論を悪用しないようにやつを封印した。170年前のことだそうだ……。当時はまだただの山でしかなかったエスパルタのある地方に……。……この論文を世に残したのは、あるいは検証のための物量が、未来の俺によって確保されることを想定していたのかな」
「協力者であるラヒズ……」
 緑玉が尋ねる。
「そもそもなんであんな悪魔を協力者に選んだの」
「彼は別の召喚主によってこの地上に召喚された悪魔だったようだ。出会ったのはたまたまだったけれど、俺は彼の悪魔の力を利用しようとしたらしい」
「悪魔の力?」
「<天界墜とし>は天使をこちらに持ってくるための方法に過ぎない。俺の目的は天使の『不死性』を手に入れること――その神秘の解明のため、俺はこちらに墜落した天使を解剖しようとしていたんだよ」
 パーシィが顔を歪める。そりゃあ気持ちのいい話ではないだろう。サナギはあくまで冷静な様子で淡々と続けた。
「もちろん抵抗されるだろう。その際に天使を押さえつける力が俺には必要だった」
「……無茶苦茶だ……!」
 傍から見てもとんでもない話だ。当事者ではないにせよ、元とはいえ天使ならば思うところはあるだろう。パーシィの意見は真っ当だ。
「その無茶苦茶を、今はラヒズがやろうとしているんでしょ」
 緑玉の言葉に、サナギは首を縦に振る。
「聖ミゼリカ教徒のみならず、独自の宗教を創立することで祈りの力を効率よく溜め、さらに移動カジノ・シャルマンを乗っ取ることで賭け事に興じる『欲』を効率的に回収する――やつの行動原理は、オーガ絡みのことを除けば確かに<天界墜とし>に帰結する。目的は本人が『悪魔の第二の故郷を作ること』だと言っていたね」
「実際のところ……ラヒズによる<天界墜とし>に、成功の見込みはあるのか?」
 結論を尋ねたのは黒曜だ。
 サナギは黙って、たっぷり10秒考えた。それから、
「やはり天界をまるごと墜とせるとは思えない。でも、兆しはある」
「兆し?」
「きみたちが出会ったもうひとりの悪魔――ハンプティのことだよ」
 タンジェはぎゅっと眉根を寄せた。タンジェのその顔を見て、サナギは噛み砕いて自身の仮説を説明する。
「ハンプティは『こちらに喚ぶだけ喚んで、あとは放置だ』と言っていたらしいね。喚んだのがラヒズだ、とも」
「ああ」
「ラヒズが仲間の悪魔を召喚儀式で呼ぶ理由はない。もしかしたら<天界墜とし>の試行段階で、予期せず墜ちてきたのがハンプティなのかも……」
 おい、と思わず声が出た。
「さすがに飛躍しすぎじゃねえか? <天界墜とし>はフシセイ? が……あー……」
 思いついたことはあるのだが、思考を言葉にするのはすこぶる苦手なのだ。タンジェはしばらく唸っていたが、サナギは黙ってタンジェの言葉を待っていた。やっとのことで、
「だからよ……<天界墜とし>は、死なねえ身体のまま天使をこっちに落っことして来るもんなんだろ? ハンプティはアノニムに殺されるのを嫌がって逃げたって話だったじゃねえか」
 じゃあハンプティは殴られたら死ぬんじゃねえのか、じゃあ不死性ねえじゃねえか、とタンジェが言うと、
「いいところに目を付けるね」
 と、サナギが応じた。
「そもそも天使や悪魔といった神性種族を100%の力を保ったままこちらへ召喚するのは不可能だ。何故かというと、こちらに召喚できたとしても、その神性を維持しているエネルギーがこちらの世界じゃ足りないからなんだ」
 続けて、
「こちらに召喚される段階で必ず天使や悪魔には『エネルギーの削ぎ落とし』が起こる。そうじゃなきゃこっちでまともに活動できないんだよ。だから通常の召喚でもダメなんだね。要するに、悪魔や天使の不死性は『天界』というフィールドによって維持されているというのが俺の仮説なんだ。<天界墜とし>は、『じゃあそのフィールドごと持ってくればこっちでもエネルギーを供給し続けられるよね』っていう理屈なんだよ」
「……」
 分かったような分からないような、と思いながら、サナギの話を聞いていたが、
「つまりラヒズが<天界墜とし>の試行段階でハンプティを墜としてきたとしても、天界そのものを持ってこれなきゃ普通の召喚と変わらないんだ」
 タンジェはゆっくりとサナギの言葉を噛み砕いて咀嚼し、理解に努める。えーと、たぶん、要するにハンプティは『エネルギーの削ぎ落とし』が起きた状態の悪魔なのだろう、ということだ。確かにハンプティ本人も、自身の弱体化の可能性を嘆いていた。
 一応の結論を出したというのに、サナギはまだ一人でぶつぶつ言っていて、
「……もちろん、俺の研究が不完全あるいは仮説が間違っていて<天界墜とし>では天界の住人の不死性を維持する効果はない可能性もある……もしくは発展途上である……それとも、タンジェの言うとおりそもそもハンプティは<天界墜とし>を経たわけではないのかな? まだ判断情報は足りないなあ……」
 目が完全に研究者のそれになってしまった。その真実が知りたい、とでも言い出しかねない様相だった。
「……やらねえよな? <天界墜とし>」
 念のため尋ねると、サナギは顔を上げてタンジェの顔を見た。丸くした目をぱちぱちと数回、瞬いてから、
「やるわけないよ!」
 思わず、といったように、破顔した。

 結局のところ、タンジェたちにラヒズの<天界墜とし>を止める手段は今のところはない。
 それが成功するのか、成功したらどうなってしまうのかも分からない。
 
 このときのタンジェは、まだ知る由もなかった。
 去りし老体のサナギ・シノニム・C19の生み出した背徳的な<業>――あるいは因果応報が、あんな形で自分たちに降りかかってこようとは。

【NEMESIS 了】
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一次創作小説、
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