- 2024.06.06
NEMESIS 7
- 2024.06.06
NEMESIS 6
- 2024.06.06
NEMESIS 5
- 2024.06.06
NEMESIS 4
- 2024.06.06
NEMESIS 3
NEMESIS 7
サナギの家のリビングで円座になったタンジェたちに、サナギが写本の前文を読み上げてみせた。
「『長寿の生き物は地上にもいるが、私が求める<永遠>を持ったものはいない。<不老不死>の存在である天使を、天使のまま、地上に存在させることはできないか。堕天や天界追放では不死性が失われる。天界ごと地上に墜とすことで、天使を物質的な存在にしつつ不死性を保ったまま確保できるかもしれない』……」
パーシィが青い顔をしている。震える唇から、ほとんど叫びに近い声が出た。
「……できるわけがないだろう!」
「落ち着け。事実『できなかった』……そうなんだろう?」
黒曜の言葉にサナギが頷く。それから、サナギは<天界墜とし>の概要を告げた。
「この写本によれば、過去の俺は、天界をそっくりそのままこの地上にトランスファーしようとしていた。だが、ただでさえ召喚は難しい技術だ。そんな大規模なトランスファーを普通の理屈で起こすのは不可能だ。……そこで俺は、ヒトの『欲』に目を付けた」
「『欲』?」
「ヒトの『欲』には『重さがある』……過去の俺が立てた仮説だ」
"欲に重さがある"……ピンとこない。タンジェが一同の顔を見渡したが、誰もが難しい顔で黙っている。顔色の悪いパーシィは思案に視線を泳がせていた。
「……その仮説は『正しい』のか? パーシィ」
心当たりはないでもない、と、パーシィが掠れた声で答えた。
「そういう理屈を直接聞いたわけではないけれど、少なくとも堕天する際に俺に与えられた『罰』の中には、俺の翼を重くすることで縛る鎖があった」
「その重てえ鎖が、てめぇの『欲』だと?」
「……否定はできない」
サナギは浅く頷いて続けた。
「その仮説を立てた俺は、ヒトの欲を『祈り』に乗せて天界へ送り込み、その『重さ』で天界を墜とす<天界墜とし>を思いついたんだ」
「……俺の聖なる力が『祈り』によって成されるように、良かれ悪しかれ祈りには力がある。それを過去のサナギが『重さ』だと表現することに違和感はない……」
タンジェにはそれがどこまでパーシィに――ひいては天界に対して侮辱的なことなのか、正直なところ、よく分かってはいない。ただ、パーシィの反応を見れば、よほどのことらしいことが察せられた。
「だが、できなかった」
改めて、黒曜が呟いた。「そうだ」とサナギは頷く。
「途方もない量の『欲』が、『祈り』が必要だった。少なくとも当時の聖ミゼリカ教徒の数では無理だった。そもそも、純然たる聖ミゼリカ教徒の祈りは、そこまで欲深いものでもない。検証するにも、物量が圧倒的に足りなかったんだよ」
「だから凍結した」
サナギはまた頷いた。
「俺は協力者であるラヒズがのちにこの理論を悪用しないようにやつを封印した。170年前のことだそうだ……。当時はまだただの山でしかなかったエスパルタのある地方に……。……この論文を世に残したのは、あるいは検証のための物量が、未来の俺によって確保されることを想定していたのかな」
「協力者であるラヒズ……」
緑玉が尋ねる。
「そもそもなんであんな悪魔を協力者に選んだの」
「彼は別の召喚主によってこの地上に召喚された悪魔だったようだ。出会ったのはたまたまだったけれど、俺は彼の悪魔の力を利用しようとしたらしい」
「悪魔の力?」
「<天界墜とし>は天使をこちらに持ってくるための方法に過ぎない。俺の目的は天使の『不死性』を手に入れること――その神秘の解明のため、俺はこちらに墜落した天使を解剖しようとしていたんだよ」
パーシィが顔を歪める。そりゃあ気持ちのいい話ではないだろう。サナギはあくまで冷静な様子で淡々と続けた。
「もちろん抵抗されるだろう。その際に天使を押さえつける力が俺には必要だった」
「……無茶苦茶だ……!」
傍から見てもとんでもない話だ。当事者ではないにせよ、元とはいえ天使ならば思うところはあるだろう。パーシィの意見は真っ当だ。
「その無茶苦茶を、今はラヒズがやろうとしているんでしょ」
緑玉の言葉に、サナギは首を縦に振る。
「聖ミゼリカ教徒のみならず、独自の宗教を創立することで祈りの力を効率よく溜め、さらに移動カジノ・シャルマンを乗っ取ることで賭け事に興じる『欲』を効率的に回収する――やつの行動原理は、オーガ絡みのことを除けば確かに<天界墜とし>に帰結する。目的は本人が『悪魔の第二の故郷を作ること』だと言っていたね」
「実際のところ……ラヒズによる<天界墜とし>に、成功の見込みはあるのか?」
結論を尋ねたのは黒曜だ。
サナギは黙って、たっぷり10秒考えた。それから、
「やはり天界をまるごと墜とせるとは思えない。でも、兆しはある」
「兆し?」
「きみたちが出会ったもうひとりの悪魔――ハンプティのことだよ」
タンジェはぎゅっと眉根を寄せた。タンジェのその顔を見て、サナギは噛み砕いて自身の仮説を説明する。
「ハンプティは『こちらに喚ぶだけ喚んで、あとは放置だ』と言っていたらしいね。喚んだのがラヒズだ、とも」
「ああ」
「ラヒズが仲間の悪魔を召喚儀式で呼ぶ理由はない。もしかしたら<天界墜とし>の試行段階で、予期せず墜ちてきたのがハンプティなのかも……」
おい、と思わず声が出た。
「さすがに飛躍しすぎじゃねえか? <天界墜とし>はフシセイ? が……あー……」
思いついたことはあるのだが、思考を言葉にするのはすこぶる苦手なのだ。タンジェはしばらく唸っていたが、サナギは黙ってタンジェの言葉を待っていた。やっとのことで、
「だからよ……<天界墜とし>は、死なねえ身体のまま天使をこっちに落っことして来るもんなんだろ? ハンプティはアノニムに殺されるのを嫌がって逃げたって話だったじゃねえか」
じゃあハンプティは殴られたら死ぬんじゃねえのか、じゃあ不死性ねえじゃねえか、とタンジェが言うと、
「いいところに目を付けるね」
と、サナギが応じた。
「そもそも天使や悪魔といった神性種族を100%の力を保ったままこちらへ召喚するのは不可能だ。何故かというと、こちらに召喚できたとしても、その神性を維持しているエネルギーがこちらの世界じゃ足りないからなんだ」
続けて、
「こちらに召喚される段階で必ず天使や悪魔には『エネルギーの削ぎ落とし』が起こる。そうじゃなきゃこっちでまともに活動できないんだよ。だから通常の召喚でもダメなんだね。要するに、悪魔や天使の不死性は『天界』というフィールドによって維持されているというのが俺の仮説なんだ。<天界墜とし>は、『じゃあそのフィールドごと持ってくればこっちでもエネルギーを供給し続けられるよね』っていう理屈なんだよ」
「……」
分かったような分からないような、と思いながら、サナギの話を聞いていたが、
「つまりラヒズが<天界墜とし>の試行段階でハンプティを墜としてきたとしても、天界そのものを持ってこれなきゃ普通の召喚と変わらないんだ」
タンジェはゆっくりとサナギの言葉を噛み砕いて咀嚼し、理解に努める。えーと、たぶん、要するにハンプティは『エネルギーの削ぎ落とし』が起きた状態の悪魔なのだろう、ということだ。確かにハンプティ本人も、自身の弱体化の可能性を嘆いていた。
一応の結論を出したというのに、サナギはまだ一人でぶつぶつ言っていて、
「……もちろん、俺の研究が不完全あるいは仮説が間違っていて<天界墜とし>では天界の住人の不死性を維持する効果はない可能性もある……もしくは発展途上である……それとも、タンジェの言うとおりそもそもハンプティは<天界墜とし>を経たわけではないのかな? まだ判断情報は足りないなあ……」
目が完全に研究者のそれになってしまった。その真実が知りたい、とでも言い出しかねない様相だった。
「……やらねえよな? <天界墜とし>」
念のため尋ねると、サナギは顔を上げてタンジェの顔を見た。丸くした目をぱちぱちと数回、瞬いてから、
「やるわけないよ!」
思わず、といったように、破顔した。
結局のところ、タンジェたちにラヒズの<天界墜とし>を止める手段は今のところはない。
それが成功するのか、成功したらどうなってしまうのかも分からない。
このときのタンジェは、まだ知る由もなかった。
去りし老体のサナギ・シノニム・C19の生み出した背徳的な<業>――あるいは因果応報が、あんな形で自分たちに降りかかってこようとは。
NEMESIS 6
禁書庫の扉を閉め、図書館内を駆け抜ける。
「図書館内を走るな!」
シルファニの声がして立ち止まる。
「背の高い片眼鏡の男が来なかったか!?」
「さっき退館したのを見たが」
「助かる!」
再度走り出したタンジェに再びシルファニの注意が飛んだが、今度は立ち止まらなかった。途中で親子とすれ違う。「マイラ、返事しなきゃ駄目じゃないの」「ごめんなさい、ママ」……無事に見つかって何よりだ!
図書館外に出ると、広場でたまたまサナギに出会った。
「やあ、バイト順調? ……じゃ、なさそうだね」
聞きたいことはあった。だが、どう説明しようと考えている間にも、ラヒズはどこかへ行ってしまう。タンジェはサナギをひっつかんで広場を駆け抜けた。――いた! ラヒズは白昼堂々、広場の隅にあるベンチで何かを読んでいた。
「うわ、ラヒズ!」
珍しくサナギが顔を歪める。
「何で彼がここに?」
「それも込みで、てめぇらに聞きてえことがあるんだよ!」
てめぇら? とサナギは自分の顔を指さして首を傾げた。
「え? 俺にも?」
「そうだ!」
タンジェはサナギをほとんど引き摺るようにして、ベンチに座るラヒズの目前まで来た。
「おや、お仕事はいいんですか?」
「どうせ間もなく昼休憩だ」
たぶん本当はよくないが、タンジェはそう吐き捨てた。モヤモヤした気持ちのままでは仕事に身が入らない。
「ラヒズ、てめぇが『返却した』本は……サナギの書いた本なのか?」
「へ?」
サナギが間抜けな声を上げる。ラヒズはくつくつと笑って、
「そうですよ。実は私も、恥ずかしながらあの本の著者を見て確信したんですよ……あなたがサナギくんだとね」
「……何の話?」
困惑した様子のサナギがタンジェとラヒズを交互に見る。俺にも分からねえ、と、タンジェは首を横に振った。だが、唯一分かることは、
「てめぇの本が悪用されそうになってんだ、そうに違いねえ」
「俺の本と言われてもな……」
本はいくつか出しているから何とも、とサナギは言った。
「そうですね、そろそろお話ししてもいいでしょうね。著者のご意見も聞きたいですし」
ラヒズは読んでいた本を閉じた。
「私の目的は端的に言えば『天界をこの世界に墜とすこと』です」
「は?」
素っ頓狂な声が出た。何を言っている?
「天界では悪魔というのはどうも肩身が狭くてね。ここに悪魔の居住地を持ってきて、第二の故郷を作ろうというわけですよ」
「何を言ってやがる……?」
眉根を寄せるタンジェの横で、サナギの表情がいつもの参謀のそれになる。目を細めて思案げになった彼は、
「ヤーラーダタ教団とやらをわざわざ立ち上げ、シャルマンを乗っ取ったのもそれに関係が?」
「さすがですねぇ! その通りです」
簡単に説明しますと、とラヒズは人差し指を立てた。
「ヒトの祈りや願いは欲望に起因します。ヒトの欲望には『重さ』がある。それに天界がまみれたなら、天界は重さに耐えきれず墜ちてくる」
そのための祈りであり、そのためのヤーラーダタ教団である。そして、賭け事は欲望そのもの。そのためのシャルマンの乗っ取りだと、ラヒズは言った。
「馬鹿な!」
サナギの声はほとんど叫ぶようだ。
「天界をヒトの欲で墜とすだって!? そんな規模のトランスファーが起こせるはずがない!!」
ラヒズが笑う。読んでいた本を閉じ、サナギに投げ渡す。
「最初に言い出したのは、あなたではないですか?」
サナギの手に渡った本を横目で見る。『<天界墜とし>についての研究』だった。
「あなたの研究論文の写本です。サナギ・シノニム……間違いなくあなたの著書ですよ」
「……」
サナギは絶句していた。2、3ページ開いて、ごくりと唾を飲んだサナギは、
「……書いた覚えがない。こんな危険なもの……」
小さな声で言った。
「あなたは気付いておられないようですが、あなたはホムンクルスとしての身体を代替わりさせるたび、いくつかの記憶を失っています」
サナギは顔を上げた。何かを言おうとして、だが何も言わなかった。
「以前お会いしてるんですよ? その研究論文の書かれた当時、私とあなたは友人だった。もう170年近く前になりますかね」
「……辻褄は合う」
写本に載るC19の文字をサナギの指がなぞる。
「5世代前の俺……」
今のサナギは、サナギ・シノニム・C24を名乗っている。つまりそれは……その番号は、サナギの。
「確かに、約500年におよぶ代替わりのすべてを今の俺が記憶しているとは思わない……」
サナギは独り言のように呟いた。
「何を納得してんだよ!? そもそも、なんでサナギがそんな研究に加担してたんだ!?」
「いえ、サナギくんが主体でやっていた研究に私が加担した形ですね」
サナギは黙ってぱらぱらと写本をめくっている。
「私とサナギくんは気の合う友人でしたが、<天界墜とし>を凍結したのち、サナギくんは私をペケニヨ村――当時は村さえありませんでしたが――の付近に封印しました。その封印が、170年の時を経て最近オーガの一族に解かれたのですよ」
「な……んだと……」
あの地にラヒズを封印したのがサナギ? タンジェはサナギを見た。いつもはおしゃべりなサナギが無言である。
「170年前の――C19のサナギくんは老人でした。私があなたを同一人物だと確信したのはつい最近、拝借したこの本の著者名を見てからです。どうもヒトの老若というものに適応できなくていかません」
「……」
「サナギくん。私は<天界墜とし>を成し遂げるつもりです。あなたにもそれをするだけの理由があった」
サナギは写本を閉じて顔を上げた。口を開く。
「俺が今も昔も求めているものは変わらない。『永遠の命』だ。記憶がなくても想像がつく。そういう方法を取ろうとする『俺』もいただろうって」
「何を言ってやがる。天界ってのはパーシィが元いたところだろ? それをこっちに落っことすことと永遠の命に何の関係があるんだよ!?」
サナギはタンジェのほうを見て何かを言おうとした。だがその前にラヒズが笑ってサナギにこう声をかけた。
「では、一緒にやりませんか?」
「やらないよ。今の俺は友人は選ぶタイプなんだ」
サナギは即答した。
本当にサナギにとっての最重要課題に解決の兆しが見えたなら、サナギが周囲の安全と天秤にかけ、どちらを優先するかまでは分からない。タンジェはサナギのことなんか何も知らないのだから。
ともあれ、普段なかなか見せない難しい顔こそしているが、今のところのサナギは、自分の欲のために周囲を危険に巻き込むことを是とはしないらしい。ラヒズは、残念です、と言った。
「まあ、その返事の想像はついていました。ですがサナギくん、あなたの組み立てた理論が正しいことは友人である私が証明してみせますよ」
「……」
サナギは無言を返した。ラヒズが立ち去ろうとする。追おうとするタンジェを、サナギが止めた。
「タンジェ! ……みんなにも話したいことがある」
「ここであいつを追うより大事なことか!?」
「武器もないのにこんな街中で無茶だ。午後のバイトは抜けてほしい」
確かに、それはそうだった。武器があっても軽くいなされる相手を、素手2人で取り押さえられるわけがない。それにサナギに聞きたいことは確かにあった。仕方なく、悠々と立ち去るラヒズの背中を見送る。
タンジェはシルファニに謝罪し、サナギの言葉に従って午後のバイトを抜けさせてほしい旨、告げた。それは別に構わないのが、と前置きしてから、シルファニはタンジェに、あれほど言い含めたのにも関わらず禁書庫内に勝手に入ったこと、それから図書館内をドタバタ走ったことについて説教し、それでも最後には40Gld、つまり半日バイトの満額をくれた。改めて謝罪と礼をして急いで引き上げる。サナギと2人で、彼の家に戻った。
NEMESIS 5
昼前にもなると、タンジェの手際もなかなかのものだった。たまたま配架のついでに例の禁書庫の前を通る。普通に通り過ぎようとして、立ち止まった。二度見する。禁書庫の扉が細く開いていた。
「あ……?」
ほんの僅かに、だが確かに。
シルファニのような司書が何らかの理由で入室しているのかもしれない。入るな、と言われた、そしてタンジェは頷いた。……気にはなるが、入る必要はない。
ブックトラックに配架の本がないか確認するため、禁書庫に背を向ける。すると、向かいの本棚の間からこんな声が聞こえてきた。
「マイラ! どこなの! マイラー!」
……女の声だ。静かな図書館で声を張り上げている。迷子らしい。
広い図書館だから、そういうこともあるかもしれない。だが、……タンジェは背後にある禁書庫を見た。細く開かれた扉。まさか……?
「マイラ、お願い、返事して! マイラ!」
子供が禁書庫に入り込んだ可能性に思い至る。――余計なお世話だ、司書たちに任せればいい。タンジェは与えられた自分の仕事だけすればいい。そう思ったのに、確認せずにはいられなかった。
禁書庫の細く開いた扉に手をかけ、静かに開ける。
「おい、誰かいるのか?」
声をかけた。
中にいた者が振り返る。薄暗闇の中で、扉から入ったこちら側の光に僅かに目を細めたのは――ラヒズだった。
「――は?」
目が合って、思わず声が出る。ラヒズは「おやおや」と言った。
「こんなところで会うとは奇遇ですねえ」
「何してんだてめぇ!」
こいつ、マジで俺たちを尾けてるんじゃねえのか、とタンジェが疑う程度には、本当に縁がある。もちろんさっさと切りたい縁だ。
だが、なんでラヒズがここにいるかはこの際どうでもいい。どうせ問い詰めてもたまたまとか言い出すだろう。問題はやつのいる場所だ。ここは呪いの本があるという禁書庫である。絶対にろくなことにならない!
「何、と言われましても。借りた本を返しに来ただけですよ」
「はっ。ここは禁書庫だぜ。正規の手続きは踏んでねえんだろ」
それはそうですね、と言いつつ、確かにラヒズの手は禁書庫の棚に添えられていて、今まさに本を返した、その言葉に矛盾はなさそうだった。
取り押さえたい。が、ここで取り押さえてどうする? 武器も持っていない。そもそも図書館の、おまけに禁書庫内で暴れるのも……。
逡巡し難しい顔をするタンジェに、
「まあ、今日は休戦といきませんか?」
ラヒズはにっこり笑った。
「……ちっ」
タンジェは禁書庫の扉から一歩離れた。
「どうも。それではまたあとで」
ラヒズは悠々と禁書庫から出て行った。タンジェは司書たちの姿が近くにないことを確認したあと、ラヒズが手を添えていた付近の本棚を確認した。ラヒズが"戻した"と主張した本は、いったいどれだ? もしかしたら、やつの目的の手がかりがあるかもしれない。
だが不穏な本のタイトルが並ぶばかりで、どれも怪しく見えるし、どれも関係ないようにも思える。諦めて仕事に戻ろうか、そう思ったタンジェの目に、タイトルではなく著者名が飛び込んできた。
――サナギ・シノニム・C19
タンジェの指が、その本の背をなぞる。タイトルへと向かう。
『<天界墜とし>についての研究』
NEMESIS 4
翌朝早くに目覚めたタンジェは、ランニングついでに美味そうな香りを漂わせていたパン屋でパンを買い、サナギの家に戻って朝食、それから大図書館へ向かった。約束の8時より少し早めに着いたが、すでにシルファニは図書館の入り口で待っていた。
「来たか。冒険者は時間にルーズだと思っていたが、お前はまだマシのようだな、タンゴ」
約束の10分前に来たというのにずいぶんな言われようだ。
タンジェはシルファニに連れられて大図書館の中へ入った。天井高くまで伸びた本棚にぎっしりと本が並んでいる。ただでさえ天井が高いのに、さらに上の階まであるようだった。とんでもない。
「開館は9時から。夜は21時まで」
「ずいぶん遅くまで開いてんだな」
「学者の多い街でな。あの手合いは夜型だ」
夜遅く朝も遅いサナギの顔を思い浮かべる。納得だ。
すれ違う職員らしき人々にタンジェのことを簡単に紹介しながら、シルファニはカウンターへ向かった。
「利用者はここに本を返却にくる。私たちはそれを返却処理したのち」
シルファニは移動式の本棚のようなものを指し示した。
「このブックトラックに本を載せていく。お前の仕事は、それを元の棚に戻すことだ」
「なるほどな」
簡単そうに思える。しかし、
「本が元々どの棚にあったかなんざ俺は知らねえぞ?」
「それは心配ない。この本の背を見ろ」
シルファニが差し出した本の背中に四角のシールが貼られている。シールは真ん中で二段になっていて、上には430という数字。下にはMの文字があった。
「ヨンヒャクサンジュウ?」
「ヨンサンゼロと読む。これはこの本の請求記号だ」
「請求記号?」
「図書館にある本にはすべてこの番号が振られている。これはこの本がどのような内容について書かれているのかを示すものだ。たとえばこれは錬金術の本で、著者はジミィ・モルダン。ちなみにこの図書館は共通十進分類を採用している」
タンジェの顔を見たシルファニが呆れた表情になる。よほど分からねえって顔をしていたのだろう。
「まあ、細かい分類を知る必要はない。要するに、数字とアルファベットの順に並べればいい」
それから実際に図書館の棚を指し示し、ここが0類の棚で、そうそう、0類というのは先ほどの請求記号の一番左の数字を表し――云々。
理屈にされると混乱するばかりだったが、実際に見てみるとなんとなく分かった。要するに、数字を割り振り、その順番通りに並べることで、似たような内容の本が同じ場所に集まるようになっているということだ。
数字とアルファベットの並べ方のルール、それからどの数字がどの棚にあるのかをシルファニから教わりながら図書館をぐるりと見てまわる。
その途中で、棚と棚の奥に扉を見つけた。シルファニは案内しようとしなかったので、関係ない場所なのだろうとは思ったが、念のため尋ねた。
「あそこは?」
「ああ、あそこは禁書庫だ」
「禁書庫?」
「外に持ち出せない本がある倉庫だ。換えが効かない貴重本や、呪いの類のかかった本など、様々な理由で表には出せない」
「そんなもんまで取っとくのか」
シルファニは何を当然、というような顔になった。
「あらゆる知は必ず保存され、未来永劫引き継がれなければなるまいよ。それはそうとして禁書庫には絶対に入るな。あの場所にある本は貸し出さないから返却もされん、お前には用のない場所だ。さっきも言ったとおり、呪いなんかがかかってる本もある」
「分かった」
厄介事に巻き込まれたくはない。タンジェは素直に頷いた。
それから図書館を一周したのち、練習と称して実際に何冊か配架をした。シルファニの確認も入りながらで時間はかかったが、開館の9時までにはなんとか様になった。配架がない時間帯は書架整理、要するに、利用者が読んだ本を戻すことで起こる請求記号の乱れを直す作業をしろ、とのことだ。
開館直後だから、まだブックトラックに配架の本はない。タンジェは近くの棚をうろうろして、数字が前後していたり、アルファベットがズレていたりする本を探してはそれを直していった。手が足りていないのか意外と請求記号の乱れが見つかる。
数十分もすれば、たちまち忙しくなった。タンジェは配架の本を抱えて図書館を歩き回る。案外本は重い、何より図書館が広い。シルファニが言うとおり、確かにこれは体力がいる仕事だ。
だが黙々とやれる。トレーニングにもなるかもしれない。タンジェは基本的に本に興味はないのだが、むしろだからこそ、こんな本があったのか、みたいな発見もある。「筋トレに効く! 筋肉ごはん」……若干気になりながら、タンジェはその本もあるべき場所に戻す。
NEMESIS 3
いっぱいになったゴミ袋を捨てる役に、タンジェが名乗り出た。そろそろ外の空気を吸いたかったからだ。
両手いっぱいのゴミを抱えながら指定のゴミ捨て場を探して少しさまよう。程なくゴミ捨て場は見つかり、身軽になった。そのまま帰ろうかと思ったが、不意に空を見上げると高い建物がすぐそこにあることに気付いた。例の図書館だ。
それで、何とはなしに横道を行くと、図書館前の広場に出た。
「……」
やはりデカい建物だ。案の定特別な感情は沸いてこなかったが、見上げるほどのこの建物いっぱいに本が詰まっていることを考えると少しだけめまいがした。タンジェは本なんかは読まないたちなのだが、本のみっしり詰まったこの建物が、この街の人々に慕われ、愛されているのだろうことを考えると、それはなんというか……うまく言えないが、なんだか途方もないことの気がした。
気を取り直し、ぶらぶらと広場をうろつくと、掲示板が立っている。いろいろな掲示物が貼ってあった。作家が来て講演会をするだとか、子供向けに絵本の読み聞かせをするだとかいう内容のものばかりだったが、その中にこんなチラシがあった。
――配架・書架整理アルバイト募集!
日給80Gld。誰でもできる簡単なお仕事です。
半日のみでもOK!
「ハイカ……ショカセイリ?」
聞いたことのない単語だが、整理、ということは、何かしらを整える作業なんだろうか。
「図書館に戻ってきた本を棚に戻す作業が配架、乱れた書架……要するに本棚を整理するのが書架整理だ」
突然横から声がして、けれど別にこんな街中で敵ということもなし、タンジェは顔だけそちらに向けた。
銀髪を肩で切り揃えた眼鏡の女がこちらを見ている。
「見たところ冒険者のようだが……冒険者ふぜいが図書館に興味なんかあるのかね?」
言い方にはカチンときたが、言ってることはもっともだ。
「図書館に興味はねえが……予定が早く終わって、時間を持て余しそうでな。日給80Gldはでけえな。半日なら40Gldか」
図書館内の整理整頓、つまり命の危険がないところでの作業で1日80Gld。悪くないどころか、かなりいい条件に見える。
「お前が思っているより体力の要る仕事だぞ?」
女は人を小馬鹿にしたように言った。負けじと、
「はっ、あいにくその体力を売る商売だ」
鼻で笑ってやると、女は口端を釣り上げた。
「なるほど。なら明日、1日やってみるか?」
「あ? てめぇ、図書館の関係者か?」
女は眼鏡をクイと上げた。
「図書館司書のシルファニだ。多少の人事に融通はきく」
なるほど、と俺は頷いた。
「俺はタンジェリン・タンゴだ。明日は何時から?」
「8時に来てくれ。お前は図書館を何も知らなさそうだ。一から説明してやろう」
それは少し面倒くさい気もしたが、今後の冒険者生活で図書館を利活用することもあるかもしれない。勉強になるだろう。タンジェは本人が自覚するよりはるかに勤勉なのである。その上、80Gldももらえるのなら損はない。タンジェは頷いた。
★・・・・
サナギの家に帰ると、サナギが茶とクッキーを用意して待っていた。黒曜とアノニムが不在で、2人は食材の買い出しに行ったとのことだった。
「なんだよ、言ってくれたら買い出しもゴミ捨てついでに行ってきたのによ」
「頼もうと思ったらもう出てっちゃってたからさ。追ってまで頼むことはないって黒曜が」
黒曜のことだ、タンジェの負担を考えたのかもしれない。別に買い出しくらいなんてことはないのだが。
「まあ、ゆっくりしなよ」
言いながらパーシィが茶を飲んでいる。それを用意したのは確実にてめぇじゃねえだろ、と思ったが、まあどこでも我が物顔なのはいつものパーシィだ。
「それはいいけどよ……その茶葉とクッキーはどっから出した?」
「ああ、心配しなくていいよ。これは俺がベルベルントから持ってきたものだから」
そういえば馬車で緑玉がクッキーを食べていた。あれとまとめて持ってきていたらしい。
「食器も念入りに洗ったし」
「そうか。それならいただくとすっか」
サナギが手渡してくれたタオルで手を拭き、クッキーをつまんでひとくち食べた。バターの香りがする。美味い。飲み込んでから、
「そうだ、ゴミ捨てついでに図書館を見てきたぜ」
「へえ! 興味があるとは思わなかったな」
俺が紹介したとき生返事だったじゃないか、とサナギはからから笑った。
「ついでだ、っつったろ。そんでバイトを募集してたから受けてきた」
「何のバイト?」
「本棚の整理だ。日給80Gldもらえるとよ」
「いいじゃないか。こっちの掃除はもう終わるし、思ったより早く済んだんでみんなには本格的に観光でもしてもらうつもりだったんだ」
別に予定より早く帰ってもいいんだけど、せっかく5日もかけて来たしね、とサナギは続けた。俺は頷く。
「宿代もタダだしな」
「そうそう、自分の家だと思ってくつろいでよ」
「ん……そういや結局、<魅了>に対抗できそうな研究はあったのか?」
もしかして掃除の合間に研究成果を見つけてやしないかと聞いてみると、
「全部見られたわけじゃないけど、今のところは空振りだね」
「そうか」
少し残念だが、まあ元からそこまでアテにしていたわけでもない。
言っている間に、黒曜とアノニムが帰ってきた。その量、いるか? というぐらいの食材を抱えている。しかし、パーシィに食器を洗わせ、それ以外の5人で適当に分担して料理を作ったら、あっという間に食材を使い切ってしまった。普段は親父さんや娘さんが作る料理や旅先で限りある食材を使った料理を食べているから、いざ腰を据えて自分たちで作って食べるとなったとき加減が効かないのだった。もちろん、大量の食材の分だけ山のような料理を作ったということなのだが……このメンバーに至って、それが残る心配をする必要もなかった。
味もよく、量も満足。もちろん食材にかかった費用を考えればかなりの贅沢なのだが、それを無駄にしないためにパーシィを料理に関わらせなかったのは功を奏した。野菜を洗うことすらさせていいか疑問だ。
それから一同は順番に湯を浴びて、綺麗にした部屋に横になって寝た。
さすがに布団は使い物にならなかったので処分したが、天井があって床があるだけで冒険者はぐっすり眠れる。