きっと失われぬもの 6
エスパルタの北部にある丘に、誰のものでもないオリーブの木が一本生えている。
そのオリーブの木に寄りかかり、黒曜が眠っていた。
小高い丘には冷えた風が吹く。日当たりはいいが、これでは風邪を引く。
「黒曜」
しゃがみこんで呼びかけると、黒曜の目元が震えて、すぐに開いた。
「タンジェリンか」
「こんなとこで寝たら風邪引くぞ」
「ん……」
黒曜は軽く伸びをして、座り直した。
「いい国だ。……来るのは二度目だが」
「ああ。そういやそうだったか。ま、あのときは観光なんざできなかったろ」
タンジェが復讐を志し、エスパルタを出るときのことだ。黒曜はある目的でエスパルタにいて、たまたまタンジェとともにベルベルントへ発った。当時はお互い初対面。思えばあのときからの付き合いか。
タンジェはトゥロンを差し出した。
「食えよ」
「最後の一つのようだが」
「構やしねえよ」
それでも黒曜が遠慮しようとするので、タンジェはトゥロンを半分に割った。片方を差し出すと、今度は黒曜は素直に受け取り、ぽり、と口に入れた。さっきまで、まるでまどろむようにゆらゆらしていたしっぽが、今は機嫌よさそうに立っている。風が二人の間を抜けていく。
黒曜に奴隷の立場からどう逃れたのか尋ねることを一瞬、考えて、やめた。そんなことを聞くのは悪趣味だ。きっとこれからも、知る機会がないままでいいことだ。
代わりにこう尋ねた。
「なんで止めた?」
「……」
「いや、責める気はねえ。最終的に、殺さないことを決めたのは俺だしな。ただ、どうしててめぇが俺の復讐を止める必要があった?」
「……」
黒曜はトゥロンをぽりぽりと食みながら、しばらく黙っていた。
やがて、
「夢の中で、加害者を、お前は迷わず殴りに行った」
一瞬、何を言われているのか分からず、タンジェは黙った。
少し思考を巡らせて、なるほどどうやらベルベルントに眠りの邪法がもたらされた、あの事件の際に、黒曜の夢の中に入ったことだと見当がついた。
あの夢の中でタンジェは、確かに当たりもしない拳を加害者にぶつけていた。
「……ああ。そりゃあ、ムカついたからな。結果的には殴れなかったが。それが、どうした?」
「お前の心は、悪辣な人間を殴るようにできている」
「ああ……?」
「何かを殺し、終わらせるようには、できていない」
黒曜は、タンジェに終わってほしくない、と言う。
そして、タンジェの斧は人を活かすためのものだと。
「……」
タンジェは息を吐いた。何となく、黒曜の言っていることが納得できてしまった。
情けない。復讐を志しておいて、結局タンジェの精神構造は、何かを殺して、のうのうと生きていくようにはできていないのだ。
「タンジェリン」
「ん?」
「決めたのか」
「……」
オーガへの復讐の話だ。
「……オーガどもが俺の村を襲ったのは、そもそも最初に俺の両親に雇われた冒険者がオーガを襲ったからなんだと」
タンジェの言葉は、たぶん唐突だったと思うが、黒曜は黙って聞いていた。
「両親がなんで冒険者を雇ったかってのは……成長した俺、オーガの子を、オーガたちが取り戻しに来るんじゃねえかと心配したかららしい」
「……」
「それでオーガをぶっ殺して、その復讐にオーガに村を襲われた。それで今度は俺がオーガに復讐……」
タンジェは晴れ渡った空を仰いだ。
「こんなのまるっきり逆恨みじゃねえか」
そして、本音が出た。
「萎えるぜ……」
コンシットを殺されたと、タンジェに反省を促すのだと息巻くトリカに、逆恨みだと文句を言えた義理ではない……というのが、何とも苦い気持ちになる。
「……火がぐずぐずにくすぶってるみてえな感じだ。俺はいつでもこの火を起こせるかもしれねえが、このままシケって火がつかなくなるかもしれねえとも思う」
「……」
「ただまあ、それは……持っとくぜ。心の中に、持っとく。逆恨みだろうがなんだろうが、親父やおふくろ、村の奴らを殺された事実は変わらねえ。そのことを忘れたくはねえからな」
黒曜は聞きながら、トゥロンを食んでいる。元よりこちらを向いてはいない。
タンジェは気にせず続けた。
「ただ、今はよ……時間をくれたみんなや、俺に『終わるな』っつう、黒曜に免じてやろうと思う。俺の斧は、人を活かすためのものなんだからな」
その言葉をくれたとうの黒曜は、ごく淡白に答えた。
「そうだな」
反応の薄さに、タンジェのほうに照れがくる。
数瞬の沈黙。
「戦闘訓練は、もう、不要か?」
タンジェはぱちぱちと数回目を瞬いてから、は、と笑った。
「いいや。まだ、もがくぜ」
それから、先の照れを振り払うように、
「未来のことは分からねえが、少しでも、理想になりてえからな」
「理想?」
タンジェの理想。
黒曜のように、というのは、たぶん違う。黒曜のことは尊敬しているし憧れも羨む気持ちもあるが、タンジェはきっと、黒曜のようにはなれないし、ならない。
黒曜だってそんなこと望んじゃいない。黒曜はタンジェがオーガを殺すのを止めたのだ。ラヒズを殺すのも引き受けた。タンジェが、終わってしまわないように。
だからタンジェは、こう答えた。
「ムカつく奴をぶん殴れるように」
黒曜はしばし黙り、やがて浅く頷いた。
「そうだな。殺意の瞬発力は、己の実力で決まる」
澄ました顔で言う。悪夢の中で平気で人のいる屋敷に火を放った黒曜だ。説得力が違う。
ともあれ同意は嬉しかった。
「黒曜、てめぇがいてくれりゃ、俺はどこまでも強くなれると思ってる。戦闘訓練も引き続き頼むぜ」
「……」
黒曜は特に、何も言わなかった。その無言が否定的なニュアンスでないことはなんとなく分かったので、タンジェは気にしなかった。
二人の間に沈黙が流れる。タンジェは食べ損ねた半分のトゥロンを口に入れて咀嚼した。
「黒曜、……ありがとよ」
いろいろな意味を込めた、感謝の言葉だった。続けて、
「てめぇがいてくれりゃ、俺はどこまでも強くなれると思ってるんだ」
黒曜は特に、何も言わなかった。その無言が否定的なニュアンスでないことはなんとなく分かったので、タンジェは気にしなかった。
きっと失われぬもの 5
通りをさらに北に行くと、今度はサナギと出会った。聖誕祭の飾りつけの赤と緑はサナギによく似合って、背景に溶け込んでいきそうだった。それでも金髪にほど近い黄緑の髪は目立っていたが。
「さっき緑玉にも会ったよ」
サナギは丸いチョコレート菓子をつまみながら、広場で聖歌隊がコーラスするのを流し聴いていた。さっきっていつだ。さっきの緑玉ならタンジェといたし、それより前のさっきならアノニムと会話していた。……マイペースなサナギには、数時間前でも"さっき"なのだろう。
「緑玉は、聖歌はお気に召さなかったみたい」
「そうかよ」
出入り自由で場所が広場ということもあって、コーラスをBGMに歓談をしている者も多い。そういうことなら、多少サナギと会話をしても許されるだろう。タンジェは設置されたベンチに腰かけた。
「食うか?」
残り少なくなったトゥロンを差し出す。
「おいしそう。なにこれ?」
「トゥロン。アーモンドとかはちみつでできた菓子」
「ありがとう。いただくよ」
サナギはトゥロンをひょいと摘まんで、そのまま小さな口へ持っていった。ポリポリと音を立てて食べている間に、袋に入ったチョコレート菓子をタンジェに差し出してくる。代わりに一つやる、といったところだろうか。遠慮なくもらった。
少し甘みの強いチョコレートでも、やはり故郷で食べるものはいい。
「おいしいねえ」
サナギがしみじみと言うので、タンジェはにわかに機嫌をよくした。故郷の飯を褒められて悪い気になるやつはいないだろう。
「タンジェはさ。自分がオーガだって知って、どういう感じなの?」
一瞬で機嫌が瓦解した。
「てめぇ……それ、よく聞けるよな」
「俺が聞かないと、誰も聞かないでしょ」
誰も聞かなかったらタンジェはずっと言わないでしょ、とサナギ。
「言う必要、あるのかよ?」
「あるよ。だからヒトには言葉がある」
当たり前のような口ぶりで言った。
「ヒトか」
「うん」
「オーガ……だっただろうが」
サナギは笑った。
「だったら俺もホムンクルスだよ」
「じゃあ、てめぇもヒトじゃねえじゃねえか」
「ヒトでなくても、きっと、心を伝え合うために言葉を交わすんだと、俺は思うよ」
タンジェは叔父を名乗るオーガと会話が"できてしまった"自分のことを考える。自分が人間に育てられ、共通語を母語とし、にも関わらず同じ種族のオーガの言語を解してしまったのは、心を伝え合うためだったのだろうか?
ただ、サナギはそんなことを議論したいわけではないだろう。タンジェは大人しくサナギの質問に答えようとした。
「悲しいとか……つらいとかは、思ったより、ねえな」
「うん」
「悔しい、が、いちばん近え気がする」
「うん」
サナギはいちいち相槌を打って聞いている。言っている間に、なんとなく、自分の中で気持ちが整理されていくような気がした。
「自分が何も知らなかったってのが……。それに、それを知らされたのが、あのクソ野郎の手のひらの上でってのもムカつく」
「ラヒズに復讐したい?」
タンジェは言葉を止め、サナギを見た。
復讐、という言葉に、奮い立つものがないかと言われると、そんなことはない。タンジェは復讐を志して壊滅したペケニヨ村を背にし、今までがむしゃらに走ってきたのだ。
復讐という名の薪を心の臓に放り込めたのならば、またこの胸は燃え上がるだろうか?
けれど、あのとき黒曜の止めた斧刃を、自分は再び、憎悪で振り上げるべきなのだろうか?
黙ってしまったタンジェに、サナギはちょっとだけ目を細め、
「そういえばさ。タンジェ、気付いてた? オーガに斧を向けてたときのタンジェ、共通語を話してなかったよ」
そんなふうに軽く話を変えた。変えた先もあまり面白くはない――オーガの――話題なので、少しげんなりしたものの、
「あ?」
ちゃんと顔を上げてサナギのほうを見た。
タンジェはもちろんオーガの言語を学んだことはない。
オーガの血のため聞き取れただけだと思ったが、タンジェの発話まで、無意識にオーガの言葉になっていたということらしい。
「オーガの言語なのかな? だから俺には聞き取れなかったけど……でも、タンジェがオーガの言語を操れることや、オーガの姿に変じたことを考えると、あの洞窟にいたオーガがタンジェの肉親だったのだろうことは想像がつく」
「……」
図星である。
「だから黒曜も止めたんだと思うよ」
「……」
そうなのだろうか?
タンジェに肉親殺しをさせないために。
「俺の肉親は……」
タンジェは掠れた声で絞り出した。
「親父と、おふくろだ……」
「うん」
サナギは首を縦に振ってくれた。
「だからさ。たくさん、考えるといいと思う。きみがオーガだったとて、きみはヒトと同じ言葉を話し、ヒトと同じように考えることができるんだもの」
タンジェは静かに、頷いた。
きっと失われぬもの 4
アノニムと別れ、何とはなしに歩いていると、緑玉と出会った。
普段は特に会話もないお互いだが、エスパルタのことはタンジェが詳しいと見たのか、
「大きい建物の横で肉が振る舞われてたけど、あれ何?」
ああ、とタンジェは言った。さっきの試合で殺された闘牛が肉になって振る舞われていたのだろう。
「食ったのか?」
「食べてない。正体不明の肉、食べるわけない」
それはそうだ。もともと緑玉は神経質で警戒心が強いからして。
「あれは、負けた側の肉だ」
言ったあとに、かなり説明不足だったと気づいた。
「……負けた側?」
「ああ、そのでけぇ建物は闘技場で、闘いがある。闘牛っつって、人が……」
「人肉なの?」
……人間の剣闘士同士の闘いだと思ったのだろう。
人間嫌いの動物好きである緑玉にとっては、そのほうがよかったのかもしれない。
いや、でも人肉だと誤解させたままなのは問題だろう。エスパルタがそういう国なのだと思われてしまう。
「いや、片方は牛だ」
「人間と牛が闘うってこと?」
案の定、緑玉の綺麗な顔が歪んだ。
「そうだ。負けた牛の肉が出る」
別に嘘をつく理由はなかったので、素直に答える。
「ふうん……」
緑玉は動物好きだが……ノワケの肉は食った。闘牛の肉はどうなのだろう。
「何が面白いの」
緑玉は冷めた声色でそう続けた。ああ、これは食わねえな、とタンジェはすぐに察した。
「アノニムはつまらねえってよ」
「タンジェリンも見て来たんでしょ」
「まあ……、見ては来たな」
緑玉にとっては面白くない話だろうが、タンジェは頷いた。闘牛を見たのは事実だし、タンジェは自分の意思でコロッセオに足を踏み入れた。
「別に面白がって見に行ったわけじゃねえよ」
と言いつつ、行った動機は『せっかくなので』。
緑玉はジトリとタンジェを睨んでいる。軽蔑だろうか。
まあ、ヒビが入るような友情は初めからないし、緑玉からの好感度が下がったとて、一がゼロになった程度の話だろう。
タンジェはもともと人に好かれるタイプではなく、好かれたいわけでもない。
少しの沈黙。
別のところをまた適当に回るか、と思っていると、「あのさ」と緑玉が言った。
「別に、復讐するしないはあんたの勝手だけど。早く決めて。俺、本当に今日、ベルベルントに戻りたかった」
正面から文句を言われた。タンジェとしては耳が痛い話だ。
それでほとんど反射的に、
「てめぇは人間に復讐しねえのか」
緑玉が一瞬、言葉に詰まり、
「なに? なんで?」
少しだけ動揺した。
それはそうだ。タンジェが緑玉の過去を、黒曜の夢を通してわずかに垣間見たことを、緑玉が知る由はない。
タンジェは、
「ベルベルント中が眠りについたとき、たまたま黒曜の夢の中に入って、だいたい見た。黒曜の過去の夢だった」
言ってしまったからには隠し立ては無駄だ。もともと嘘だの誤魔化しだの隠しごとだのに向いている性格でもない。
緑玉は「ふーん」と言って、またジトリとタンジェを睨んだ。これも軽蔑だろう。緑玉にとって黒曜は同郷の、それも慕う相手だ。
義兄の親友という立場……になるのか。
その過去の夢に部外者が勝手に入り込んで一部始終見てきたなんて話は、面白くはないだろう。
だが、『たまたま』の部分で情状酌量はしてくれたらしい。あの悪夢の事件でタンジェが解決の一端を担ったことも、その判断を後押ししたかもしれない。
「復讐は黒曜がやった。町を襲った人間も、黒曜を奴隷にしたやつらも、俺たちを奴隷にしたやつらも、関わった人間はもう誰も生きてない。俺がやることはもうない」
緑玉は少し、拗ねたように言った。
タンジェは少し顔を歪めた。
宝石眼の中には、稀少価値ゆえに生かされ奴隷にされた者もいたと黒曜が言っていた。
一時は逃れることができた黒曜たちもまた捕まり、奴隷生活を強いられた。
黒曜がどうやってそこから逃れたのかは、タンジェは知らない。
それだけではない。タンジェは、パーティの一同のことを何も知らない。
当たり前だ。知ろうとしてこなかった。
もともと他人に深く興味や関心を寄せる性格ではないのが大きい。パーティからの異動も考えていたし、メンバーの人となりを知ることにさほど意義を見出していなかった。
だが、タンジェは思う。
もっと仲間のことを知るべきだった。いろいろな人生を知ってさえいれば、様々な道の在りようも知れるのかもしれない……。
「緑玉」
「……なに?」
「てめぇにとっては、終わったことなのか」
少し黙ってから、緑玉は吐き捨てるように言った。
「終わりって、なに? 俺が人間を許したら終わる? じゃあ永遠に終わらない」
緑玉の視線はタンジェから外れている。そっぽを向いたままの緑玉は、
「……抱えてたっていいことないけど、捨てるのはもっと無理」
「……」
「でも……別に無理に終わらせることじゃない、こんなの」
「……」
そうか、とタンジェは言った。そうだな、と。
それから緑玉とタンジェの間に少しの沈黙が流れて……タンジェは何気なく、トゥロンを緑玉に渡した。
訝しげな顔をしていたが、一口食べたあと一瞬で平らげたので、口に合ったらしい。それから緑玉はタンジェに素っ気なく礼を言って立ち去ったし、タンジェはそれを追わなかった。
きっと失われぬもの 3
パーシィと別れてエスパルタの中央に行くと、巨大な闘技場がある。コロッセオだ。
世界的にも有名な施設で、闘技でももちろん名を馳せてはいるが、それよりはるかに知名度が高いのは『闘牛』だろう。
怒れる猛牛と生身の人間が闘う競技で、熱狂的なファンも多い。真っ赤な布を翻す闘牛士は憧れの的で、危険な職だが華がある。
残酷だからという理由で闘牛の廃止を求める団体もあるらしいが、エスパルタ側はどこ吹く風。今日も今日とて、コロッセオでは闘牛が開催され、凄まじい歓声を浴びている。
当日分のチケットは完売だそうで買えなかった。ただ、立ち見席は出入り自由らしいので、せっかくなので見ることにした。
立ち見席は無料だがとうの闘牛が遠くてよく見えないので、観光客には人気がない。雰囲気を楽しみたいやつ向けだ。
スリバチ状の闘技場の中央で、ムレータを踊るように操る闘牛士が、荒れ狂う猛牛をいなしている。一挙一動に盛り上がる観客。聖誕祭も重なっているからすごい人出だ。
ふと横を見ると、数人跨いだ先でアノニムが闘牛を眺めていた。
その必要はないだろうに、気付けばタンジェは、人混みを軽くかきわけてわざわざ隣まで行き声をかけていた。
「よう」
「あ?」
アノニムが振り返る。
「なんだてめぇか」
周囲のガヤが騒がしくてもアノニムの張りのある低音はよく聞こえた。
タンジェはほとんど無意識で、アノニムにトゥロンを差し出した。アノニムはタンジェを見たまま数秒ばかり黙る。いらねえか、と思ってトゥロンを下げようとしたところで、ひょいと摘まみ上げたアノニムはトゥロンを一口で頬張った。
「闘牛なんざ見に来てるとはな」
意外だったぜ、とタンジェが言うと、アノニムは別になんてことはなさそうに応じた。
「同業を見に来ただけだ。もっとも、俺は『元』だが」
「同業?」
「闘いを見世物にされてんだろ」
タンジェの肝が一瞬、冷えた。
アノニムが過去に見世物小屋にいて剣闘奴隷であったことは、彼にとって嫌な記憶なのではないかとタンジェは勝手に想像していて、だからなるべく触れないようにしているつもりだ。
タンジェが気遣っても、アノニムのほうはこうして平気で話題に乗せる。
アノニムに特段の悲壮や、闘牛に対する嫌悪らしいものは一貫して、ない。
視線は闘牛に向けたまま、
「あの牛、勝ったら生きられんのか」
タンジェは少し黙ったが、
「俺も詳しくはねえが、いずれは殺される」
知っていることをそのまま話した。
「闘牛士は牛に殺される以外で負けることはまずねえよ。闘牛は殺されて、バラされて観客に振る舞われる」
「そうか」
アノニムはあっさり頷いた。どういう感情でその事実を受け取ったのかは分からない。
続ける言葉も思い浮かばず、タンジェも闘牛に目を落とした。
槍が突き刺されて暴れ狂う闘牛を、闘牛士がかわすところだった。より熱を帯びる歓声。
ひどく騒がしい。アノニムはこんなものは聞き慣れているのだろうか。
「終わりだな」
まだ闘牛は死んでいなかったが、アノニムは最初の傷で見限ったらしかった。それだけ言って、立ち去っていく。
アノニムの後ろ姿を思わず追いかけたタンジェは、闘牛がトドメを刺される瞬間を見ることができなかった。
コロッセオから出る。
別に闘牛にも闘牛士にも感情移入はしていないし、するつもりもない。どちらも、あれが仕事だ。
けれども、何故かアノニムを無視してまで闘牛の結末を見届けたいとは思わなかった。
アノニムの歩幅は大きかったが、走り去ったわけでもなかったので、タンジェはほどなく追いつく。
追いついたところで別に話題はなく、しばし、二人でコロッセオから離れて歩いた。
――何してんだ、俺は。
目的も話題もなくアノニムにただついてきた自分に呆れ、適当な場所で解散するつもりでいると、
「初めて、剣闘を見る側になった」
アノニムがぽつりと言った。
タンジェは、何も反応することができなかった。
「つまんねえもんだな」
アノニムは、別に変わった表情はしていない。怒りも悲しみもない。ごくいつも通りの真顔だった。
それでもそう語るアノニムは、かつては、あの熱狂の『中』にいた。
「勝ち負けも。末路も。全部決まってんなら、戦う意味がねえ」
人には、実力とか、分相応というものがある。
希望を持つのは自由だが、実力がなければ、それは実情、『勝ち負けも末路も全部決まっている』ということなのだろう。彼にとっては。
「死んだら終わりだ」
アノニムは繰り返し、こう続けた。
「死ななきゃ、終わらねえ」
終わりという言葉を考えたとき、タンジェの脳裏に過ぎったのは、黒曜のことだった。黒曜が、命があったとて『終わっている』のだろうことが想起される。
終わりとは、何だろうか。
死は終わり。分かる。生命、あるいは心が死ねば、人は終わる。
自分には命がある。
心もあるはずだ。
ならば終わっていないのだ。
途方に暮れているけれど、それでも。
きっと失われぬもの 2
エスパルタの中央通りでは、聖誕祭の間、特別なマーケットが開かれていて、飲食物や土産物などが並んでいる。この時期にしか食べられないようなものもあって、観光に来た人々はみんな思い思いに飲み食いして、思い出にしていく。
タンジェは、聖誕祭に訪れた過去の自分が両親に何を買ってもらったか思い出そうとした。10年近く前の記憶だが、あまり物欲のない子供だった自覚がある。たぶん土産物や工芸品ではないだろう。食べ物だったのではないか……。
マーケットを眺めて歩いているとアーモンドの香ばしい香りがして、それでハッと思い出した。トゥロンである。ローストしたアーモンドやはちみつでできた菓子だ。昔のタンジェが両親に買ってもらって食べたのはこれに違いない。
思わず一袋買ってしまった。
マーケットでは食べ歩きしている者も多い。タンジェもトゥロンを食べながらマーケットを歩いた。そこまで甘いものを好んではいないが、なんとなく特別な菓子という気がして、美味く感じる。我ながら単純だ。
人混みの流れに逆らわず進んでいくと、聖ミゼリカ教会に行き当たる。
普通に開放されているようだったので入り口を何気なく見ると、パーシィがいた。小さな子供が親に手を引かれて立ち去るのを、笑顔で見送っている。
「何してんだ」
「やあタンジェ。なんだい、それ? 美味しそうだな」
あいさつもそこそこにトゥロンに食いつくパーシィ。仕方ないから一本くれてやった。
礼を言ってさっそく頬張りポリポリとアーモンドの食感を楽しんでいるパーシィに、
「こんなとこで何してんだ」
再度尋ねる。
「聖ミゼリカ教会前でこんなところとはよく言えたな」
言葉のわりにまったく気にした様子もなく、パーシィはからからと笑った。
「たまたま通りがかりに、転んで膝を擦りむいたという女の子がいてね。治療したのさ」
「そうかよ……」
余計なこととは分かりつつも、タンジェは続けて言った。
「ガキなんざ、怪我しながら生活するもんだろ。余計な世話じゃねえのか」
「そうだなあ、これから先、生きていくうえで負う全部の怪我に癒やしの奇跡を使っていくのは無理だしな」
あっさり頷いたパーシィは、トゥロンを飲み込んでパンパンと両手を軽く叩き、トゥロンにまぶされていた砂糖を落とした。
「でも、親御さんは安心していたよ。女の子も笑顔になった」
それでいいじゃないか、と。
「てめぇ……たまにちゃんと、天使っぽくなるよな。本当に天使なのかは知らねえけどよ」
「ま、まだ疑ってるのかい!? 失礼だな! ラヒズにもちゃんと警戒されていたろ!?」
それを根拠にするのはどうなんだとタンジェが呆れる。それからパーシィは急に真面目な顔になった。
「ラヒズといえば……天使もそうだが、悪魔には『格』があってね。あいつはかなり格が高そうだ」
「強いってことか?」
「そうなる。そして、悪魔としての才が高い」
「悪魔としての、才?」
復唱すると、パーシィは少し考えたあと、
「要するに、『悪魔っぽいことが上手い』ってことさ」
タンジェが経験した一連の出来事は、タンジェにとってはまるで地獄のようなものだった。悪魔や地獄なんてのは教科書の中の話だと思っていたが、確かに実在する悪魔に見せられた地獄……。怒りが先に来るかと思ったが、我ながら意外なことに、まずタンジェはげんなりした。
そんなタンジェの顔を見るにつけ、パーシィは、
「だからな、タンジェ。アドバイスをしておくけど……『悪魔の言葉は信じるな』」
「あ?」
タンジェは眉を寄せた。
「てめぇも見ただろ? ラヒズの言ってることに嘘はねえ。俺は……、……オーガだったじゃねえか」
言葉に少し詰まったが、最終的には自分で自分の姿を認めた。タンジェにとってはかなり覚悟のいる発言だったが、パーシィはまったく頓着せず、
「悪魔が嘘をついているってことじゃない。俺が言いたいのは、悪魔の思惑通りに動いては駄目だってことさ」
そう言った。
「ラヒズの思惑……何だよ? それって」
「悪魔が何を考えているかなんて知ったこっちゃないよ」
そっちから話を始めたくせに、最終的にはこれだ。だが、まずもって悪魔と天使なんてのは不仲なものだろう。タンジェはよく知らないまま、ほとんど確信をもってそう結論付けた。パーシィは続ける。
「ただ、意図的にきみの元気を無くそうとしてたのは分かる。あいつ、たぶん人を追い詰めるのが好きなんだよな。悪魔らしいよ」
それは……つまり。
「俺に、元気を出せってことか?」
パーシィはにっこり笑った。
プロフィール
一次創作小説、
「おやすみヴェルヴェルント」
の投稿用ブログです。
中世洋風のファンタジー。
登場人物は男キャラ多数。
冒険者一行の連作短編です。
このブログに掲載している小説はフィクションです。
実在する人物・組織・事件等とは一切関係ありません。
また、著作権はやまかしにあります。
このブログにある画像、文章の無断転載・AI学習はしないでください。