きっと失われぬもの 4
パーシィと別れてエスパルタの中央に行くと、巨大な闘技場がある。
このコロッセオは世界的にも有名だ。闘技でももちろん名を馳せているが、それよりはるかに世界に轟くのは、このコロッセオで行われる『闘牛』だろう。怒れる猛牛と生身の人間が闘う競技で、これには熱狂的なファンが多い。真っ赤な布を翻す闘牛士は憧れの的で、危険な職だが華がある。
残酷だからって理由で闘牛の廃止を求める団体もあるらしい。エスパルタ側はどこ吹く風、今日もコロッセオでは闘牛が行われている。
当日のチケットは買えなかったが、立ち見の自由席が空いてるそうで、久しぶりに見ることにした。
スリバチ状の闘技場の中央で、ムレータを踊るように操る闘牛士が、荒れ狂う猛牛をいなしている。一挙一動に盛り上がる観客。聖誕祭も重なっているから、いつもより観光客が多いのかもしれない。
ふと横を見ると、数人跨いだ先でアノニムが闘牛を眺めていた。
その必要はないだろうに、気付けば俺は、人混みを軽く掻き分けて声をかけていた。
「よう」
「あ?」
アノニムが振り返る。
「なんだてめぇか」
周囲のガヤが騒がしくても、アノニムの張りのある低音はよく聞こえる。
俺はアノニムにトゥロンを差し出した。ひょいと摘まみ上げて、アノニムは一口で頬張る。
「闘牛なんざ見に来てるとはな」
意外だったぜ、と俺が言うと、アノニムは不思議そうな顔をした。
「同業を見に来ただけだ。もっとも、俺は『元』だが」
「同業?」
「闘いを見世物にされてんだろ」
俺は一瞬、肝が冷えた。別にアノニムが恐ろしかったというわけではない。ただ、アノニムが過去に見世物小屋にいて剣闘奴隷であったことは、俺の中ではなるべく触れないようにしていた部分だった。嫌な記憶だろうと勝手に想像していた。
「あの牛、勝ったら生きられるのか」
アノニムは何気なく聞いたんだろう。俺は少し黙ったあと、
「俺も詳しくはねえが、いずれは殺される」
知っていることを正直に話した。
「闘牛士は殺される以外で負けることは滅多にねえよ。相手が牛ってだけの、そういう筋書きの舞台のようなもんだ。闘牛は殺されて、バラされて観客に振る舞われる」
「そうか」
アノニムはあっさりと頷いた。特に悲しそうでもなかったし、怒る様子もなかった。逆に俺のほうが、そんな淡白な様子のアノニムに対して動揺してしまう。
何も言えずに闘牛に目を落とすと、今まさに槍が突き刺されて、暴れ狂う闘牛を闘牛士がかわすところだった。より熱を帯びる歓声。ひどく騒がしい。アノニムはこんなものは聞き慣れているのだろうか。
「終わりだな」
まだ闘牛は死んでいなかったが、アノニムは最初の傷で見限ったらしかった。それだけ言って、立ち去っていく。アノニムの後ろ姿を見送った俺は、闘牛がトドメを刺される瞬間を見ることができなかった。
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