カンテラテンカ

堕天使の望郷 3

 ヒトの時間感覚に慣れない私にとって、わずか45分がどれほど長かったことか。天使でいた折には、二ヶ月も瞬く間だったというのに。
 腹からは聞いたことがない音が鳴り、私の口数も減った。よほどこの家から出て行こうかとも思ったが、かといって食事のとれる場所に心当たりはない。
 老婆はようやく、私の座るテーブルに料理を置いた。魚の頭が四方に整然と突き出たパイだった。
「……何だこれは?」
「スターゲイジーパイという料理ですよ」
 中央に星型の焼き色がついていて、見た目は愛らしい。
 老婆は私の前でパイを切り、小皿に取り分けてくれた。いい香りがする。初めて見る料理で戸惑いはあったが、香りがいいなら食べられるはずだ。
 用意されたナイフとフォークでその肉を食せば――
 ――これがこの世でもっとも美味なものだとすぐに知れた。
「美味だ!」
 私は老婆の顔を見て思いがけず大きな声を出した。
「そうですか」
 老婆は微笑み、
「貴方が運んでくれたニシンで作ったのですよ」
 とだけ告げた。
 私はそれを聞いて、変な気持ちになった。何の気持ちかは分からない。ただ、気分は悪くはなかった。
 私は無心でスターゲイジーパイを食べ切った。老婆は微笑んだまま私の様子を眺めていた。
「老婆よ、褒めてやろう。名は?」
「マリスと申します」
「私はパーシエル」
 聞き覚えは? と尋ねると、
「ありません」
 マリスは平気な顔で答えた。
「さあパーシエル、片付けをしますよ」
「ん? ……ん!?」
 立ち上がったマリスの背を見て、
「私がか!? 何故!?」
 尋ねると、マリスは振り返り、
「働かぬ者に与える寝床はありませんので」
 容赦なく言った。

 ヒトはこれを一宿一飯の恩、と呼ぶのだろう。確かに行くあてのない私にとって、腰を落ち着ける寝床は必要だった。
 マリスに従いながら慣れない皿洗いを始め、私は水を張ったタライに自分の顔が映ったことに気付いた。同時に、自身が青ざめたのも分かった。顔面に、刺青が施されている。
 口を模した醜悪な刺青だ。罪を彫られたのだ。
 天界に帰れれば消せるものだろうか?
 髪の色も目の色も、まるで血を吸ったかのようにくすみ、天使の頃の面影がない。
 水タライの中の自分と見つめ合ったまま固まっていても、マリスは特に私を急かすことなく湯を焚いたり寝床を整えたりした。ようやく私が皿を洗い終えると、マリスは湯に入るよう促した。そこで私はまた、自身の体中にも刺青があるのを見て、少なからず気落ちすることとなる。

 天界から堕とされた身であることが知れたら、私にとってそれ以上の汚名と屈辱はない。
 天使であることを秘匿しながら、なんとか天界へ戻る方法を探さねばならない。
 そして堕天を撤回させなくては。そのためには……。

 そのためには、どうしたらいい?

 それでも、夜は来る。ヒトには睡眠が要る。天使であった頃は想像もできなかった布団というものの存在、これがヒトの身にはあたたかいと、初めて知った。

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