星数えの夜会の戦い 2
サブリナは間髪入れずに、予備動作もなく鋭い蹴りを繰り出した。かろうじてトンファーでいなしたが、相当な威力であることが分かる。それだけで相当な熟練者だと知れた。
格闘術、より正確に言えば、蹴術がサブリナの武器のようだ。蹴りというのは拳での攻撃より単純に威力が高い。熟練者なら手数も多い。厄介かも。
蹴りにトンファーの構えを合わせて防御し、もう片手のトンファーで足を折ろうと試みる。体格で負けている以上、狙うのは武器。
だが叩き折る前にサブリナは素早く足を引き、踊るように回った。後ろ回し蹴りを防御する。しばし力が拮抗する。
「可愛い顔して意外と狡猾ね!」
サブリナが笑う。
「悪魔に狡猾とか言われたくない」
「いやん、アタシはラヒズたちとは一味違うわよ」
「何が違うの。悪魔でしょ」
ギリギリとサブリナの足に力が籠められていく。俺が少しでも気を抜けば、トンファーを突き抜けて蹴りが突き刺さるだろう。
「そもそもあんまり気が合わないのよね。今回は楽しそうだから手を貸してるけど」
「手を貸してる? でも、あんたも<天界墜とし>で落ちてきたんでしょ?」
サブリナは足にいっとう力を込めて俺を身体ごと跳ね飛ばすと、くるっと回ってハイヒールの踵を鳴らした。
「アタシは違うわよ。だいたい、あんな無茶な召喚術式で大量に墜とせるのなんて、せいぜい中級悪魔までよ」
「……」
「質を選べば量は減るし、量を選べば質は落ちるわ。分かるでしょ?」
重要なことを言われている気がする。サナギはそういうことは言っていなかったと思うけど、でもサブリナが言ってることはなんとなく分かる。
「じゃあ<天界墜とし>は、結局失敗してるの?」
「んーそうねえ。この街が陥落すれば成功だし、陥落しなければ失敗。そういうことじゃない?」
喋りながらもサブリナは足を止めてはいない。次々繰り出される蹴りとトンファーで叩き落とすけれど、俺の反応のほうが若干遅れている。
「もっとも、質を選ばなければ本当にいつまでも落ちてくるでしょうね。人間側はジリ貧ね」
のんびり話しているように見えるのに、サブリナは攻撃の手をいっさい緩めてはいない。会話に集中したら一瞬で流れをもっていかれる。
「アタシはあまり侵略とかには興味ないのよね。強いオトコと戦えるならそれでいいわ!」
カンッとハイヒールのカカトが鳴って、俺の頭部を狙うハイキック。俺は半歩下がってかわした。
「サナギを探してたんでしょ? サナギは強い男じゃないよ」
少なくとも物理的には。
「そっちはアタシの相棒の失敗のフォローよ。あの子、ほんとどこ行ったのかしらね」
それは知らない。
サブリナのハイヒールのカカトが俺の頬を掠る。蹴りだというのに鋭すぎるそれは、俺の頬に切り傷を与えた。
「……」
強いな……。勝てるビジョンが思い浮かばない。
どうしたものかな。もちろん、サナギは守り抜かなくちゃいけないけど。
サブリナが足を引く。最低限の動作で、最大の威力を発揮してくる。防御しようと構えたが、突如バン、と音がして、でもサブリナはそれより早く攻撃をやめて身体を半身に傾けていた。何らかの回避行動をとったのだと理解するのと、先ほどの音が銃声だと認識するのは同時だった。この場において、敵に対して発砲するやつなんか一人しか考えられない。
サナギだ。研究室の出入り口から紙束を抱えてサブリナに銃を向けている。
一瞬、思考が停止する。なんで出てきた!?
サブリナがあらまあ、という顔をして、でもすぐに体勢を立て直すと一直線にサナギに向かっていく。俺が守りに行く前に、勢いよく夜会の窓から転がり込んできたのはしなやかな黒い影。黒曜だ。サブリナの対応力はさすがで、突如として現れた黒曜に対しても冷静な彼は、黒曜に向かってキックを放った。
黒曜は青龍刀で受け止めると、サブリナの足を弾き迷わず一歩踏み込んで青龍刀を横薙ぎにした。
「行こう、緑玉!」
サナギは黒曜がサブリナを引き受けているうちに、あっという間に裏口から飛び出していった。
「ちょっとサナギ……!」
俺は慌ててサナギを追いかける。サナギなんて大して素早くない。難なく追いつき、並走する。
「どういうことなの!? どこに行く気!?」
「とりあえず……応戦本部、騎士団詰所! そこで続きを書く!」
それは、説明になってない。俺の顔を見て、サナギが、
「……もし夜会に悪魔が来て。その悪魔がきみの手に負えない強さ、あるいは数だったとき、黒曜が囮になって俺ときみを逃がす――そもそもそういうハナシだったんだよ」
「は?」
は?
「何それ、聞いてないんだけど」
「言ったら反対するでしょ」
「ふーん。……そう。俺に黙って全部決めてたんだね」
いつもそうだ。
俺はいつも蚊帳の外。ただそこにいるだけで、ほかで全部決まってく。
サナギは走りながら、俺に何とも言えない顔を向けていたけれど、それ以上のことは言わなかった。きっと何か言われても、今の俺には全部言い訳に聞こえたと思う。
星数えの夜会の戦い 1
サナギが自分の研究室に籠って2時間が経とうとしている。俺――緑玉――は今は誰もいない星数えの夜会の食堂で、バーカウンターに寄りかかっていた。
もしかしたら、タンジェリン辺りはしっかり立って入り口と裏口を見張れ、とか、言うかもしれないけれど。入り口を見張れば裏口が疎かになるし、その逆も然り。結局、この位置がどっちも見張れてちょうどいい。
もちろん警戒は解いていない。トンファーは握っているし、襲撃があれば対応できる。
実際のところ、この2時間で何体悪魔が来たかというと、ゼロだった。扉を閉めているから、わざわざ開けてまで入ってこないのだろう。
たぶん大通りのほうでは今も誰かが戦っているんだと思うけど、夜会は通りから大きく離れているから、わざわざここまで来る悪魔がいないのは分かる――普通だったら。ラヒズだってサナギが送還術式を書けるかもしれないことは知っているはずだ。ラヒズがサナギを放っておくはずはない。下っ端の悪魔にはそういうことが伝わっていないのだろうか。だとしたら指示系統の見直しをお勧めする。
サナギの研究室は静かすぎて、たまに様子を見に行こうか、と思う。でも集中している邪魔になってはいけないし、その間に襲撃が来たら……やっぱりできない。結局、ここでヤキモキしているしかない。
こうしていると、俺はいつも何もできずに突っ立っているだけだな、とか、考える。
――余計なことを考えているね。でも、それはきみが生きているという証だね。
不意に思い浮かぶ、しわがれた声。奴隷だったころ、俺は日常的に結構痛い目に遭っていた。そこの主は、俺で長く"愉しむ"ために、俺の怪我を老医者に治療させていた。その老医者のことは、男女の別すら覚えていない。けれど、老医者との時間は俺にとっては唯一、安らぎの時間だった。
……どうでもいいことだな、とは思うけれど。未だにあの言葉を思い出すってことは、結構、印象に残っているのかな。
そんなことを考えていると、人の気配がした。俺は入り口のほうを見る。悪魔だったら扉を蹴破ったりするもの? 俺は悪魔なんてラヒズしか見たことがないから分からない。あいつは普通に扉を開けてきそうだけど。
ガチャリ、と扉を開けて、誰かが入ってくる。俺はトンファーを構えた。
ずいぶん背が高い。俺より、黒曜より、アノニムより高いと思う。ハイヒールを履いていて、さらに大きく見えた。
ハイヒールってことは女性なのかと思ったが、ガタイがどう考えても男だ。顔は……化粧が濃くてどっちだか判断できない。どっちにしろ、知らない顔だ。
「あらやだ」
急な訪問者は頬に手を当てて声を上げた。声は男だ。口調は女。どっちなのか正直混乱しているけども、そんなことは些細なことだ。もっと重要なことはつまり――敵か、味方か?
お互いに一拍、沈黙。それから訪問者は、
「イケメンじゃないの!」
「……」
で、敵なの? 味方なの?
ここまでの情報じゃ分からない。冒険者と言われればそうも見えるし、悪魔と言われれば……ラヒズが悪魔だっていうぐらいなんだから、こういうのもいるのかもな、って感じだ。
「ボウヤ。ここって『星数えの夜会』で合ってるかしら?」
「……」
星数えの夜会を探している。ということは……。俺の脳内の天秤は敵側に傾く。
「応援に来たのよ。アタシの相棒がやられたって聞いて……」
相棒がやられて、応援? ということは、冒険者? 俺の脳内の天秤は味方側に……は、傾かない。一度疑いが出れば当然だ。
「……あんたの相棒が誰だか知らないけど。ここには誰も来てない」
俺は真実をそのまま伝えた。あらまあ、と、それでも訪問者は焦る様子はない。
「あの子ったら。場所を間違えたのかしら。困った子ねェ」
まあいいわ、と。
「緑の髪の美形……アナタがサナギちゃん?」
「……」
サナギを探してるってことは、そういうことなんだろう。悪魔で、敵。でも、サナギを探すのに教えられた特徴としてはそれは雑すぎるよね。やっぱり悪魔の指示系統には問題がありそうだ。
とにかく、そうと決まれば戦うだけだ。一歩踏み込む。頭部を狙うには位置が高すぎる。ボディを狙ってトンファーを突き出した。
訪問者はバックステップで難なく回避する。
「あら人違い? ごめんなさいね」
カツンとハイヒールが鳴る。
「それにアタシったら、自己紹介もまだじゃない。アタシの名前はサブリナ。悪魔よ」
サブリナと名乗った悪魔は続けた。
「さ、名乗りなさいな。戦いの前には必要よ」
こんなナリして、武人みたいなことを言う。
戦う前に名乗りを上げる? 馬鹿馬鹿しい。そんな儀式的なことに何の意味があるのか。
だいたい、サナギのことを知っているなら、きっと夜会のメンバーは把握しているだろう。今更俺が名乗ったところで……いや、もしかして、サナギのことしか聞いてないのか?
俺は構えたまま一瞬躊躇ったけれど、
「……緑玉」
結局名乗った。
「緑玉ちゃんね。楽しみましょ!」
花通りの戦い 4
人間相手だったら棍棒はきっと骨を粉々に砕き、肉をひしゃげさせただろう。しかし見た目はガキでもさすがは悪魔といったところか、ハンプティは勢いよくゴムまりみたいに跳ねて階段を転げ落ちてきただけで、意識も失ってはいなかった。
だがハンプティが階段を落ちている間、俺は迷わず娼婦の手からカミソリを叩き落とし、足を払って床に倒した。ハンプティが階段の下で顔を上げるまで実に十数秒、俺はあっという間に娼婦全員のカミソリを奪い遠くに捨て、突っ立つ娼婦を全員組み伏せていた。
「――やっ、てくれたね……!」
ハンプティが血反吐を吐いて心底、といった様子で苦い顔をする。
俺は自分が遠距離攻撃ができると今まで考えたこともなかった。見世物小屋では遠距離攻撃は嫌われていたし、俺も近接戦闘しかしたことがなかった。パーシィと行動するようになってからはなおのこと、遠距離攻撃は任せっぱなしだった。
「俺は……自分で自分の可能性を狭めていたんだな」
独り言ちた。
ハンプティはよろよろと立ち上がり、
「アルベーヌ! アノニムを取り押さえて!」
叫んだ。はっとした。やはりアルベーヌも<魅了>にかかって――
「え……?」
――いなかった。
アルベーヌはベルギアをようやくあやし終えたところだった。戸惑った様子のアルベーヌは、俺とハンプティの顔を交互に見て、それから数歩下がった。むしろ俺から離れるように。
「なんっ……で……効かないの!?」
駄々を捏ねるようにハンプティが怒鳴る。「そんなことを言われても」と、アルベーヌは遠慮がちに答えた。
「てめぇ、何か……まじないでも受けてるのか?」
「まじない……?」
アルベーヌは困惑した様子で答えた。
「あたしはそんなもの受けちゃいないよ。でも、ベルギアには、落ち着いてから<祝福>をしてもらったね……」
「<祝福>?」
「あんたの仲間のあの優男にさ」
パーシィのことだ。あいつ、あのあとベルギアに会っていたのか。
「何なんだ、<祝福>って」
「ミゼリカ教の儀式みたいなもんだよ。主に新生児にかけるもので、魔を払うって言われているんだ」
それなら、ずっとベルギアを抱きしめていたアルベーヌが無事な理由が分かる。
「しゅ……<祝福>……?」
ハンプティが呆然と呟いた。
「な……なんでそんなものを……? まさか、ボクの能力を警戒して……!?」
その言葉に、アルベーヌは何を言っているんだ、という顔を向けた。
「<祝福>は健やかな成長を願うおまじないだよ。我が子のように大事な娘から産まれた子なんだ。<祝福>してもらうのは当然のことだろう?」
分からないのだ。
悪魔のハンプティには、分からないのだ。
ヒトが抱く、ヒトに対するその感情が。俺ですら、少しは分かるというのに。
もはやこれ以上、戦いを長引かせる理由はなかった。俺はハンプティまで足早に近づく。ハンプティは俺に<魅了>を使ったかもしれない。だが、それが俺の身体のコントロールを、意識を奪うより先に、俺はハンプティの横に転がっていた棍棒を拾って、ハンプティの頭を叩き割っていた。
ハンプティの身体が靄に包まれて、徐々に縮んでいく。靄が晴れたとき、そこには、一匹のコウモリがいた。
これが――ハンプティの、本当の姿、か?
コウモリは動かない。死んでいる。
「や……やったのかい……?」
アルベーヌが尋ねる。俺は頷いた。
「ああ」
「よ、よかった……ああ、よかった……!」
アルベーヌがその場にへなへなとへたり込む。
「おい。これから教会に移動だ。そんなところで腰抜かしてんじゃねえ」
「……誰も傷つかずに済んだ。本当によかった……! でも、あの子にはなんだか、可哀想なことをしたね」
アルベーヌが床に落ちたコウモリに同情的な顔を向けるので、俺は呆れてしまった。
「娼婦たちを人質に取ったのを見ただろうが」
「何も知らないという感じだったじゃないか……。生まれ変わったら、今度は仲良くなりたいもんだね」
生まれ変わりなんざあるものか。死んだら終わりだ。
周りの娼婦たちが意識を取り戻して身を起こし始める。何が起きたか分からない、という様子の娼婦たちに説明を――するのは、アルベーヌに任せた。
アルベーヌに抱きしめられたベルギアは、さっきまでの泣き声はどこへやら、もう機嫌を直して笑っている。
エリゼリカの遺した誇りが、俺の守りたかったものが、<祝福>を受けて、笑っている。
花通りの戦い 3
「さあ、アノニム。動かないことだね。ここの女の人たちがどうなってもいいなら別だけど」
アルベーヌが不安そうにこちらを見る。俺はまた舌打ちした。
娼婦のうち、二人がカミソリを俺に向ける。残りはみんなカミソリを自分自身に当てたまま、だ。
「このままアノニムの首を掻っ切ろうねえ」
ハンプティが楽しそうに笑っている。意識のあるままの俺が成すすべなく娼婦どもに首を掻っ切られて死ぬのを見るのがお望みなんだろう。
どうする? 俺は考える。
もちろん、死んだら終わりだ。俺はここで終わるつもりはない。
ならば、娼婦を押しのけるか。それをすれば、押しのけた数人は怪我はするだろうが助かる。だが自身を人質にしている娼婦は即座に喉を掻っ切り死ぬだろう。そいつらは自分が死ぬという自覚すらなく終わってしまう。
天秤にかける。
俺が死んで終わること。これは名実ともに敗北だ。俺が死んだあとアルベーヌも殺されるだろう。ベルギアも。娼婦たちも。そう考えれば、俺がやることは一択に見えた。そのはずだ。少なくとも俺はそう生きてきたはずだった。
それでも、俺の選択で目の前で何も知らずに死んでいく娼婦がいることが、何故か我慢ならない。
何故か? 考えたとき、脳裏を過ぎったのがタンジェリンだったことは――きっと、さっき会ったからだと思いたい。
――後悔だけはごめんだ。後悔しながら生きるくらいなら、俺は俺が思う最善で死ぬことなんざ怖くねえ。
後悔。そんなもの、俺はしたことがない。するはずがない。俺は俺の戦いにおいて、常にタンジェリンの言うところの"最善"を尽くしてきた。それは何においても俺が生きること。戦って、生きて、それが続くこと。
俺は今、何を恐れている? 最善が分かっていて、何故動けない?
それは、戦って勝って俺が生きて、それから先のこと。顔見知りの娼婦たちのその未来を奪うこと。"生き抜くためにはそれ相応の戦いがあり、それに勝ったから命はここにある"。だが、これは娼婦たちにとって"それ相応の戦い"だろうか? 違うのだ。違うに決まっていた。
だからきっと俺は、この選択を誤ったら"後悔"する。
怖いんじゃない。それはきっと俺の誇りを脅かす。あの不退転の男と同じように。
俺の首にカミソリが迫る。もうほんの一歩で、俺は容易く終わってしまう。
――突然、それまで眠っていたベルギアが目覚め、泣いた。
別にそれ自体で状況が変わったということはない。ハンプティは驚きもしなかったし、娼婦たちのカミソリがよそを向くこともなかった。アルベーヌが慌てて「ああ、どうしたんだい、ベルギア。大丈夫、大丈夫だよ……」ゆっくりベルギアを揺すってあやす。
ベルギア。俺の幼馴染のエリゼリカが、命を賭して守ったもの。
ベルギアは、エリゼリカの"誇り"だ。
エリゼリカは死んだ。死者は終わる。終わったものは、生者に何も伝えはしない。だが、そこに"誇り"は遺るのだ。
エリゼリカの誇りを、俺が終わらせていいのか? いいわけがない。
俺が命を懸けるとき。
それは大事なものを守るためだと、俺は言った。
大事なものを守るために"武器を取る"。それで守り抜いて、ようやく、初めて命を懸けたと胸を張れる。
その気持ちは何も変わらない。ただ、俺にできる"最善"が、分からないだけで――。
いや。俺は自分が取った武器のことを考える。そうだ――"最善"は、ずっと俺の手の中にあった。
なんで俺は、こんなものを持って突っ立っているのか。
要するに、人質が殺される前にハンプティを殺せばいい。こんなにも簡単なことだった。
俺は手に持っていた棍棒を、ハンプティに向かってぶん投げた。
狙いは正確に。だが一瞬の時間もかけず。
――光に。
花通りの戦い 2
花通りについた。確かに娼婦たちが言っていたとおり様子がおかしい。人の気配はするが、騒ぎにもなっていなければ悪魔の侵攻した様子もない。
ひとまずアルベーヌが仕切る娼館の扉を開ける。娼婦が何人か突っ立っていた。
「何してやがる。さっさと――」
俺はすぐに違和感に気付き、足を止めた。娼婦たちの目は虚ろで、特になんの感情も浮かんでいない顔面は、まるで亡霊のようなさまだった。
これは――!
「アノニム!」
そこで奥の部屋から赤ん坊を抱えたアルベーヌが飛び出してきた。言わずもがな、娼館にいる赤ん坊なんざベルギア以外にいるわけがない。
「てめぇ、なんで逃げてねえんだ!」
駆け寄ってきたアルベーヌに怒鳴るように言うと、アルベーヌは、
「逃げようとしたさ! けど、他の子たちがずっとこの調子なんだよ!」
と、突っ立ったままの娼婦たちを指し示した。
「これは悪魔の<魅了>とやらだ。俺が何とかするからてめぇは先にベルギアを連れてミゼリカ教会へ行け」
間違いない。花通りのどこかにハンプティがいる。娼婦たちを<魅了>してここに留めているらしい。目的は分からねえ、本人に聞くしかねえ――そう思ったところで、その本人が現れた。
「来てくれたのは誰かなーっと! ……うげ、アノニムかぁ」
二階から跳ねるように降りてきたハンプティは、俺を見て苦い顔をした。
「あの坊ちゃんがどうかしたのかい?」
アルベーヌが不思議そうに首を傾げる。
「この状況下でのんびり娼館の二階にいるガキが普通なわけねえだろ」
外見に惑わされてはいけない。あのガキが何をしたのか忘れるわけがない。アルベーヌは少し青い顔になって「確かにそうだね」と頷いた。
俺は今朝方からの自分のことを振り返ってみて、パーシィの「おまじない」を受けていないことを自認する。やはりどうやらあれが<魅了>を跳ね返したらしいことは、サナギから聞いていた。
しかし、俺の動きが鈍る気配はない。そういやアルベーヌもいつも通りだ。
「てめぇ、大丈夫なのか?」
アルベーヌに尋ねると、
「な、何のこと……?」
不安そうな顔が返ってくる。やはり<魅了>されている様子はない。
ハンプティはニヤニヤしている。どういうつもりなのかは知らねえが、今のところ<魅了>がかかっていないなら好都合。この好都合が終わる前にケリをつける。
だが俺がハンプティに向かって駆け出そうとしたとき、ぼーっと突っ立っていた娼婦たちがいっせいに動き出し、俺の前に立ち塞がった。
娼婦たちを振り払うのは簡単だ。だが、数本骨を持っていく覚悟がいるだろう。そうなれば、<魅了>が解除されたあとに教会に連れて行くのも難しくなる。手加減なんてものを知らずに生きてきた俺には、娼婦たちを傷付けずに目の前からどかす手段は思いつかなかった。
「チッ……!」
「あんたら何してんだい! アノニムの邪魔をしちゃ駄目じゃないか!」
アルベーヌが必死に声をかけているが、
「無駄だ。<魅了>されてる。あのガキの言うことしか聞かねえ」
俺が言うと、アルベーヌは口を閉ざし、不安そうに腕の中のベルギアを抱き締めた。
先にベルギアと逃げろ、と言いたいが、道中の悪魔の量を考えるとそれも現実的じゃない。
いったんアルベーヌを守りながら教会に行くべきか? だがそうすると……
「逃げようなんて考えないことだね」
ハンプティが笑った。
「<魅了>中はこんなこともできるんだよ!」
娼婦たちの数人が、カミソリを取り出して自身の首筋に当てる。俺は舌打ちした。
ハンプティは少なくともここで強行突破できない誰かしらを待っていた。娼婦たちを人質にとって、その誰かしらを嬲り殺すために。
唯一意識があるアルベーヌは、俺の足枷だ。
「低級の悪魔って馬鹿だよねぇ! ヒトの街を侵略するなら、どう考えても有効なのは精神面を攻めることでしょ」
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