- 2024.01.31
きっと失われぬもの 7
- 2024.01.31
きっと失われぬもの 6
- 2024.01.31
きっと失われぬもの 5
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きっと失われぬもの 4
- 2024.01.31
きっと失われぬもの 3
きっと失われぬもの 7
エスパルタには、こんな伝説がある。
エスパルタの北部にある丘には、誰のものでもないオリーブの木が一本生えている。
そのオリーブは、何百年も昔からそこにあって、エスパルタの歴史を見守ってきた。
平和を象徴するそのオリーブのもとで結ばれた縁は、生涯切れることのない幸せな縁だという。
オリーブの木に寄りかかり、黒曜が眠っていた。
小高い丘には冷えた風が吹く。日当たりはいいが、これでは風邪を引く。
「黒曜」
しゃがみこんで呼びかけると、黒曜の目元が震えて、すぐに開いた。
「タンジェリンか」
「こんなとこで寝たら風邪引くぞ」
「ん……」
黒曜は軽く伸びをして、座り直した。
「いい国だ。……来るのは二度目だが」
「ああ。そういやそうだったか。ま、あのときは観光なんざできなかったろ」
タンジェが復讐を志し、エスパルタを出るときのことだ。黒曜はある目的でエスパルタにいて、たまたまタンジェとともにベルベルントへ発った。当時はお互い初対面。思えばあのときからの付き合いか。
タンジェはトゥロンを差し出した。
「食えよ」
「最後の一つのようだが」
「構やしねえよ」
それでも黒曜が遠慮しようとするので、タンジェはトゥロンを半分に割った。片方を差し出すと、今度は黒曜は素直に受け取り、ぽり、と口に入れた。さっきまで、まるでまどろむようにゆらゆらしていたしっぽが、今は機嫌よさそうに立っている。風が二人の間を抜けていく。
黒曜に奴隷の立場からどう逃れたのか尋ねることを一瞬、考えて、やめた。そんなことを聞くのは悪趣味だ。きっとこれからも、知る機会がないままでいいことだ。
「タンジェリン」
「ん?」
「決めたのか」
「……」
オーガへの復讐の話だ。
「……オーガどもが俺の村を襲ったのは、そもそも最初に俺の両親に雇われた冒険者がオーガを襲ったからなんだと」
タンジェの言葉は、たぶん唐突だったと思うが、黒曜は黙って聞いていた。
「両親がなんで冒険者を雇ったかってのは……成長した俺、オーガの子を、オーガたちが取り戻しに来るんじゃねえかと心配したかららしい」
「……」
「それでオーガをぶっ殺して、その復讐にオーガに村を襲われた。それで今度は俺がオーガに復讐……」
タンジェは晴れ渡った空を仰いだ。
「こんなのまるっきり逆恨みじゃねえか」
そして、本音が出た。
「萎えるぜ……」
コンシットを殺されたと、タンジェに反省を促すのだと息巻くトリカに、逆恨みだと文句を言えた義理ではない……というのが、何とも苦い気持ちになる。
「……火がぐずぐずにくすぶってるみてえな感じだ。俺はいつでもこの火を起こせるかもしれねえが、このままシケって火がつかなくなるかもしれねえとも思う」
「……」
「ただまあ、それは……持っとくぜ。心の中に、持っとく。逆恨みだろうがなんだろうが、親父やおふくろ、村の奴らを殺された事実は変わらねえ。そのことを忘れたくはねえからな」
黒曜は聞きながら、トゥロンを食んでいる。元よりこちらを向いてはいない。
タンジェは気にせず続けた。
「復讐に今すぐケリつけようって気持ちには、今はならねえ。けどよ、黒曜は言ってくれたよな。俺の斧は、人を活かすためのものだと。それも悪くねえなって……。復讐しようがしまいが、強さは腐らねえ。強くなってくうちに、落としどころも見つかるんじゃねえかってよ……」
そこで、ちらりと黒曜を見た。
「……さすがに甘い考えか?」
「いいんじゃないか」
黒曜はごく淡白に答えた。
「ま、ひとまず、ムカつくやつをぶちのめすためにも、もっと強くならねえとな」
「そうだな。殺意の瞬発力は、己の実力で決まる」
澄ました顔で言う。悪夢の中で平気で人間を嬲り殺していた黒曜だ。説得力が違う。
ともあれ同意は嬉しかった。
「黒曜、てめぇがいてくれりゃ、俺はどこまでも強くなれると思ってる。戦闘訓練も引き続き頼むぜ」
「……」
黒曜は特に、何も言わなかった。その無言が否定的なニュアンスでないことはなんとなく分かったので、タンジェは気にしなかった。
二人の間に沈黙が流れる。タンジェは食べ損ねた半分のトゥロンを口に入れて咀嚼した。アーモンドの歯応えを楽しんでいると、
「タンジェリン」
「あ?」
「好きだ」
トゥロンが喉に詰まった。
「ゲホッ! ゴホッ!」
「大丈夫か?」
「てめぇのほうこそ大丈夫か!? 急にどうした!?」
黒曜は無表情の中にも、どこか不思議そうなニュアンスのある顔でタンジェを見ている。
「急に、というわけじゃない。夢の中で聞いた言葉の返事をしようと思っていた」
「あ?」
「俺に好きだと言っただろう」
その言葉は……、夢が崩壊しかけていて、がらがらと世界が崩れる音がうるさくて、聞こえていなかったのでは? 現にタンジェのほうは黒曜の声が聞こえていなかったのだ。しかし黒曜は、
「聞かせる気はなかったか。だが、獣人の聴覚を侮ったな」
なるほど、とタンジェは思った。スペックの差というわけだ。今の姿でのタンジェの五感はヒト並みだ。それに比べて、黒曜は獣人。獣人は五感が鋭敏なものだし、そうなれば黒曜の耳はあの轟音の中でもタンジェの声を聞き取れた。
「うおおおおおおおお!!」
タンジェは自分がオーガになったときよりデカい声を上げて丘の上を転がった。純度の高い羞恥による。
「ぐわあああああああ!!」
「すまない、困らせるつもりはなかった」
「困ってるわけじゃねえ!!」
「そうか」
タンジェはしばらくもんどりうっていたが、草まみれになってようやく落ち着き、のろのろと顔を上げた。
タンジェの髪に付いた草をとって、黒曜がほんの少しだけ口角を上げて、僅かに目を細めて、笑う。
「葉がついている」
くそ、とタンジェは思った。なんつー顔で笑いやがる。ささやかで、淡くて、優しい笑顔だった。
こんな男に愛されたら幸せだろう。その幸せはタンジェのものらしい。なんてこった。
「黒曜……このオリーブの伝説、知ってたのか?」
「伝説?」
「この木のもとで結ばれた縁は、生涯切れることのない幸せな縁なんだとよ」
「なるほど。それに俺が頼ると思うか?」
黒曜がタンジェの手を握る。
「だが、いい伝説だ」
「……は、」
タンジェは笑った。
「俺だってそんな伝説に頼るような、ヤワな神経しちゃいねえよ」
だが、と。黒曜と同じく、
「……ああ。いい伝説だな」
頷いた。
言っている間に、黒曜に手を握られて見つめ合っているという事実に耐えられなくなってきた。タンジェは状況を誤魔化すように、
「し、しかし、まさか返事があるとはな……」
「タンジェリン」
タンジェの言葉に重ねるように、黒曜が言った。
「感謝している」
「あ? ……感謝?」
「夢の中で、加害者を、お前は迷わず殴りに行った」
「ああ。そりゃあ、ムカついたからな。結果的には殴れなかったが」
「結果は関係ない。干渉できなかったのだから。だが、礼を言いたいと思っていた」
よく分かんねえな、という顔を隠しもしないタンジェに、
「いい、気にするな」
黒曜はまた淡く微笑んだ。
「ありがとう、タンジェ」
「はっ! てめぇにまた何かあったら、相手が誰だろうがぶん殴ってやるよ。――黒曜」
崩壊を始めた世界で、タンジェは――あの言葉が露と消えても、目覚めた先の現実世界ですべて忘れていても、それでいい、と思った。
こんな感情は復讐の役には立たない。むしろたぶん、邪魔だと。
けれど、黒曜の過去とともに置いていったはずの、黒曜への憐憫も、苛立ちも、恋も、すべて黒曜は拾い上げて、ここに持ってきてくれた。
言葉は消えることはなかった。すべて忘れていることもなかった。
そしてタンジェは、それを心から、よかったと思った。
パーシィは彼なりに気遣ってくれる。
アノニムは戦う理由を示唆してくれる。
緑玉は終わりのない感情を肯定してくれる。
サナギは背中を押して鼓舞してくれる。
そして黒曜は、タンジェに愛を、伝えてくれる。
人を動かすのは、怒りや悲しみや憎しみだけじゃない。
楽しいとか嬉しいとか、幸せとか、愛とか。そういうものを動力にして、人は生きられる。
人じゃないタンジェも、人に育てられたから、人に愛されたから、きっとそうやって生きられる。
タンジェの身体に流れる血が、人ならざるものだったとしても、そんなものはきっと、タンジェの本質を変えたりはしない。
母の料理を食べ、父と共に木を切り、家族を愛し家族に愛され、ペケニヨ村の人びとと触れ合い支え合って生きてきたタンジェリン・タンゴが、血なんかでその在り方を、心を奪われ、失うなんてことは、ありはしないのだ。
きっと失われぬもの 6
通りをさらに北に行くと、今度はサナギと出会った。聖誕祭の飾りつけの赤と緑はサナギによく似合って、背景に溶け込んでいきそうだった。それでも金髪にほど近い黄緑の髪は目立っていたが。
「さっき緑玉にも会ったよ」
サナギは丸いチョコレート菓子をつまみながら、広場で聖歌隊がコーラスするのを流し聴いていた。さっきっていつだ。さっきの緑玉ならタンジェといたし、それより前のさっきならアノニムと会話していた。……マイペースなサナギには、数時間前でも"さっき"なのだろう。
「緑玉は、聖歌はお気に召さなかったみたい」
「そうかよ」
出入り自由で場所が広場ということもあって、コーラスをBGMに歓談をしている者も多い。そういうことなら、多少サナギと会話をしても許されるだろう。タンジェは設置されたベンチに腰かけた。
「食うか?」
残り少なくなったトゥロンを差し出す。
「おいしそう。なにこれ?」
「トゥロン。アーモンドとかはちみつでできた菓子」
「ありがとう。いただくよ」
サナギはトゥロンをひょいと摘まんで、そのまま小さな口へ持っていった。ポリポリと音を立てて食べている間に、袋に入ったチョコレート菓子をタンジェに差し出してくる。代わりに一つやる、といったところだろうか。遠慮なくもらった。
少し甘みの強いチョコレートでも、やはり故郷で食べるものはいい。
「おいしいねえ」
サナギがしみじみと言うので、タンジェはにわかに機嫌をよくした。故郷の飯を褒められて悪い気になるやつはいないだろう。
「タンジェはさ。自分がオーガだって知って、どういう感じなの?」
一瞬で機嫌が瓦解した。
「てめぇ……それ、よく聞けるよな」
「俺が聞かないと、誰も聞かないでしょ」
誰も聞かなかったらタンジェはずっと言わないでしょ、とサナギ。
「言う必要、あるのかよ?」
「あるよ。だからヒトには言葉がある」
当たり前のような口ぶりで言った。
「ヒトか」
「うん」
「オーガ……だっただろうが」
サナギは笑った。
「だったら俺もホムンクルスだよ」
「じゃあ、てめぇもヒトじゃねえじゃねえか」
「ヒトでなくても、きっと、心を伝え合うために言葉を交わすんだと、俺は思うよ」
タンジェは叔父を名乗るオーガと会話が"できてしまった"自分のことを考える。自分が人間に育てられ、共通語を母語とし、にも関わらず同じ種族のオーガの言語を解してしまったのは、心を伝え合うためだったのだろうか?
ただ、サナギはそんなことを議論したいわけではないだろう。タンジェは大人しくサナギの質問に答えようとした。
「悲しいとか……つらいとかは、思ったより、ねえな」
「うん」
「悔しい、が、いちばん近え気がする」
「うん」
サナギはいちいち相槌を打って聞いている。言っている間に、なんとなく、自分の中で気持ちが整理されていくような気がした。
「自分が何も知らなかったってのが……。それに、それを知らされたのが、あのクソ野郎の手のひらの上でってのもムカつく」
「ラヒズに復讐したい?」
サナギの言葉は唐突だった。タンジェは言葉を止め、サナギを見る。
「あいつは悪魔だ。きっと放っておけば被害は広がる。まあ、人類の敵だね。パーシィもひどく敵視しているし、倒すことになるよ。きっとヒトは悪魔には負けない。いつかラヒズは倒される。そのときに――」
サナギのほうからも、タンジェの顔を覗き込んだ。
「――その刃はきみがいい?」
「ああ」
ほとんど反射で頷いた。だが一拍置いたそのあとで、タンジェの心は変わらなかった。
「ヤツを倒すのは俺だ」
サナギはニコッと笑った。
「いい顔だよ、タンジェ。自分のプライドのため、人類悪への懲罰のため、戦うんだ。ただ、一つ訂正しよう――ヤツを倒すのは、俺『たち』さ。トドメは譲るけどね」
きっと失われぬもの 5
タンジェはコロッセオ前から立ち去った。次の目的地は、特に決めていない。ただ、ふらふら適当に歩いていたら、ばったり、さっき別れたばかりの緑玉と出会って、お互いに気まずいような微妙な顔になった。
「……」
「……」
沈黙が下りる。
「食べるのかと思った」
「あ?」
「闘牛? の肉……」
「ああ……」
なんか食う気が失せた、と、感じたことをそのまま言うと、「そう」とまったく興味のなさそうなトーンで短い返答があった。と思ったら、
「あのさ。……別に、復讐するしないはあんたの勝手だけど。早く決めて。俺、本当に今日、ベルベルントに戻りたかった」
正面から文句を言われた。タンジェとしては耳が痛い話だ。それでほとんど反射的に、
「てめぇは人間に復讐しねえのか」
緑玉が一瞬、言葉に詰まり、
「なに? なんで?」
少しだけ動揺したように言った。
それはそうだ。タンジェが緑玉の過去を、黒曜の夢を通してわずかに垣間見たことを、緑玉が知る由はない。タンジェは、
「ベルベルント中が眠りについたとき、たまたま黒曜の夢の中に入って、だいたい見た。黒曜の過去の夢だった」
言ってしまったからには隠し立ては無駄だ。もともと嘘だの誤魔化しだの隠しごとだのに向いている性格でもない。
緑玉は「ふーん」と言って、またジトリとタンジェを睨んだ。これも軽蔑だろう。緑玉にとって黒曜は同郷の、それも慕う相手だ。義兄の親友という立場……になるのか。その過去の夢に部外者が勝手に入り込んで一部始終見てきたなんて話は、面白くはないだろう。
だが、"たまたま"の部分で情状酌量はしてくれたらしい。あの悪夢の事件でタンジェが解決の一端を担ったことも、その判断を後押ししたかもしれない。
「復讐は黒曜がやった。町を襲った人間も、黒曜を奴隷にしたやつらも、俺たちを奴隷にしたやつらも、関わった人間は全員黒曜が殺した。俺がやることはもうない」
緑玉は少し、拗ねたように言った。
タンジェは少し顔を歪めた。黒曜、緑玉、翠玉は三人で逃げたはずで、だが次の瞬間にはもう、緑玉と翠玉と離れたたった一人の黒曜が、雨降る屋敷の前で人間を嬲り殺していた。緑玉と翠玉を助けたらあとは屋敷に火をつけて……。黒曜は、別々の場所で奴隷にされていたと言っていて、黒曜がどうやってそこから逃れたのかは、タンジェは知らない。
だいたい、聞くようなことではない。タンジェがその間のことを知る日はたぶん来ないだろう。
タンジェは、パーティの一同のことを何も知らない。当たり前だ。知ろうとしてこなかった。
もともと他人に深く興味や関心を寄せる性格ではないのが大きい。パーティからの異動も考えていたし、メンバーの人となりを知ることに意義を見出していなかった。
だが、タンジェは思う。もっと仲間のことを知るべきだった。いろいろな人生を知ってさえいれば、様々な道の在りようも知れるのかもしれない……。
「緑玉」
「……なに? 今日はやけに絡むね……」
「てめぇにとっては、終わったことなのか」
少し黙ってから、緑玉は吐き捨てるように言った。
「終わりって、なに? 俺が人間を許したら終わる? じゃあ永遠に終わらない」
緑玉の視線はタンジェから外れている。そっぽを向いたままの緑玉は、
「……抱えてたっていいことないけど、捨てるのはもっと無理」
「……」
「でも……別に無理に終わらせることじゃない、こんなの」
「……」
そうか、とタンジェは言った。そうだな、と。
それから緑玉とタンジェの間に少しの沈黙が流れて……タンジェは何気なく、トゥロンを緑玉に渡した。
訝しげな顔をしていたが、一口食べたあと一瞬で平らげたので、口に合ったらしい。それから緑玉はタンジェに素っ気なく礼を言って立ち去ったし、タンジェは今度はそれを追わなかった。
きっと失われぬもの 4
コロッセオから出る。
興奮冷めやらぬ観客が、やれ闘牛のここが素晴らしいだの、美しいだの、熱心に語り合っているのが聞こえる。タンジェはというと、努めて冷静なふりをしている。別に闘牛にも闘牛士にも感情移入はしていないし、するつもりもない。どちらも、あれが仕事だ。
しばらく待てば殺された闘牛の肉が出るだろうが、アノニムの姿を思い出すとなんとなく食う気が失せた。
「肉が出るの?」
まるでタンジェの脳内を読んだかのようなタイミングと内容の声がかけられた。驚いて振り向くと、緑玉が立っている。
さっきの試合で殺された闘牛が肉になることは間違いない。タンジェの脳内を読んだのではなく、周囲の観客たちが話しているのを中途半端に聞いたのだろう。だが、人間嫌いで動物好きの緑玉が闘牛士に殺された闘牛の肉を喜んで食うわけはないとタンジェにだって分かる。
どう説明したものかとタンジェが若干、面倒に思っていると、いつの間にか横にいたアノニムが、
「敗者の肉だ」
と端的に伝えた。
「……敗者?」
「見世物の闘いをして、負けたほうの肉だ」
「人肉なの?」
……人間の剣闘士同士の闘いだと思ったのだろう。緑玉にとってはそのほうがよかったのかもしれない。いや、でも人肉だと誤解させたままなのは問題だろう。エスパルタがそういう国なのだと思われてしまう。
タンジェは仕方なく率直に事実を告げた。
「いや、……闘牛っつってな。片方は牛だ」
「人間と牛が闘うってこと?」
案の定、緑玉の綺麗な顔が歪んだ。
「そうだ。負けた牛の肉が出る」
さっき知ったばかりだろうに、訳知り顔でアノニムが答えた。間違ってはいないので、タンジェはただ頷く。
「ふうん……。……これだから人間って嫌い。自然界なら勝てるはずないのに、飼い殺して挙げ句に戦闘の真似事? 何が面白いの」
「俺にキレんなよ」
「見て来たんでしょ」
「まあ……、見ては来たな」
別に嘘をつく理由もない。闘牛を見たのは事実だし、タンジェは自分の意思でコロッセオに足を踏み入れた。"せっかくなので"。
「どっちもあれが仕事だぜ」
タンジェは先ほど思ったことをそのまま緑玉に告げた。緑玉はジトリとタンジェを睨んでいる。軽蔑だろうか。まあ、ヒビが入るような友情は初めからないし、緑玉からの好感度が下がったとて、1が0になった程度の話だろう。タンジェはもともと人に好かれるタイプではなく、好かれたいわけでもない。
アノニムがタンジェの言葉に続くように言った。
「牛はそのために育てられたんだ。生き残る道はねえ。戦う舞台があるだけいいじゃねえか」
緑玉は不機嫌な表情のまま、
「闘牛をする目的で育てる人間に悪意がある」
「人間が育てたのなら、人間がどうこうする権利があるだろ」
「奴隷は主人に絶対服従って?」
もうこの会話はアノニムと緑玉のものだ。タンジェが介入する余地も、意味もない。だというのに、聞いていただけのタンジェの背中がまた、少しひやりとした。緑玉と翠玉は奴隷だった時期がある。そしてアノニムは、闘牛の"元同業"だ。つまりこれは……お互いに過去の地雷を踏み合っている。そんなことは勝手だが、タンジェを間に挟んで睨み合うのはやめてほしい。
「そうだ」
だが、アノニムはやめる気はなさそうだった。
「俺は親なんざ知らねえが、夜会にはたぶん"家族"みてぇなもんがいる」
星数えの夜会の親父さんと娘さんのことだろう。
「産みの親はどうでもいいが……家族のためなら命を懸けられる。闘牛どもだって、育てた人間に晴れ舞台を見せられるだけで上等だ」
だから俺は食う、とアノニムは言った。
独特の感性だとは思う。闘牛の生きざまにここまで実感を伴った共感を寄せられるやつはそうはいない。もともと無口なアノニムが、彼の感じていることを言葉にするのは本当にまれで、タンジェはそれにも少し驚いた。だが、タンジェはその言葉に対する返事をする立場にはない。
返事をするべきだろう緑玉は、しばらくアノニムを見つめていたが、やがてこう言った。
「そんなこと知ったことじゃない。俺は人間は嫌い」
まあそうだろう。緑玉の過去を鑑みて、彼の人間嫌いは正当だ。
「だから、俺は食べない」
「それは勝手にしろ、自由だろ」
分かってる、と言って、緑玉はその場を立ち去る。アノニムは振る舞われる肉を待つようだ。
タンジェは……どちらの立場に深入りすることもない。二人の過去に踏み込む理由もないし、権利もない。
ただ、失せた食う気は戻っては来なかった。
きっと失われぬもの 3
パーシィと別れてエスパルタの中央に行くと、巨大な闘技場がある。
コロッセオである。世界的にも有名だ。闘技でももちろん名を馳せてはいるが、それよりはるかに知名度が高いのは『闘牛』だろう。怒れる猛牛と生身の人間が闘う競技で、熱狂的なファンも多い。真っ赤な布を翻す闘牛士は憧れの的で、危険な職だが華がある。
残酷だからという理由で闘牛の廃止を求める団体もあるらしいが、エスパルタ側はどこ吹く風。今日も今日とて、コロッセオでは闘牛が開催され、凄まじい歓声を浴びている。
当日分のチケットは完売だそうで買えなかった。ただ、立ち見席は出入り自由らしいので、せっかくなので見ることにした。立ち見席は無料だがとうの闘牛が遠くてよく見えないので、観光客には人気がない。雰囲気を楽しみたいやつ向けだ。
スリバチ状の闘技場の中央で、ムレータを踊るように操る闘牛士が、荒れ狂う猛牛をいなしている。一挙一動に盛り上がる観客。聖誕祭も重なっているからすごい人出だ。
ふと横を見ると、数人跨いだ先でアノニムが闘牛を眺めていた。
その必要はないだろうに、気付けばタンジェは、人混みを軽くかきわけてわざわざ隣まで行き声をかけていた。
「よう」
「あ?」
アノニムが振り返る。
「なんだてめぇか」
周囲のガヤが騒がしくてもアノニムの張りのある低音はよく聞こえた。タンジェはほとんど無意識で、アノニムにトゥロンを差し出した。遠慮なくひょいと摘まみ上げたアノニムは、それを一口で頬張る。
「闘牛なんざ見に来てるとはな」
意外だったぜ、とタンジェが言うと、アノニムは別になんてことはなさそうに言った。
「同業を見に来ただけだ。もっとも、俺は『元』だが」
「同業?」
「闘いを見世物にされてんだろ」
タンジェの肝が一瞬、冷えた。アノニムが過去に見世物小屋にいて剣闘奴隷であったことは、彼にとって嫌な記憶なのではないかとタンジェは勝手に想像していて、だからなるべく触れないようにしていた部分だった。タンジェが気遣っても、アノニムのほうはこうして平気で話題に乗せる。
アノニムに特段の悲壮や、闘牛に対する嫌悪らしいものは一貫して、ない。視線は闘牛に向けたまま、
「あの牛、勝ったら生きられんのか」
タンジェは少し黙ったが、
「俺も詳しくはねえが、いずれは殺される」
知っていることをそのまま話した。
「闘牛士は牛に殺される以外で負けることは滅多にねえよ。相手が牛ってだけの、そういう筋書きの舞台のようなもんだ。闘牛は殺されて、バラされて観客に振る舞われる」
「そうか」
アノニムはあっさり頷いた。どういう感情でその事実を受け取ったのかは分からない。
続ける言葉も思い浮かばず、タンジェも闘牛に目を落とした。槍が突き刺されて暴れ狂う闘牛を、闘牛士がかわすところだった。より熱を帯びる歓声。ひどく騒がしい。アノニムはこんなものは聞き慣れているのだろうか。
「終わりだな」
まだ闘牛は死んでいなかったが、アノニムは最初の傷で見限ったらしかった。それだけ言って、立ち去っていく。
アノニムの後ろ姿を見送ったタンジェは、闘牛がトドメを刺される瞬間を見ることができなかった。