カンテラテンカ

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きっと失われぬもの 7

 エスパルタには、こんな伝説がある。
 エスパルタの北部にある丘には、誰のものでもないオリーブの木が一本生えている。
 そのオリーブは、何百年も昔からそこにあって、エスパルタの歴史を見守ってきた。
 平和を象徴するそのオリーブのもとで結ばれた縁は、生涯切れることのない幸せな縁だという。

 オリーブの木に寄りかかり、黒曜が眠っていた。
 小高い丘には冷えた風が吹く。日当たりはいいが、これでは風邪を引く。
「黒曜」
 しゃがみこんで呼びかけると、黒曜の目元が震えて、すぐに開いた。
「タンジェリンか」
「こんなとこで寝たら風邪引くぞ」
「ん……」
 黒曜は軽く伸びをして、座り直した。
「いい国だ」
 呟く。
「ああ。そうだろ」
 俺はトゥロンを黒曜に差し出した。
「食えよ」
「最後の一つのようだが」
「いいんだ」
 それでも黒曜が躊躇うので、俺はトゥロンを半分に割った。片方を差し出すと、黒曜は素直に受け取り、ぽり、と口に入れた。しっぽが立っていて、機嫌がよさそうだ。
「美味いな」
 俺は頷いた。
 風が俺たちの間を抜けていく。
 黒曜に、奴隷だったことを聞こうかと思ったが、やめた。そんなことを聞くのは悪趣味だ。
「タンジェリン」
「ん?」
「気は変わったか?」
「……」
 オーガへの復讐の話だ。
「俺は……」
 今までみんなとかわしてきた言葉たちを思い出す。俺は自分を奮い立たせる。
「俺は……オーガどものことを恨んでるし、憎んでる。でも、殺さなくちゃならねえとは、今は思ってないんだ」
「そうなのか。なぜだ?」
「……分からねえ。でも、あいつらも、俺と同じだったからかもしれねえ」
「同じ?」
「……オーガが俺の村を襲ったのは、そもそも最初に俺の両親に雇われた冒険者がオーガを襲ったからなんだと」
 そうだ。そもそも復讐に端を発したのなら、あいつらは俺と同じなんだ。復讐に身を灼く気持ちは分かってしまう。
「……火がぐずぐずにくすぶってる感じがする。俺はいつでもこの火を起こせるかもしれねえが、このままシケって火がつかなくなるかもしれねえとも思う」
「……」
「俺を……腑抜けだと思うか?」
 今度は俺が尋ねた。黒曜は黙ってトゥロンを食んでいたが、
「同じ立場になってみないと、何も言えん」
 俺は自分が答えを黒曜に求めてしまったことを自覚し、恥じた。これは自分が答えを出さなければならないことだ。
「そうだな、ありがとよ……」
 答えを俺に与えなかった黒曜に感謝する。
「でもよ……分かったこともある。俺は、ムカつくヤツをぶちのめしてえ!」
 これは特定の相手、まあ、ラヒズのことを指していたが、俺は思い直して、こう伝えた。
「ムカつくヤツってのは……卑怯で、邪悪で、そんで……俺の仲間を傷つけるヤツだ」
「ああ」
「だから俺はそのために強くなる。復讐にケリをつけることはできなかったけどよ……。黒曜は言ってくれたよな。俺の斧は、人を活かすためのものだと。俺は、大切なものを守って、ムカつくヤツをぶちのめすんだ。復讐については、これからまた……自分の気持ちを整理してく」
「そうか。それでいい」
 焦らせてすまなかったな、と黒曜は言った。
 俺と黒曜の間に、また沈黙が流れた。食べ損ねた半分のトゥロンを口に入れて咀嚼する。
「タンジェリン」
「あ?」
「好きだ」
 トゥロンが喉に詰まった。
「ゲホッ! ゴホッ!」
「大丈夫か?」
「テメェのほうこそ大丈夫か!? 急にどうした!?」
 黒曜は不思議そうな顔で俺を見つめている。
「急に、というわけじゃない。お前のことはずっと好ましく思っていたし……夢の中で聞いた言葉の返事をしようと思っていた」
「夢の中?」
「俺に告白しただろう」
「……」
 いや、あれは。世界の崩壊で周囲の音がうるさくて、聞こえていなかったはずでは? 現に俺のほうは黒曜の声が聞こえていなかった。
「聞かせるつもりのない言葉だったか? 俺には聞こえたが……。獣人の聴覚を舐めないほうがいい」
「……」
 そうか、そもそものスペックの差か。獣人の鋭敏な耳はあの轟音の中でも俺の声を聞き取ってたわけか。わはは。
「うおおおおおおおお!!」
 俺は自分がオーガになったときよりでかい声を上げて丘の上を転がった。
「ぐわあああああああ!!」
 自分の顔が熱を持っているのが分かる。みるみるうちに真っ赤になった顔を必死に隠す。
「すまない、困らせるつもりはなかった」
「困ってるわけじゃねえ!!」
「困ってるわけじゃないのか」
 俺はしばらくもんどりうっていたが、草まみれになってようやく落ち着き、のろのろと顔を上げた。
 黒曜は俺の髪に付いた草をとって、笑う。
「葉っぱまみれだぞ」
 なんて優しい顔で笑う男だろう。
 こんな男に愛されたら幸せだろう。その幸せは俺のものらしい。なんてこった。
「黒曜……このオリーブの伝説知ってたのか?」
「伝説?」
「この木のもとで結ばれた縁は、生涯切れることのない幸せな縁なんだとよ」
「そんなものに俺が頼ると思うか?」
 黒曜が俺の手を握る。
「だが、いい伝説だな」
「……」
 そうだな、と俺は呟いた。
「タンジェリン。俺は……一人で出かけて帰ってきたとき、お前の顔を見ると安心する。日常に帰ってきた、光の当たる場所に……そう思うんだ」
 黒曜は不意に言った。何を言っているのかは正直よく分からなかったが、好意的な言葉だということは分かった。続けて黒曜は俺にこう尋ねた。
「これからも、俺の『日常』でいてくれるか?」
「ああ……黒曜が望むなら」
 俺は迷わず頷いた。黒曜が、笑う。
「ありがとう、タンジェ」
 崩壊を始めた世界で、俺は、あの言葉が露と消えても、目覚めた先の現実世界ですべて忘れていても、この気持ちを抱えたまま、きっと生きていけると思った。
 けれど、実際は言葉は消えることはなかった。すべて忘れていることもなかった。
 そして俺は、それを心から、よかったと思った。

 パーシィは俺を気遣い元気を出せと言ってくれる。
 アノニムは今の大切なものを愛し守れと教えてくれる。
 緑玉は生きていくことに終わりはないと諭してくれる。
 サナギはプライドのために戦えと鼓舞してくれる。
 そして黒曜は、俺に愛を、伝えてくれる。

 人を動かすのは、怒りや悲しみや憎しみだけじゃない。
 楽しいとか嬉しいとか、幸せとか、愛とか。そういうものを動力にして、人は生きられる。
 人じゃない俺も。人に育てられたから。人に愛されたから。きっとそうやって生きられる。

 俺の身体に流れる血が、人ならざるものだったとしても、そんなものはきっと、俺の本質を変えたりはしない。
 おふくろの料理を食べ、親父と共に木を切り、ペケニヨ村の人びとと触れ合い支え合って生きてきた俺が、血なんかでその在り方を、心を奪われ、失うなんてことは、ありはしないのだ。

【きっと失われぬもの 了】

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きっと失われぬもの 6

 通りをさらに北に行くと、今度はサナギとばったり出会った。聖誕祭の飾りつけの赤と緑はサナギによく似合って、背景に溶け込んでいきそうだった。それでも金髪にほど近い黄緑の髪は目立っていたが。
「さっき緑玉にも会ったよ」
 サナギは丸いチョコレート菓子をつまみながら、広場で聖歌隊がコーラスするのを流し聴いていた。
「緑玉は、聖歌はお気に召さなかったみたい」
「そうかよ」
 出入り自由で場所も広場ということもあって、雑談をしている者も多くいた。気軽なコンサートなのだろう。設置されたベンチに俺も腰かけた。
「食うか?」
 残り少なくなったトゥロンを差し出す。
「おいしそう。なにこれ?」
「トゥロン。アーモンドとかはちみつでできた菓子」
「ありがとう。いただくよ」
 サナギはトゥロンをひょいと摘まんで、そのまま小さな口へ持っていった。ポリポリと音を立てて食べている間に、袋に入ったチョコレート菓子を俺に差し出す。代わりに一つやる、といったところだろうか。遠慮なくもらった。
 俺は甘いものはそこまで好きというわけじゃないが、やはり故郷で食うものはいい。なんでも美味い。
「おいしいねえ」
 しみじみと言うので、俺は機嫌をよくした。故郷の飯を褒められて悪い気になるやつはいないだろう。
「タンジェはさ。自分がオーガだって知って、どういう感じなの?」
 一瞬で機嫌が瓦解した。
「てめぇ……それ、よく聞けるよな」
「俺が聞かないと、誰も聞かないでしょ」
 誰も聞かなかったらタンジェはずっと言わないでしょ、とサナギは言う。
「言う必要、あるのかよ?」
「あるよ。だからヒトには言葉がある」
 サナギが当たり前のような口ぶりで俺に告げる。
「俺は……」
 俺のほうは、まるで答えを準備していなかったので、戸惑う。俺は……どういう感じなんだろうか?
「悲しいとか……つらいとかは……ねえよ」
「うん」
「ただ……悔しい。そうだな、悔しいな……」
 自分の中で気持ちが整理されていくのが分かる。
「それに、ムカつく」
「何に対して?」
「ラヒズだよ! あいつがいなきゃ、こんな気持ちになる必要なかったろ!」
 俺は復讐を遂げて、目的達成だったはずだ。
「何も知らねえ俺が……全部引き金になってて……」
 思ったより絞り出すような声になって、俺は自分に少し驚く。でも、別に泣きそうでも消えそうでもなかったから、強引に続けた。
「結局俺の一人舞台だったってわけだ。滑稽だろ!」
 滑稽なのは、悔しいだろ、ムカつくだろ、と畳みかけるように言う。サナギは俺の目を見ながら、うん、うん、と頷いていた。
「ラヒズに復讐したい?」
 唐突なその言葉に、俺は喉がヒュッと鳴るのを聞いた。
「あいつは悪魔だ。きっと放っておけば被害は広がる。まあ、人類の敵だね。パーシィもひどく敵視しているし、倒すことになるよ。きっとヒトは悪魔には負けない。いつかラヒズは倒される。そのときに――」
 サナギは俺の顔を覗き込んだ。
「――その刃はきみがいい?」
「……」
 俺は唇を引き結んだ。顔を上げて、サナギを正面から見る。
「ああ。ヤツを倒すのは俺だ」
 サナギはニコッと笑った。
「いい顔だよ、タンジェ。自分のプライドのため、人類悪への懲罰のため、戦うんだ。ただ、一つ訂正しよう――ヤツを倒すのは、俺『たち』さ。トドメは譲るけどね」

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きっと失われぬもの 5

 コロッセオから出る。興奮冷めやらぬ観客が闘牛の素晴らしさについて語り合っているのが聞こえる。俺はというと、別に闘牛にも闘牛士にも感情移入はしていない。努めて冷静なふりをした。どちらも、あれが仕事だ。
 しばらく待てば殺された闘牛の肉が出るだろうが、アノニムの姿を思い出すとなんとなく食う気が失せた。
「肉が出るの?」
 まるで俺の脳内を読んだかのように、突然声がかけられた。驚いて振り向くと、緑玉が立っている。意外と肉食なんだよな、緑玉。
「肉は出るが……」
 どこから聞きつけたのか知らないが、人間嫌いで動物好きの緑玉が闘牛士に殺された闘牛の肉を喜んで食うわけはないと分かる。俺が少し口籠もると、いつの間にか横にいたアノニムが、
「敗者の肉だ」
 と端的に伝えた。
「……敗者?」
「見世物の闘いをして、負けたほうの肉だ」
「人肉なの?」
 緑玉がこういうボケをかますのは珍しいので、俺は思わず緑玉を凝視してしまった。人間の剣闘士同士の闘いだと思ったのだろう。
「いや、……闘牛っていってな。片方は牛だ」
「人間と牛が闘うってこと?」
 案の定、緑玉の綺麗な顔が歪んだ。
「そうだ。負けた牛の肉が出る」
 さっき知ったばかりだろうに、訳知り顔でアノニムが答えた。間違ってはいないので、俺はただ頷く。
「ふうん……。……これだから人間って嫌い。自然界なら勝てるはずないのに、飼い殺して挙げ句に戦闘の真似事?」
 俺にキレられてもな……。
「だが、牛はそのために育てられたんだ」
 アノニムは言った。
「そのために育てられた時点で生き残る道はねえ。戦う舞台があるだけいいじゃねえか」
「闘牛をする目的で育てる人間が悪い」
「人間が育てたのなら、人間がどうこうする権利があるだろうが」
「……生まれより育ちで人生が決まるとでも言いたいの?」
 緑玉が目を細めた。
「そうだ」
 アノニムは真っ向から頷く。
「俺は親なんざ知らねえが、星数えの夜会には家族みてぇなもんがいる」
 星数えの夜会の親父さんと娘さんのことだ。
「俺は産みの親なんかどうでもいいが……家族のためなら命を懸けられる」
 闘牛どもだってそうだ、と。
「育てた人間に晴れ舞台を見せられるだけで上等だ」
 だから俺は食う、とアノニムは言った。俺はいつの間にかアノニムの言葉に圧倒されて、瞬きもできていなかったことに気付いた。
 緑玉はしばらくアノニムを見つめていたが、やがてこう言った。
「そんなこと知ったことじゃない。俺は人間は嫌い。俺を、みんなを傷付けたから」
 今度は脳裏に、黒曜の悪夢がよぎる。人間に蹂躙された黒曜たちの故郷……そこには緑玉も、緑玉の姉翠玉もいた。
「だから、俺は食べない」
「それは勝手にしろ、自由だろ」
 分かってる、と言って、緑玉はその場を立ち去る。アノニムは振る舞われる肉を待つようだ。
 俺は逡巡したが、失せた食う気は戻っては来なかった。
 俺は無意識に緑玉を追った。背の高い緑玉の歩幅は大きい。俺に配慮もしていないので、追いつくのには小走りにならなければならなかった。
「緑玉!」
 呼び止めると、緑玉は振り返って、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「……何?」
「いや……」
 いや、待て。なんで俺は緑玉を追った? なんで呼び止めた?
 混乱した末に出た言葉は、
「テメェは人間に復讐、しねえのか」
 だった。
「復讐は黒曜がやってくれた」
 俺は唾を飲み込んだ。
「それは……知ってる。その……ベルベルント中が眠りについたとき、俺は……黒曜の夢の中に入って……それで、見ちまった」
「……ふーん」
 興味があるのかないのか、緑玉はそっぽを向いて鼻を鳴らした。
「じゃあ分かってるでしょ。黒曜は全部やったよ。俺たちと一緒に逃げた先で、俺たちの怪我のせいで黒曜も捕まって……俺たち別々のところで奴隷になって。黒曜は関わった人間全部殺した。俺がやることはもうない。おしまい」
「黒曜が……奴隷?」
「そこは夢に出てこなかったわけ?」
 俺は頷いた。緑玉はそう、と言った。
「……黒曜も俺たちとは違う場所で……奴隷だったよ。それを夢に見てないなら……黒曜にとっては、どうでもいいことなのかも」
 俺にはどうでもよくないけど、と続ける。
 俺は? ――俺にとっては、どうだろうか。
 決まっていた。何一つ、どうでもいいことなんてありはしない。
 思った以上に、俺はみんなのことを何も知らないのだ。
 当たり前だ。知ろうとしてこなかった。
 俺は星数えの夜会から異動しようとして、最初はあえて距離を取ろうとしてきた。
 それが今は歯がゆく思える。俺は……もっと、仲間のことを知るべきだった。いろいろな人生を知ってさえいれば、様々な道の在りようを知れるのかもしれない。
「緑玉」
「……なに? 今日はやけに絡むね……」
「緑玉にとっては、終わったことなのか」
 少し黙ってから、緑玉は吐き捨てるように言った。
「何も終わってなんかいない」
 俺が続きを促すと、緑玉は言葉を選ぶようにして、
「黒曜が全部やってくれて……俺がやることはもうなくなったけど。俺は人間が大嫌いなままだし……終わりなんてない」
「……」
「タンジェリン。何を迷ってて、俺から何を聞きたいのか知らないけど……」
 見抜かれている。
「俺が終わらないことは……生き続けることは、俺の大事な人たちへのはなむけになると思う」
「……!」
「ていうか……そのくらい思わないと、やってけない」
「そう……そうだな……」
 それから緑玉と俺の間に、少しの沈黙が流れて……俺は何気なく、トゥロンを緑玉に渡した。
 訝しげな顔をしていたが、一口食べたあと一瞬で平らげたので、口に合ったらしい。それから緑玉は俺に素っ気なく礼を言って立ち去ったし、俺は今度はそれを追わなかった。

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きっと失われぬもの 4

 パーシィと別れてエスパルタの中央に行くと、巨大な闘技場がある。
 このコロッセオは世界的にも有名だ。闘技でももちろん名を馳せているが、それよりはるかに世界に轟くのは、このコロッセオで行われる『闘牛』だろう。怒れる猛牛と生身の人間が闘う競技で、これには熱狂的なファンが多い。真っ赤な布を翻す闘牛士は憧れの的で、危険な職だが華がある。
 残酷だからって理由で闘牛の廃止を求める団体もあるらしい。エスパルタ側はどこ吹く風、今日もコロッセオでは闘牛が行われている。
 当日のチケットは買えなかったが、立ち見の自由席が空いてるそうで、久しぶりに見ることにした。
 スリバチ状の闘技場の中央で、ムレータを踊るように操る闘牛士が、荒れ狂う猛牛をいなしている。一挙一動に盛り上がる観客。聖誕祭も重なっているから、いつもより観光客が多いのかもしれない。
 ふと横を見ると、数人跨いだ先でアノニムが闘牛を眺めていた。
 その必要はないだろうに、気付けば俺は、人混みを軽く掻き分けて声をかけていた。
「よう」
「あ?」
 アノニムが振り返る。
「なんだてめぇか」
 周囲のガヤが騒がしくても、アノニムの張りのある低音はよく聞こえる。
 俺はアノニムにトゥロンを差し出した。ひょいと摘まみ上げて、アノニムは一口で頬張る。
「闘牛なんざ見に来てるとはな」
 意外だったぜ、と俺が言うと、アノニムは不思議そうな顔をした。
「同業を見に来ただけだ。もっとも、俺は『元』だが」
「同業?」
「闘いを見世物にされてんだろ」
 俺は一瞬、肝が冷えた。別にアノニムが恐ろしかったというわけではない。ただ、アノニムが過去に見世物小屋にいて剣闘奴隷であったことは、俺の中ではなるべく触れないようにしていた部分だった。嫌な記憶だろうと勝手に想像していた。
「あの牛、勝ったら生きられるのか」
 アノニムは何気なく聞いたんだろう。俺は少し黙ったあと、
「俺も詳しくはねえが、いずれは殺される」
 知っていることを正直に話した。
「闘牛士は殺される以外で負けることは滅多にねえよ。相手が牛ってだけの、そういう筋書きの舞台のようなもんだ。闘牛は殺されて、バラされて観客に振る舞われる」
「そうか」
 アノニムはあっさりと頷いた。特に悲しそうでもなかったし、怒る様子もなかった。逆に俺のほうが、そんな淡白な様子のアノニムに対して動揺してしまう。
 何も言えずに闘牛に目を落とすと、今まさに槍が突き刺されて、暴れ狂う闘牛を闘牛士がかわすところだった。より熱を帯びる歓声。ひどく騒がしい。アノニムはこんなものは聞き慣れているのだろうか。
「終わりだな」
 まだ闘牛は死んでいなかったが、アノニムは最初の傷で見限ったらしかった。それだけ言って、立ち去っていく。アノニムの後ろ姿を見送った俺は、闘牛がトドメを刺される瞬間を見ることができなかった。

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きっと失われぬもの 3

 エスパルタの中央通りでは、聖誕祭の間特別なマーケットが開かれていて、飲食物や土産物などが並んでいる。この時期にしか食えないものもあって、観光に来た人々はみんな思い思いに飲み食いして、思い出にしていく。
 過去の俺は何を買ってもらっただろうか? あまり物欲のないガキだったので、たぶん土産物や工芸品じゃないだろう。食べ物を買ってもらった気がする。
 ぼーっとマーケットを眺めて歩いているとアーモンドの香ばしい香りがして、すぐにピンときた。トゥロンと呼ばれる、ローストしたアーモンドやはちみつでできた菓子だ。昔の俺が親父とおふくろに買ってもらって食べたのはこれだ。
 思わず一袋買ってしまった。
 マーケットでは食べ歩きしているやつも多い。俺も邪魔にならない程度にトゥロンを食いながらマーケットを歩いた。
 人混みの流れに逆らわず進んでいくと、聖ミゼリカ教会に行き当たる。
 前に言ったとおり、エスパルタはミゼリカ教国で、国民のほとんどはミゼリカ教徒だ。
 ペケニヨ村にはさほどミゼリカ教は浸透しておらず、親父やおふくろ、それにもちろん俺もミゼリカ教徒ではないが……。
 普通に開放されているようだったので入り口を何気なく見ると、パーシィがいた。小さな子供が親に手を引かれて立ち去るのを、笑顔で見届けている。
「何してんだ」
「やあタンジェ。なんだい、それ? 美味しそうだな」
 あいさつもそこそこにトゥロンに食いつくパーシィ。仕方ないから一本やった。
 礼を言ってさっそく頬張りポリポリとアーモンドの食感を楽しんでいるパーシィに、
「こんなとこで何してんだ」
 再度尋ねる。
「ミゼリカ教会前でこんなところとはよく言えたな」
 パーシィはからからと笑った。
「たまたま通りがかりに、転んで膝を擦りむいたという女の子がいてね。治療したのさ」
「そうかよ……」
 余計なこととは分かりつつも、俺は続けて言った。
「でもよ、ガキなんざ、怪我しながら生活するもんだろ」
「そうだなあ、全部の怪我に癒やしの奇跡を使っていくのは無理だしな」
 あっさり納得したパーシィは、トゥロンを飲み込んでパンパンと両手を軽く叩き、トゥロンの砂糖を落とした。
「でも、親御さんは安心していたよ。女の子も笑顔になった」
 それでいいじゃないか、と。
「てめぇ……たまにちゃんと、天使っぽくなるよな。本当に天使なのかは知らねえけどよ」
「ま、まだ疑ってるのかい!? 失礼だな! ラヒズにもちゃんと警戒されていたろ!?」
 それを根拠にするのはどうなんだ。呆れた俺に、パーシィは急に真面目な顔になった。
「ラヒズといえば……天使もそうだが、悪魔には『格』があってね。あいつはかなり格が高そうだ」
「強いってことか?」
「そうなる。そして、悪魔としての才が高い」
「悪魔としての、才?」
 復唱すると、パーシィは少し考えたあと、
「要するに、『悪魔っぽいことが上手い』ってことさ」
 悪魔っぽいこと、か。確かに俺が昨日経験したことは、まるきり悪魔が見せる地獄のようなもんだった。悪魔や地獄なんて、おとぎ話でしか知らないが……言われてみればそうっぽかったかもしれない。
「だからな、タンジェ。アドバイスをしておくけど……『悪魔の言葉は信じるな』」
「あ?」
 俺は眉を寄せた。
「テメェも見ただろ? ラヒズの言ってることに嘘はなかった。俺は……、……オーガだったじゃねえか」
 言葉に少し詰まったが、最終的には自分で自分の姿を認めた。俺にとってはかなり覚悟のいる発言だったのだが、パーシィは別に何でもないことのように、
「悪魔が嘘をついているってことじゃない。俺が言いたいのは、悪魔の思惑通りに動いては駄目だってことさ」
 そう言った。
「ラヒズの思惑……何だよ? それって」
「悪魔が何を考えているかなんて知ったこっちゃないよ」
 パーシィが肩を竦める。
「ただ、意図的にきみの元気を無くそうとしてたのは分かる。あいつ、たぶん人を追い詰めるのが好きなんだよな。悪魔らしいよ」
 それは……つまり、なんだ。
「俺に、元気を出せってことか?」
 パーシィは俺を見てにっこり笑った。

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プロフィール

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一次創作小説、
「おやすみヴェルヴェルント」
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