カンテラテンカ

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堕天使の望郷 6

 それから一年半ほどで、マリスは天寿を全うした。
 へリーン村の人々総出での葬儀は、慎ましく、厳粛でありながらも、俺を含めたみんながマリスの旅立ちを快く見送った。

 へリーン村に留まってもよかったし、マリスの死がきっかけ、というわけでもないのだが、俺は旅に出ることにした。
 何の旅かと言われたら、俺はたぶん「巡教だ」と答えたと思う。俺はもはや天使ではない。けれど主たる神への忠誠と思慕は俺が堕天したこととは関係なく歴然としてあり、俺はこの世界でミゼリカ教徒だった。
 しかし、言葉通り巡教が旅立ちの本当の目的なのかと言うと――違うのかもしれない。
 ただ、俺は、様々な豊穣が見たい、と思った。天使の力を借りない、自然の豊穣を。それはきっと、本当に美しいから。
 ジョシュを含めた村人たち全員が、俺の旅立ちをもまた、快く見送ってくれた。

 これが、俺が今でも思い出せる、堕天使パーシィの過去と誕生だ。
 そのあとはいろいろな場所を巡り、ベルベルントに辿り着いた。そこからは――うん、ほかの機会の回想に譲るとしよう。

 未だに俺は間違うこともあるみたいだ。
 それでもきっと、俺の中には主たる神の教えと慈母たるマリスの教えが脈々と継がれていると信じている。
 俺は神やマリスのように美しく、慈悲深くなりきることはできない。それは俺の咎であり、罪なのだろうと思う。
 それを抱えたままでもいい。俺が俺らしく、それでも誰かを愛して、誰かのために生きられたら――俺は少しでも、彼らに近付けるだろうか?
 愛と豊穣、美しいもの。罪と咎と罰。重ね合わせて歩んでいくしかない――けれどそれは、きっと悲しいことじゃない。俺のことを知らずとも、何も聞かずに隣を歩んでくれる仲間たちにも出会えた。

 少しずつ、また俺は、罪を重ね、愛を積み、咎を認め、豊穣を慈しみ、罰を受け、そして――美しいものに出会っていく。
 それが俺の、堕天使パーシィの人生だ。

【堕天使の望郷・了】

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堕天使の望郷 5

 私がへリーン村に身を置いてからこっち、気になることはたくさんあった。
 私の感情のこともそうだし、マリスのこと、村のこともそうだ。
 今までは自分の身の振る舞いを考えるだけで精一杯だったが、私はいよいよ、マリスに気になっていることを尋ねることにした。
「マリス」
 何ですか、とマリスはいつも通り柔和な笑顔で私に応答した。
「この二ヶ月で分かったことだが……この村はそこまで豊かではないが、飢えることもなさそうだな」
「そうですね、ここ数十年は飢饉に悩まされたこともありません」
「ここの豊穣を管轄する天使は誰なんだ?」
 ここにいる天使は、贄を要求している気配も、この村の発展に関与している気配もない。それどころか、存在すら欠片ほども見当たらないのだ。
 いったい誰がこんな謙虚な豊穣を与えているのか?
 マリスは即答した。
「おりませんね」
「……え?」
 私は、聞き間違えたかと思った。
「この村に天使はおりません」
「何だと……?」
 それは、おかしな話ではないか。
「では、何故この村は飢えない? 守護天使がいなければ豊穣など――」
 マリスは黙って聞いていたが、じっと見つめてくるその視線に、私は言葉の先を続けるか逡巡した。
 結局私は言葉を呑み込み、代わりにこう尋ねた。
「――ヒトの力だけで、豊穣が成せるのか?」
「パーシエル。動物の死体は土の中の小さな虫たちが食べます」
「……?」
「その小さな虫たちは土を豊かにし、植物を育てます。植物からは木の実が落ち、リスなどが食べますね。それをヘビなどが食べ、そのヘビは鳥に食べられる……。鳥の死体はまた土に還ります」
「何の話を……」
「パーシエル、それが『豊穣』です」
 私は、言葉を失った。
「ともに生きるもののバランスが崩れず豊かであれば、ヒトはそのお裾分けで生きていける。天使の力なんていりません」
「…………それが真実なら」
 と、私はようやく言葉を絞り出した。
「それが真実なら――私がしていたことはなんなんだ?」
「それは私には知り得ないことです。ですが、パーシエル」
 マリスは私をまっすぐ見て、いつも通り微笑んだ。
「『気付き』は、何物にも替えがたいことですよ。そうであるようにこの世ができているなら、私たちに必要なのは、なぜそうあるのかという思考です。思考は人間の生きる根幹ですから」
 それはきっと、慰めの言葉だったのだろう。
 だが、それで私は、自分の犯した罪にようやく気が付いたのだ。
 かつて私に捧げられたもの。村でもっとも尊く、もっとも価値が高く、もっとも稀少なもの。それをあの村人たちがどう受け止め、何を考え、あれを差し出したのか。
 私が食べたあの女が、望んでそうなったわけはない。豊穣が私によってもたらされていないのならばなおさら、彼らが恐れたのは、それを与えなかったときの私からの報復に違いなかった。
 そしてへリーン村での営みを経るにつれ、ヒトとヒトの繋がりというものも分かってきた。それが分かってしまったら、あの女が、誰との繋がりがなかったわけがないことも理解できる。
 誰かの家族であり、あるいは誰かの恋人であり、誰かの友人であったあの女、それが出されたあの食卓には、確実に誰かの悲しみがあったのだ。
 私は、ついに本当に理解した。
 何故私が追放され、堕天使に身を堕としたのかを。

 それは私がもはや豊穣の天使ではなく、
 暴食の支配者になっていたからに他ならないのだ。

 私はマリスに、髪を切ってくれと頼んだ。
 あの日、顔の刺青を見てから、私は前髪で刺青を隠せるように髪を伸ばしてきた。だが、それでは堕天した意味が何もない、と、私は気付いたのだ。
 マリスは理由は聞かず、髪を切ってくれた。
「貴方は綺麗な顔をしているんですから」
 と、マリスが私の前髪を持ち上げて、
「このくらい出しても、罰は当たりませんよ」
「そ、そうだろうか……?」
 マリスに言われるまま、切り揃えられた前髪をさらに上げて整えた。視界が開けて見える。
「マリス、もう一つお願いをしてもいいか?」
「何でもお聞きしますよ」
 切り落とした髪を払いながらこちらを見たマリスに、
「私に、新しい名前を与えてくれないだろうか」
「新しい名、ですか。それでは――」
 そして、
「パーシィ、というのはどうでしょうか」
 神からではなく、一人の人間の老婆に与えられた名が、
「ありがとう、マリス」
 私の、いや、『俺』のものになり、
「俺は今日から――パーシィだ!」
 堕天使パーシィが、こうして産まれたのだ。

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堕天使の望郷 4

「ようマリス、おはよう。そっちの若いのは誰だ?」
「居候のパーシエルです」
「そうか、よく分かんねえけど畑手伝いな! 若いの!」
「私が!? 畑を!?」

 ――しかし、手伝った礼だと言われて大量に持たされた野菜でできたマリスの野菜炒めは本当に美味い。

「海に出るぞ坊主、漁を教えてやる!」
「行ってらっしゃい、パーシエル」
「私が!? 漁を!?」

 ――しかし、手伝った礼だと言われて大量に持たされた魚でできたマリスのフィッシュフライは本当に美味い。

 二ヶ月も経てば私はこの村、へリーン村の一員に、いつの間にか数えられていた。へリーン村の人びとの中に、私が何者であるかなどを気にする者はいない。

「おいパーシエル! 漁に出るぞ!」
 村人の一人であるジョシュが声をかける。
「仕方あるまい……」
 すでにほぼ毎日のように船に乗せられ、すっかり慣れてしまっていた。
「ニシンをとったら私が貰うからな!」
「マリスにスターゲイジーパイにしてもらうんだろ、本当にお前はアレが好きだな」
 彼の言葉は事実だ。マリスの料理はどれも絶品だったが、初めて食べたスターゲイジーパイの魅力に及ぶものは未だない。
 ――たまにあの衝撃に似たものを思い出すことはある。天界で最後に食べた人肉は、確かに美味かった。
 それを私は誰にも言えずにいるし、言う気もない。
「マリスには配偶者はいないのか?」
 私は不意に、気になっていたことを尋ねた。ジョシュは船を漕ぎながら、
「いるよ。ただ、数十年前に海に出たきり帰ってこねえんだ」
「死んでいるのではないのか?」
「それ、本人の前で言うなよ……」
 ジョシュが顔を歪めたので、私は不思議に思った。
「帰らぬ人を待つの苦痛は大きいのではないか」
「俺には分かんねえよ。ただ、……だからお前を拾ったのかもしれねえな」
 その言葉の意味は理解しかねた。だが、これ以上本人でない者の言葉を聞いても無駄だ、とは察した。
 だが何故だろうか、マリス本人に聞く気にならないのは。

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堕天使の望郷 3

 ヒトの時間感覚に慣れない私にとって、わずか45分がどれほど長かったことか。天使でいた折には、二ヶ月も瞬く間だったというのに。
 腹からは聞いたことがない音が鳴り、私の口数も減った。よほどこの家から出て行こうかとも思ったが、かといって食事のとれる場所に心当たりはない。
 老婆はようやく、私の座るテーブルに料理を置いた。魚の頭が四方に整然と突き出たパイだった。
「……何だこれは?」
「スターゲイジーパイという料理ですよ」
 中央に星型の焼き色がついていて、見た目は愛らしい。
 老婆は私の前でパイを切り、小皿に取り分けてくれた。いい香りがする。初めて見る料理で戸惑いはあったが、香りがいいなら食べられるはずだ。
 用意されたナイフとフォークでその肉を食せば――
 ――これがこの世でもっとも美味なものだとすぐに知れた。
「美味だ!」
 私は老婆の顔を見て思いがけず大きな声を出した。
「そうですか」
 老婆は微笑み、
「貴方が運んでくれたニシンで作ったのですよ」
 とだけ告げた。
 私はそれを聞いて、変な気持ちになった。何の気持ちかは分からない。ただ、気分は悪くはなかった。
 私は無心でスターゲイジーパイを食べ切った。老婆は微笑んだまま私の様子を眺めていた。
「老婆よ、褒めてやろう。名は?」
「マリスと申します」
「私はパーシエル」
 聞き覚えは? と尋ねると、
「ありません」
 マリスは平気な顔で答えた。
「さあパーシエル、片付けをしますよ」
「ん? ……ん!?」
 立ち上がったマリスの背を見て、
「私がか!? 何故!?」
 尋ねると、マリスは振り返り、
「働かぬ者に与える寝床はありませんので」
 容赦なく言った。

 ヒトはこれを一宿一飯の恩、と呼ぶのだろう。確かに行くあてのない私にとって、腰を落ち着ける寝床は必要だった。
 マリスに従いながら慣れない皿洗いを始め、私は水を張ったタライに自分の顔が映ったことに気付いた。同時に、自身が青ざめたのも分かった。顔面に、刺青が施されている。
 口を模した醜悪な刺青だ。罪を彫られたのだ。
 天界に帰れれば消せるものだろうか?
 髪の色も目の色も、まるで血を吸ったかのようにくすみ、天使の頃の面影がない。
 水タライの中の自分と見つめ合ったまま固まっていても、マリスは特に私を急かすことなく湯を焚いたり寝床を整えたりした。ようやく私が皿を洗い終えると、マリスは湯に入るよう促した。そこで私はまた、自身の体中にも刺青があるのを見て、少なからず気落ちすることとなる。

 天界から堕とされた身であることが知れたら、私にとってそれ以上の汚名と屈辱はない。
 天使であることを秘匿しながら、なんとか天界へ戻る方法を探さねばならない。
 そして堕天を撤回させなくては。そのためには……。

 そのためには、どうしたらいい?

 それでも、夜は来る。ヒトには睡眠が要る。天使であった頃は想像もできなかった布団というものの存在、これがヒトの身にはあたたかいと、初めて知った。

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堕天使の望郷 2

 気付けば私は木々の茂る林の中にいて、布一枚を羽織った状態で彷徨っていた。
 波の音がどこかから聞こえる。たぶん、人間界にある海というものだ。私が加護を与えていた村には海がなかったから、それだけで知らぬ土地に追放されたことが知れた。
「何故、私がこんな目に……!」
 とにかく、ひどく空腹だった。ヒトの物質的な身体に堕ちた身では、生命維持に食事が必要なのだ。
 不意に林の木々の中から気配がして、振り返る。
 背に籠のようなものを背負った老婆がいた。
「こんなところに若い方がいるのは珍しいですね」
 老婆は別に驚いた様子もなくそう言った。
「……食事がとりたい」
 私は老婆に告げた。
「もし何か持っているなら、私に捧げよ」
「ええ、構いませんよ」
 老婆は迷わず答えて、背の籠を降ろした。何か作物が入っているのかと思ったら、中にいたのはビチビチと跳ね回る魚だった。
「とはいえ生で差し上げるのもなんですから、私が何かお作りしましょう」
「ふむ。許可しよう」
 老婆は「では」と言って、私に籠を手渡した。魚がビチビチ跳ね回っている籠を。
「お持ちになって」
「何だと……!? わ、私に持たせるのか!?」
「この老いた婆の代わりに魚を運んでも、罰は当たりませんよ。さあ行きましょう」
 淡々と告げた老婆は、私に対する畏れもなく、いけしゃあしゃあと言ってのけると、本当に私に籠を渡したまま歩き出した。
 まさか、人間にこんなものを持たされる日が来るなんて。屈辱的だが、腹は減っている。私は仕方なく老婆について林を抜けた。

 ほどなくついた村は小さく、海に近い。
 老婆は村人数人とすれ違い、あいさつされては返していたが、村人は私の姿を見るときょとんとして目を瞬かせた。だが、あまり深いことを気にしない村柄のようで、深く追求する者はいない。
 老婆の邸宅につくと、老婆は私から籠を受け取り、私にテーブルに腰掛けるよう言った。
「無警戒なことだな」
 私は出された水を遠慮なく飲み干してから言った。
「私がどこの誰かも知らんだろうに」
「そうですねえ」
 てきぱきと魚を運び、キッチンで調理を始める老婆。口調や年齢とは裏腹に機敏な女だ。
「もし強盗なら、それはそれで構いませんよ。どうぞこの婆が後ろを向いている間に、家探しでもなさってくださいな」
「私は強盗ではない! そんな下品な真似はせん!」
「ならいいじゃありませんか」
 調子が狂う。真意の読めない老婆だ。
「……料理はまだなのか?」
 尋ねると、老婆は、
「そんなにすぐにはできませんよ」
 こちらを振り向かずにそう答える。
「……」
 料理は、そんなにすぐにできるものではないのか。
 今までは食べたいときに捧げられたものを食せていたというのに、本当に、面倒なことになった。
「何故私がこんな目に」
 もう一度、思わず呟いてしまった。老婆に聞こえたかは知れない。

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