エセンシア 7
幸い、全員、怪我は深くはなかった。すぐにパーシィの癒しの奇跡で治療できる範囲だ。だが、一番深いであろうタンジェのメンタルの傷は、聖ミゼリカ教の奇跡を以てしても治療は叶わない。
足取りは重い。しかし慣れた山中を、タンジェの無意識は迷わず歩いてくれる。
サナギとパーシィはラヒズの行き先について考察し言葉を交わしていた。元来無口な黒曜と緑玉とアノニムは、いつも通り静かに、山道を歩くことだけに専念している。
さっきの一連の出来事を気にしてるのは、タンジェだけなのだろう。
でも、当たり前だろ、とタンジェは思う。自分が復讐相手と同じ種族で、復讐の始まりがそもそもタンジェ自身のせいだなんて、気にしないほうがどうかしている。気にしているのは、きっとタンジェがヒトと化け物の狭間にいて、それでも本質はヒトだからだと思いたい。
タンジェはオーガを憎んでいる。タンジェが愛したもの、愛されたもの、すべてを壊された。
この機会に、あのオーガどもと決着を付ける。そのつもりだった。
なのに、今は分からなくなってしまった。
オーガと化して、あの熱い鼓動を動力にしたとき、タンジェの復讐という燃え上がる情熱まで、まとめてくべてしまったのかもしれなかった。
――それが灰になってしまったのなら、俺はこの先、何を動力にして動けばいい?
エセンシア 6
時間が経ち、興奮が収まるにつれ、タンジェの身体はゆっくりと解けるようにヒトのそれへと戻っていった。
痛みや後遺症らしきものはない。手も足も動く。頭も感情も、正常にめちゃくちゃだ。
洞窟の外、入り口の側には、ラヒズが移動させてきたらしいタンジェたちの荷物があったようだ。入り口側にいた黒曜たちはすぐにそれに気づき、各々荷物を回収した。その中から黒曜がタンジェの着替えを持ってきて、タンジェに差し出す。オーガに化したときにタンジェの服は破れ、弾け飛んでいたからだ。
タンジェは緩慢な動作で着替えた。
疲れたわけではない。ただ、気分が最悪だった。
ほとんど投げやりに、それでも着替えを終えたタンジェの襟を、前に立った黒曜が直した。それでタンジェは、唐突に、母が同じように襟を整えてくれたことを思い出した。
タンジェは襟を直して下ろされかけていた黒曜の腕を掴む。
「俺がオーガの子だと知っていても親父とおふくろは俺を愛した。その愛に嘘はなかったはずだよな!? そうだろ!?」
黒曜は肯定も否定もしなかった。ただ、
「お前がその愛を信じるなら」
タンジェの顔が歪んだ。でも、泣きはしない。悲しくはないからだ。
タンジェは震える指を意識して動かして、ようやく黒曜の腕から、掴んだ手を引き剥がした。
ゆっくりと、洞窟の奥を向く。すべてを見届けていたオーガが、まだそこにいる。逃げる様子も、抵抗する様子もなく、ただ、タンジェのことを見返した。タンジェの愛用の戦斧は荷物と共に放置されていて、その柄を掴んだタンジェは戦斧を引きずるようにして大股にオーガの前へ歩み寄る。
「やっと……てめぇの番だな」
自分がオーガだとて、タンジェのやりたいことは、やるべきことは、変わらない。
「俺の誕生が悲願だったって? そいつはよかったな! 俺の悲願はな、てめぇらをぶっ殺すことだッ!!」
戦斧を大きく振りかぶった。振り下ろす。
振り下ろせなかった。
タンジェの気持ちがそうさせたわけではない。黒曜がタンジェの振りかぶった腕を掴んでいたからだ。
静まり返った洞窟で、黒曜の抑揚のない声が、タンジェに言う。
「いくら戦闘訓練を積んだとて、お前の斧の本質は――木を切り、人を活かすためのものだ」
力を込めて、ゆっくりとタンジェの斧を下ろさせた。
「殺してほしくない」
――そんなことを、今言うなよ。
タンジェの手は、別に、きれいではない。獣、妖魔、人に害あるものなら殺してきた。
これは、タンジェの復讐だ。ペケニヨ村がオーガどもに蹂躙されたあの日、生き残ったタンジェの命は、復讐のためにあったはずだ。
――それを、オーガ1匹見逃したことで、まるで俺が救われるみたいに言うなよ。
「タンジェリン。このオーガの頭を割ったら、お前は、それで終わってしまう」
タンジェは顔を上げた。黒曜の石の瞳が見下ろしている。
「終わらないでほしい」
悪夢の中で黒曜の過去を見たから、タンジェは、分かってしまった。タンジェには終わらない道があることを。つまりそれは、"黒曜とは違って"。それを黒曜が望んでいるのであろうことも。
「……」
戦斧を手放す。黒曜がそれをゆっくりと受け取った。
この戦斧がオーガに振り下ろされることは、もう、ない。
タンジェはゆっくりと、力ない視線をオーガに移した。
「……一つ聞きたい」
「……なんだ」
「てめぇは俺の……。……親なのか?」
勇気の要る、質問だった。
「違う」
オーガはほとんど即答で否定し、それから、
「私はきみの親の……兄だ。叔父ということになる」
「叔父」
反吐が出る。
このオーガが本当の家族であろうが、そんなことは関係ない。オーガの群れがタンジェの愛したものを奪った事実は変わらない。だから何も考えず、タンジェは、オーガを恨み続ければよかった。けれどタンジェはとうとう、黒曜から戦斧を奪い返してまで、このオーガの頭を割ることは、できなかった。
そうしているうちに、焚き火が燃え尽きた。
「いったん戻ろうか」
サナギが言った。
「エスパルタなら、数時間もあれば着く。少し休もうよ」
魅力的な提案だった。思考を停止するための。
ゆっくりと荷物を拾い上げ、黒曜から戦斧を受け取る。もちろん、オーガに振り下ろすためじゃない。山を下りるためだ。
「タンジェリン」
オーガに呼ばれて、タンジェはのろのろと振り返った。
「元気な姿を、見られてよかった。どうか幸せに」
「……」
このオーガは。
タンジェの叔父を名乗るこのオーガは。きっと本当に、タンジェの身を案じているだけだ。
悲願のヒトの姿の子。何より、弟の子だから。
――そういえば、俺の産みの親はどうしたのだろう?
聞く気力も、勇気もなく、タンジェは叔父に背を向けた。
エセンシア 5
鼓動が早くなり、息が浅くなる。動揺に震え、意味もなく腕を振り回そうとするたびに、鎖がやかましい音を立てる。
「……デタラメだ!!」
タンジェは洞窟に響き渡る大声で怒鳴りつけた。
「俺の復讐の手から逃れようと適当なことを言ってやがるんだ、そうなんだろ!」
オーガに、あるいはラヒズに同意を求めているようで、でも、そうではなかった。タンジェはそう叫ぶことで、自分のことを必死に鼓舞している。
「やることが増えただけだ! オーガとまとめて、わけのわからねえ悪魔もぶっ殺す!!」
――そうだ。それでいい。シンプルに考えろ、とタンジェは思った。
――こいつらが言ってることは全部デタラメで大嘘だ。やることはオーガへの復讐。それからラヒズもぶっ殺す!!
戦闘のためにはまずは鎖をどうにかすることだ。手足を拘束する鎖は、地面に深く埋まった鉄製の杭に繋がっている。鎖がぶち破れなくても、あの杭が抜けたなら、あるいは。タンジェがそう目算をつけているのをよそに、
「まあ、信じないと思いましたよ」
ラヒズはひょいと肩を竦めた。それから立ち上がり、地面を二度、つま先で叩く。
瞬間、つま先から迸った闇色の光が走り線を描く。それは瞬く間に文字と模様を作り出し、たちまち地面に魔法陣が敷かれた。数歩退いたラヒズの前で、光が収束する。
光が弾けて霧散したら、魔法陣の上に黒曜たちが転がっていた。
「黒曜! アノニム、パーシィ、緑玉、サナギ!」
タンジェと同じく鎖に繋がれている。こちらは鎖の先が杭などにあるわけではなく、5人がまとめて縛り付けられ、拘束されている形だ。5人はタンジェの声に反応しこちらを見た。全員、意識はあるが、タンジェに比べれば怪我が目立つ。
「タンジェリン」
黒曜が普段と大して変わらない声色で言った。
「無事だったか」
「俺は何ともねえ! ……ラヒズ、てめぇ……!」
ラヒズがタンジェをオーガ関連でおちょくる目的なら、黒曜たちにまで手を出す理由はないはずだ。タンジェはラヒズをまた睨んだ。
「鎖で繋ぐのにちょっと抵抗されたので、いくらか痛い目を見てもらっただけですよ」
ラヒズはまったく悪びれない。倒れたタンジェはともかく、戦闘技巧者のアノニムや黒曜、元天使のパーシィを含む5人を相手取ったのなら、ラヒズは相当の使い手なのだろう。だが、関係ない。殺す!
タンジェの殺意も意に介さず、ラヒズは、
「タンジェリンくんとのお話に邪魔だったので、外にいてもらったのを呼び出したわけですが……」
と、魔法陣を指し示した。サナギが、
「人体の転移なんて生半可な術じゃないんだよなあ」
ぼやくように言った。ほとんど独り言だったし、聞こえていただろうがラヒズもそれに返事はしなかった。
「彼らを拘束した鎖は悪魔による呪縛。アノニムくんでも壊せませんよ」
「チッ……」
破壊を何度も試みているのだろう、アノニムに嵌められた手枷から、僅かに血が見える。悔しいが、ミノタウロスの血を引くアノニムですら壊せないのなら、タンジェが暴れた程度で抜け出せないのは当然だ。
「パーシィくんはちょっと邪魔だったので、ついでにちょっと力に制限を加えさせてもらってますが……」
「タンジェ! こいつは悪魔だ……! 気をつけろ!」
「情報が遅ぇ! 本人から聞いたぜ!」
パーシィに言い放ったあと、地面から杭を抜くために強く鎖を引いたが、足まで拘束されているせいで体勢が悪く、力が入れづらい。杭は動きもしなかった。
ではタンジェリンくん、とラヒズが言うので、タンジェは杭と鎖からラヒズに視線を戻す。ラヒズは懐からナイフを取り出していた。
「今から彼らを殺します」
ナイフは動けない黒曜の首に添えられた。
「動けない彼らを殺すのは簡単ですね。ほら、頑張って止めてください」
ゆっくりと沈み込むナイフの刃先。黒曜は静かに目を細め、まったく動揺していない。
あの過去の悪夢をぼーっと見ていた黒曜だ。死ぬことなんて何とも思っていないかもしれない。悪夢の中で、強くなるのだと、黒曜を守るのだと、勝手に偉そうに嘯いた自分の浅い覚悟を見透かされたようで、タンジェは、カッとなった。
「くそッ!!」
ガシャリと鎖に阻まれる。枷が手足に食い込むが、ちぎれる覚悟で突進すれば、もしかしたら杭が抜けるかもしれない。黒曜たちのもとに駆けつけて、それで――ラヒズをぶっ殺す!!
「タンジェリンよ」
鎖にもがくタンジェに、オーガの声が届く。
「私はラヒズ様に義理立てせねばならん。だがお前がラヒズ様と……私を殺したいのなら……」
呟くように、先を言った。
「……オーガの力を使えば、あるいは」
「……、はッ!」
タンジェは忌々しく口を歪め、
「オーガの力? そんなもんが俺にあるわけねえだろ!」
吐き捨てる。
「だがよ……、火事場の馬鹿力なら、今が使い時だッ!!」
自分を奮い立たせるように叫んだ。阻む枷なんか関係ない。
現状すべてに対する怒りや苛立ちが煮え立って、激情がぐるぐると形になる。その燃え滾る塊に手を伸ばすような感覚。それを掴んだ感触。巡る灼熱の血が身を焼く。
ぶちぶちと繊維が切れる音がして、たちまちタンジェの身体が膨張した。見る間に服を破く。何倍も太くなった両腕を払えば簡単に鎖は千切れ飛び、2歩も歩けばもう、ラヒズはタンジェの間合いだった。
「死にやがれ!!」
思い切り腕を振り被り、ラヒズに向かって叩きつける。ラヒズは大きく身を避けたが、タンジェの拳が叩きつけられた地面が爆ぜて小石を撒き散らしたのが当たって、僅かに目を細めた。
「やればできるじゃないですか」
ラヒズは、満足そうに言った。
「それでは、きみの正体が分かったところで……本当の肉親との再会、楽しんでくださいね」
ラヒズに当てようと横薙ぎにした手刀は空を切った。闇色のモヤに包まれたラヒズは煙のように掻き消える。それと同時に、悪魔による呪縛とやらもなくなったのか、黒曜たちも解放された。
行き場を失った自身の手の先を見れば、ごつごつした緑の肌だ。丸太のような腕と足。地面は遥か遠く、洞窟の天井が近い。いやに感覚は鮮明で、黒曜たちの息遣いが聞こえるほどだった。
ゆっくりと拳を握り、タンジェはそれを、洞窟の壁に、強く、強く叩きつけた。
「――くそッ!!」
ぶつかった大きな拳は洞窟全体を揺らすようだ。人間ではありえない色、大きさ、頑強な、拳。
タンジェは次いで額を壁に打ち付けた。何度も、何度も。しかし割れるのは額ではなく岩壁のほうだった。頭の大きなツノがゴツリと岩壁に当たる感触。
「……ッ、ちくしょうッ……!!」
タンジェリン・タンゴは、オーガだった。
この姿を見て、タンジェのことを人間だと言えるやつなんか、誰もいない。タンジェ自身ですらも。
エセンシア 4
一拍遅れて、言葉の内容を吞み込んだタンジェが、
「悪魔? ……てめぇが?」
「ベルベルントに悪夢の邪法を放った悪魔と言えば心当たりがありますか?」
「……!」
「サナギくんの術式を盗んで、私が手を加えて邪法に仕立て上げたのですが……パーシィくんには困ったものですねえ。堕天してもまだ勘がいい」
確かにパーシィは言っていた、あれは悪魔がサナギの術式を改変した邪法だと。つまりそれが本当だった、ということだ。
ラヒズは肩を竦めた。
「きみの『本当の両親の夢』ですよ、あれは。あの夢をきっかけに、きみの『血』がきみに本当の姿を思い出させはしないか……そう考えたんです」
「いつまで俺がオーガだとかいう、わけのわからねえ前提の話を続けんだよ……!」
「いつまで、ですか? きみの疑問すべてに回答するまでは続けますよ。さて、私は、きみが自分の本当の姿を思い出したなら、すぐにでもオーガに会いに来ると思ったんです。しかし全然思い出す気配がないので、もう実力行使で連れてくることにしました」
「ラヒズ様」
オーガが話に割り込む。
「彼を傷付けるのは本意じゃない。やめましょう」
ラヒズだけでなく、こっちのオーガの言い分も、タンジェからすれば意味が分からず気味が悪い。ラヒズとグルなのだとは思うが、拘束されているタンジェのことは襲わないのだ。
ラヒズは、いえいえ、と言った。
「これは私の好意なので、せっかくですから受け取ってください」
オーガは渋い顔をしたように見えた。ラヒズの笑顔は相変わらず柔和で、一見して到底、悪魔には見えない。その表情のままラヒズは「彼らオーガはね、タンジェリンくん」とタンジェに話を振った。
「たまたまこの地に封印されていた私を解放してくれたのですよ」
「封印……」
ペケニヨ村の付近に悪魔が封印されていたなんてのは初耳だ。だが、子供のタンジェに知らされることではないのかもしれない。悪魔ならそういうこともあるだろう。封印されるからにはやはりろくな悪魔ではないのだ。
「解放のお礼に何でも願いを一つ叶えると約束したんです。さっきも言いましたね。彼らのお願いが知りたいですか?」
それが現状に結び付くなら、知りたい。だが、タンジェはラヒズを睨んだまま、肯定も否定もしなかった。
――肯定と受け取ったのだろう。にっこり笑ったラヒズが言った。
「『我らが悲願、ヒトの姿で産まれたオーガであるタンジェリン……彼の無事と健康が知りたい』」
タンジェの乾いた喉から、かすかに、なんのことだ、と、掠れた声が漏れた。ラヒズは応じず、話を続ける。
「だからきみを探したのですよ。きみの名前や特徴も、ベルベルントに行ったという噂も聞いていましたし。思いのほかすぐに見つけることができたのは、運がよかったですね」
タンジェの額から汗が落ちる。言葉を失ったタンジェに、オーガが向いた。
「……何のことか分からんだろう。私が話そう……タンジェリン」
ほとんど呆然としたまま、タンジェはゆっくりとオーガに視線を移す。
「遥か昔のことだ……我々の先祖が、エサであったはずの人間の女を愛し、その子を欲しがった。……異種族の交わりだ。容易なことではない。だがその先祖の悲願は大きく、何百年もの間、我が一族に口伝で『ヒトの子が産まれれば幸い』だと……伝えられてきた」
焚き火の薪がぱちりと弾ける。
「――17年前のことだ。オーガの腹から、ヒトの子が、産まれた。先祖がかつてたった一度だけ交わり血が混ざったヒトの、その特徴を引き継いだ子……。お前のことだ、タンジェリン」
タンジェの、炎のようなタンジェリンレッドの瞳が見開かれて、たちまち、歪む。
「だがオーガの中でヒトの姿のお前が生きていくことは難しい……。ペケニヨ村にお前を託すことにした。村の若い夫婦がお前を拾うのも物陰で見届けた」
オーガの言葉は、まるで真実を述べているようだ。だが、それでもタンジェはそれを受け入れはしなかった。受け入れられるわけがなかった。そんなはずはない、そんなはずは……! タンジェはほとんど叫んだ。
「だ、だったらなんでペケニヨ村を襲った!? 筋が通らねえじゃねえか!! ペケニヨ村に俺を託したんなら」
ごくりと唾を飲み込み、
「た、託したんなら、村を襲う必要はねぇだろうがよ……!」
「本来ならそのはずだった。ペケニヨ村に手を出す気はまったくなかった。だが……ある日、我々オーガの集落を、冒険者パーティが襲った」
オーガは一瞬、まるで話すことを悩んだかのような素振りをした。やがて口を開いたが、ずいぶん苦々しい様子で、
「……お前を育てた夫婦が、恐れたのだ。我々が、育ったお前を取り返しに来るのではないかと……」
「親父と……おふくろが……?」
「何匹ものオーガが殺された。集落の若い者は怒り狂い、ペケニヨ村を襲い返した。仲間を殺された復讐に」
「お……俺を守るため……に、親父とおふくろが……冒険者に依頼を……そ、それじゃあ……村が襲われたのは……」
――俺がいたから?
エセンシア 3
タンジェの心臓が燃え上がるように熱くなる。全身に血が巡る。その巨躯を目に入れただけで、タンジェの復讐心は暴れ出す。
オーガに飛びかかろうとした。だが鎖に阻まれ、ガシャリと金属質な音を立てただけだ。鎖はまったくびくともしない。
タンジェはラヒズを睨み、叫んだ。
「てめぇ!! 俺をおちょくってるんだな!?」
状況からタンジェの短絡的な思考回路が導き出したのは、ラヒズがのタンジェの復讐の件を知って面白がり、タンジェに嫌がらせをしているという可能性だった。
「この鎖は何だ!? 今すぐ外しやがれ!!」
「活きがいいですねぇ」
満足そうにうんうん頷くラヒズは、タンジェの横のオーガに視線を移し、
「どうですか、念願のタンジェリンくんとの再会は」
と話しかけた。
「念願? 再会? 何を言ってやが――」
「……ラヒズ様」
と、横のオーガが声を発した。確かにそれは声、いや、正確には言葉、だった。タンジェは驚愕で言葉を止め、オーガを凝視する。それでそのオーガはタンジェのことをちらと見たが、すぐ視線をラヒズに戻した。
オーガが言葉を話すなんて聞いたことがない! これではまるきり、先日見た悪夢だ。オーガが言葉を話すなんてのは、悪夢だったから許されていたことだ。
だがタンジェの思考なんてまるで関係なく、オーガは平然とラヒズと言葉を交わしている。
「我々は再会までは望んでおりませんでしたよね? 無事と健康が分かればそれでいいとお話ししたはず」
明瞭な発音で、確実に理性ある言葉だった。ただ、言葉の意味は分からなかったが……。
「でも、会えて嬉しいでしょう?」
オーガはため息をついた。状況の把握ができていないタンジェだけが、ラヒズとオーガの顔を見比べながら困惑するばかりだ。
「何なんだよ……!? なんでオーガが共通語を喋ってる!?」
「タンジェリンくん」
ラヒズは幼い子供に言い聞かせるように優しい声色で言った。
「きみが倒れたのは、ストリャ村の周囲に張られた結界のせいですよ」
「結界? なんでそんなもんがストリャ村に?」
「『オーガ除けの結界』です」
「なんでそんなもんが、俺が倒れたのと関係があるんだよッ!?」
前提としてですね、とラヒズは言った。
「ペケニヨ村を襲ったあとのオーガたちは、少し南下してストリャ村の近辺に住処を移しました。ペケニヨ村の二の舞になってはいけないと、ストリャ村はオーガ除けの結界を張るよう魔術師に頼みました。その魔術師というのは、私です。乞われるまま結界を張りました。きみはそれに引っかかった」
「だからッ……大事なところが説明できてねえだろうが! なんで『オーガ除け』に俺が引っかかるんだよ。人間が引っかかったら欠陥もいいとこじゃねえか!」
タンジェは自分の疑問は正当だと思っている。ラヒズはなんてことはないように答えた。
「きみがオーガだからですよ」
一瞬の沈黙、それからタンジェは、
「はッ、苦し紛れにわけの分からねえことを言ってるんじゃねえよ」
吐き捨てた。なるほどラヒズからすれば、"タンジェがオーガだからオーガ除けの結界にも引っかかる"ということで、理屈は通るのだろう。
だがタンジェは人間である。どれだけラヒズが自身の理屈を通そうとしたって、根本のそこが破綻しているのだから意味がない。ラヒズの言葉はふざけた冗談でしかなかった。
しかしながらラヒズはいっさい動じた様子はなく、
「そこのオーガが何故共通語を話しているのかと聞きましたね」
と、丁寧にタンジェの質問に答えた。
「オーガが共通語を話しているのではない。きみが、オーガの言葉を理解しているのですよ」
「ふざけんじゃねえッ!」
いよいよラヒズに殴りかかろうとして、しかしやはり鎖に阻まれる。鎖はガシャン! と大きな音を立てたが、それよりさらに大きな声でタンジェは怒鳴り散らした。
「俺の両親は人間だし、俺だって人間だ。オーガは俺にとって仇だ! 悪趣味な冗談、言ってんじゃねえぞ!! ……俺に適当な嘘を吹き込んで、てめぇになんのメリットがある!?」
「メリットですか?」
メリットはないですね、とラヒズはさらりと言った。続けて、
「これは、ただの『約束』なので」
「約束……?」
「オーガたちと約束したのですよ。オーガたちの願いを一つ叶えるとね」
「?」
今度は何を言い出したのか。眉を思いきり寄せたタンジェの顔を見て、ラヒズはにこと笑った。
「私は悪魔です」