きっと失われぬもの 2
エスパルタの中央通りでは、聖誕祭の間、特別なマーケットが開かれていて、飲食物や土産物などが並んでいる。この時期にしか食べられないようなものもあって、観光に来た人々はみんな思い思いに飲み食いして、思い出にしていく。
タンジェは、聖誕祭に訪れた過去の自分が両親に何を買ってもらったか思い出そうとした。10年近く前の記憶だが、あまり物欲のない子供だった自覚がある。たぶん土産物や工芸品ではないだろう。食べ物だったのではないか……。
マーケットを眺めて歩いているとアーモンドの香ばしい香りがして、それでハッと思い出した。トゥロンである。ローストしたアーモンドやはちみつでできた菓子だ。昔のタンジェが両親に買ってもらって食べたのはこれに違いない。
思わず一袋買ってしまった。
マーケットでは食べ歩きしている者も多い。タンジェもトゥロンを食べながらマーケットを歩いた。そこまで甘いものを好んではいないが、なんとなく特別な菓子という気がして、美味く感じる。我ながら単純だ。
人混みの流れに逆らわず進んでいくと、聖ミゼリカ教会に行き当たる。
普通に開放されているようだったので入り口を何気なく見ると、パーシィがいた。小さな子供が親に手を引かれて立ち去るのを、笑顔で見送っている。
「何してんだ」
「やあタンジェ。なんだい、それ? 美味しそうだな」
あいさつもそこそこにトゥロンに食いつくパーシィ。仕方ないから一本くれてやった。
礼を言ってさっそく頬張りポリポリとアーモンドの食感を楽しんでいるパーシィに、
「こんなとこで何してんだ」
再度尋ねる。
「聖ミゼリカ教会前でこんなところとはよく言えたな」
言葉のわりにまったく気にした様子もなく、パーシィはからからと笑った。
「たまたま通りがかりに、転んで膝を擦りむいたという女の子がいてね。治療したのさ」
「そうかよ……」
余計なこととは分かりつつも、タンジェは続けて言った。
「ガキなんざ、怪我しながら生活するもんだろ。余計な世話じゃねえのか」
「そうだなあ、これから先、生きていくうえで負う全部の怪我に癒やしの奇跡を使っていくのは無理だしな」
あっさり頷いたパーシィは、トゥロンを飲み込んでパンパンと両手を軽く叩き、トゥロンにまぶされていた砂糖を落とした。
「でも、親御さんは安心していたよ。女の子も笑顔になった」
それでいいじゃないか、と。
「てめぇ……たまにちゃんと、天使っぽくなるよな。本当に天使なのかは知らねえけどよ」
「ま、まだ疑ってるのかい!? 失礼だな! ラヒズにもちゃんと警戒されていたろ!?」
それを根拠にするのはどうなんだとタンジェが呆れる。それからパーシィは急に真面目な顔になった。
「ラヒズといえば……天使もそうだが、悪魔には『格』があってね。あいつはかなり格が高そうだ」
「強いってことか?」
「そうなる。そして、悪魔としての才が高い」
「悪魔としての、才?」
復唱すると、パーシィは少し考えたあと、
「要するに、『悪魔っぽいことが上手い』ってことさ」
タンジェが経験した一連の出来事は、タンジェにとってはまるで地獄のようなものだった。悪魔や地獄なんてのは教科書の中の話だと思っていたが、確かに実在する悪魔に見せられた地獄……。怒りが先に来るかと思ったが、我ながら意外なことに、まずタンジェはげんなりした。
そんなタンジェの顔を見るにつけ、パーシィは、
「だからな、タンジェ。アドバイスをしておくけど……『悪魔の言葉は信じるな』」
「あ?」
タンジェは眉を寄せた。
「てめぇも見ただろ? ラヒズの言ってることに嘘はねえ。俺は……、……オーガだったじゃねえか」
言葉に少し詰まったが、最終的には自分で自分の姿を認めた。タンジェにとってはかなり覚悟のいる発言だったが、パーシィはまったく頓着せず、
「悪魔が嘘をついているってことじゃない。俺が言いたいのは、悪魔の思惑通りに動いては駄目だってことさ」
そう言った。
「ラヒズの思惑……何だよ? それって」
「悪魔が何を考えているかなんて知ったこっちゃないよ」
そっちから話を始めたくせに、最終的にはこれだ。だが、まずもって悪魔と天使なんてのは不仲なものだろう。タンジェはよく知らないまま、ほとんど確信をもってそう結論付けた。パーシィは続ける。
「ただ、意図的にきみの元気を無くそうとしてたのは分かる。あいつ、たぶん人を追い詰めるのが好きなんだよな。悪魔らしいよ」
それは……つまり。
「俺に、元気を出せってことか?」
パーシィはにっこり笑った。
きっと失われぬもの 1
カーテンから射し込む光はまだ弱いが、タンジェの目を覚ますのには充分だった。
冬のエスパルタ。昔、家族と聖誕祭のマーケットに来たことが思い出される。
エスパルタの聖誕祭は、ベルベルントのそれよりも期間が長い。12月の後半から年明けの1週間くらいまでは聖誕祭だ。
カーテンを開けて窓の外を見ると、通りにはガーランドがかかって、浮かれた人々が往来している。
ここはエスパルタの『情熱の靴音亭』という名の宿だ。
悪魔ラヒズに騙されストリャ村行きのニセ依頼を受けた黒曜一行は、そこでまあ――散々な目に遭って、ストリャ村行きの必要もなくし、エスパルタへとやってきた。
エスパルタは何事もなく、聖誕祭で賑わっている。
昨晩、急な来店にも関わらず6人分の宿が取れたのは幸運だった。薄暗い通りの小さな宿で、部屋も屋根裏や倉庫みたいだったが、心身を休めるのには充分すぎる。
タンジェは……昨日はもう余計なことを考えたくなくて、仲間との会話もせず、さっさと湯を浴びて寝た。自覚するよりずっと疲れていたらしく、悪い夢も見ずよく眠れた。おかげで今はそう悪い気分ではない。
ベッドの上で伸びをしているとノックの音がした。
「タンジェリン、起きているか」
黒曜の声だ。わざわざ起こしに来てくれた、ということは寝過ごしたのだろう。
「ああ……起きてる」
「朝食を注文するから来い」
そうか、分かった、と答えた。すぐにベッドから降りて手早く身支度を調え、タンジェは軋む狭い階段を降りて階下に向かった。
昨日の夜、この宿に辿りついたときは、本当にひっそりとした宿という印象だったのだが……朝になってみると、表情ががらりと変わっている。がやがやとざわつく情熱の靴音亭。ほとんどが食事をとりにきた客らしい。
「ほら、どいたどいた! お待ちどおっ、牛肉のトマト煮だよっ!」
「おい姉ちゃん、こっちにも同じもの一つ!」
「空いてる席はどこだぁ?」
「3名ご来店ですー!」
星数えの夜会では信じられないくらいの盛況ぶりだ。宿泊した部屋の狭さから考えても、おそらく情熱の靴音亭のメインは宿ではなく食堂なのだ。宿泊客より食事をとりに来るだけの客が多いということだろう。これだけ繁盛しているなら、味には期待できそうだ。
「おーい、こっちこっち!」
パーシィがタンジェのことを呼びながらぶんぶん手を振っている。小さなスペースに大きな身体の黒曜、緑玉、アノニムがぎゅうぎゅうに詰まっていた。
「おお……すげえ窮屈そうだが……座るスペースあんのかよ?」
「座っちゃっておくれ! 突っ立ってられると邪魔だよ!」
ウェイトレス姿のでかい女に言われて、ほぼ押し出されるようにしてタンジェは今にも潰れそうな椅子に腰かけた。どこに足を置くんだって幅だ。
テーブルにつくとたちまち腹が減ってきた。そういえば、昨晩は食事をする気も起きず、夕飯を抜いて寝たのだ。
「ほら、好きなものを頼みなよ!」
パーシィが出してきたメニュー表を見ると、エスパルタ風オムレツがある。ジャガイモやベーコンが入ったボリュームたっぷりのオムレツだ。タンジェはこれが大好物であった。卵だけで作られたオムレツも悪くはないのだが、エスパルタに来たからにはこれを食べなくては! タンジェは迷わずそれに決めた。
「サナギは?」
もう一脚、椅子があいているので尋ねると「まだ寝てるよ!」とパーシィが周囲の喧噪に負けないデカい声で答えた。寝坊したタンジェより遅いのはサナギらしい。
「注文頼むよ!」
忙しないウェイトレスに声をかけるパーシィ。「はーい」と慌ただしさに場違いなのんびりした声が聞こえて、さっきのでかい女とは別の三つ編みの女が注文を取りに来た。複数のウェイトレスを雇えるほどの経営の余裕……夜会の娘さんが聞いたら羨ましがりそうだ。
パーシィが料理を注文すると、のんびりした様子とは裏腹に素早くメモを取り、三つ編みのウェイトレスは厨房に去っていった。
「昨日はよく眠れたか」
隣の黒曜がタンジェに尋ねてくる。
「あ? ああ……」
タンジェは昨日の寝る前の自分の様子を思い返した。心配をかけても無理はないな、と思う。上の空だったし、食事もとらなかった。
「大丈夫だ。よく寝た」
「そうか」
黒曜は頷いた。タンジェの逆隣で、げんなりした顔の緑玉が弱々しく呟く。
「ねえ……いつベルベルントに戻るの。あんまり長居したくないんだけど」
人間嫌いの緑玉にはこの混雑はきついのだろう。黒曜はタンジェのことを横目で見た。
「……タンジェリン次第だな」
「あ? ……俺か? なんでだよ?」
タンジェはテーブルに頬杖をついて尋ねた。こういうとき決定権を持っているのは黒曜だし、意見を言うのはだいたいサナギの仕事だ。まあサナギは今はいないが。
「ここに残って復讐をするなら、もう少し長居が必要だろう」
黒曜のその言葉に、タンジェは、
「……昨日は俺に殺すなって言ったじゃねえか」
思いのほか動揺しなかったが、少し不服じみた言い方になった。
ああ、と黒曜は平気で頷く。
「だが、あの場のお前は冷静な判断をしていない。一晩経って気が変わるということもある」
「まあ……あるかもしれねえが」
「お前が復讐を強く希望するなら、今度は止めない」
沈黙が降りる。
あのときのタンジェは冷静な判断をしていない――正しい、とタンジェは思う。確かに、まだタンジェには考える余地があるのかもしれない。復讐のことを。
「……今日一日、考えさせてくれねえか。昨日の出来事全部、まだ……整理がついてねえ」
問題を先延ばしにするのは情けないと思うが、すぐに復讐をやめるとか、オーガだからどうとか、そういうことを考えられる状態にない。
ただ、少なくとも「オーガだからタンジェをパーティから外す」という考えは、どうやら黒曜たちにはなさそうだ。それはとてもありがたかった。そうでなければ、タンジェの精神はもっと追い詰められていただろう。今なら時間をかけて向き合うこともできるはずだ。
黒曜は頷いた。
「分かった。緑玉、今日は耐えろ」
緑玉はひどく苦い顔をした。
ようやくサナギが起きてくる頃には、タンジェたちは飯を食べ終えていたし、情熱の靴音亭にいた人々もほとんどが退店していた。
ボサボサの髪を手櫛でとかしながら階下に降りてきたサナギは、「早いね、みんな」とのんきなことを言った。彼は日頃から夜遅く朝も遅い。
「わあおいしそう」
テーブルに残しておいた少量のチキンのトマト煮とパンを見てにこにこ笑う。
「ありがとう。これを俺のために残してくれたのは誰の采配?」
一同が緑玉を見ると、緑玉はそっぽを向いた。
「緑玉はいつも俺のこと考えてくれるね、ありがとうね」
サナギはまるで子供に言うみたいに礼を重ねたが、タンジェはそれを聞いてもぜんぜんピンとこなかった。緑玉とサナギの間に何か繋がりがあると感じたことは一度もない。とうの緑玉は「べつに」とか言っているので、彼のほうにも特別な意図があったとは思えなかった。もっとも、タンジェにとって緑玉は、共通の話題もないので会話もない、特に親しくもない存在ではある。緑玉の考えていることがいまいち図り切れないのは当然だろう。
「今日はどうするか決めた?」
席についてパンをちぎりながらサナギが尋ねる。黒曜は「今日一日はエスパルタで過ごす」と端的に答えた。
「自由行動?」
「そうなる。宿はもう一泊分、すでにとった」
「やったね!」
サナギはぴょんと小さく椅子から尻を浮かして喜んだ。
「やっぱり外国に来たら観光しなくちゃね」
昨日、悪魔に騙されて、場合によっては死ぬ可能性だってあったというのにのんきなものである。サナギはあまり悪いことを引きずらない、ポジティブなやつなのだ。
それからは何気ない雑談――たとえばエスパルタの名物や名所などについて――をして、つつがなく食事を終えた。一同は解散し、各々一日を自由に過ごすことになった。
エセンシア 7
幸い、全員、怪我は深くはなかった。すぐにパーシィの癒しの奇跡で治療できる範囲だ。だが、一番深いであろうタンジェのメンタルの傷は、聖ミゼリカ教の奇跡を以てしても治療は叶わない。
足取りは重い。しかし慣れた山中を、タンジェの無意識は迷わず歩いてくれる。
サナギとパーシィはラヒズの行き先について考察し言葉を交わしていた。元来無口な黒曜と緑玉とアノニムは、いつも通り静かに、山道を歩くことだけに専念している。
さっきの一連の出来事を気にしてるのは、タンジェだけなのだろう。
でも、当たり前だろ、とタンジェは思う。自分が復讐相手と同じ種族で、復讐の始まりがそもそもタンジェ自身のせいだなんて、気にしないほうがどうかしている。気にしているのは、きっとタンジェがヒトと化け物の狭間にいて、それでも本質はヒトだからだと思いたい。
タンジェはオーガを憎んでいる。タンジェが愛したもの、愛されたもの、すべてを壊された。
この機会に、あのオーガどもと決着を付ける。そのつもりだった。
なのに、今は分からなくなってしまった。
オーガと化して、あの熱い鼓動を動力にしたとき、タンジェの復讐という燃え上がる情熱まで、まとめてくべてしまったのかもしれなかった。
――それが灰になってしまったのなら、俺はこの先、何を動力にして動けばいい?
エセンシア 6
時間が経ち、興奮が収まるにつれ、タンジェの身体はゆっくりと解けるようにヒトのそれへと戻っていった。
痛みや後遺症らしきものはない。手も足も動く。頭も感情も、正常にめちゃくちゃだ。
洞窟の外、入り口の側には、ラヒズが移動させてきたらしいタンジェたちの荷物があったようだ。入り口側にいた黒曜たちはすぐにそれに気づき、各々荷物を回収した。その中から黒曜がタンジェの着替えを持ってきて、タンジェに差し出す。オーガに化したときにタンジェの服は破れ、弾け飛んでいたからだ。
タンジェは緩慢な動作で着替えた。
疲れたわけではない。ただ、気分が最悪だった。
ほとんど投げやりに、それでも着替えを終えたタンジェの襟を、前に立った黒曜が直した。それでタンジェは、唐突に、母が同じように襟を整えてくれたことを思い出した。
タンジェは襟を直して下ろされかけていた黒曜の腕を掴む。
「俺がオーガの子だと知っていても親父とおふくろは俺を愛した。その愛に嘘はなかったはずだよな!? そうだろ!?」
黒曜は肯定も否定もしなかった。ただ、
「お前がその愛を信じるなら」
タンジェの顔が歪んだ。でも、泣きはしない。悲しくはないからだ。
タンジェは震える指を意識して動かして、ようやく黒曜の腕から、掴んだ手を引き剥がした。
ゆっくりと、洞窟の奥を向く。すべてを見届けていたオーガが、まだそこにいる。逃げる様子も、抵抗する様子もなく、ただ、タンジェのことを見返した。タンジェの愛用の戦斧は荷物と共に放置されていて、その柄を掴んだタンジェは戦斧を引きずるようにして大股にオーガの前へ歩み寄る。
「やっと……てめぇの番だな」
自分がオーガだとて、タンジェのやりたいことは、やるべきことは、変わらない。
「俺の誕生が悲願だったって? そいつはよかったな! 俺の悲願はな、てめぇらをぶっ殺すことだッ!!」
戦斧を大きく振りかぶった。振り下ろす。
振り下ろせなかった。
タンジェの気持ちがそうさせたわけではない。黒曜がタンジェの振りかぶった腕を掴んでいたからだ。
静まり返った洞窟で、黒曜の抑揚のない声が、タンジェに言う。
「いくら戦闘訓練を積んだとて、お前の斧の本質は――木を切り、人を活かすためのものだ」
力を込めて、ゆっくりとタンジェの斧を下ろさせた。
「殺してほしくない」
――そんなことを、今言うなよ。
タンジェの手は、別に、きれいではない。獣、妖魔、人に害あるものなら殺してきた。
これは、タンジェの復讐だ。ペケニヨ村がオーガどもに蹂躙されたあの日、生き残ったタンジェの命は、復讐のためにあったはずだ。
――それを、オーガ1匹見逃したことで、まるで俺が救われるみたいに言うなよ。
「タンジェリン。このオーガの頭を割ったら、お前は、それで終わってしまう」
タンジェは顔を上げた。黒曜の石の瞳が見下ろしている。
「終わらないでほしい」
悪夢の中で黒曜の過去を見たから、タンジェは、分かってしまった。タンジェには終わらない道があることを。つまりそれは、"黒曜とは違って"。それを黒曜が望んでいるのであろうことも。
「……」
戦斧を手放す。黒曜がそれをゆっくりと受け取った。
この戦斧がオーガに振り下ろされることは、もう、ない。
タンジェはゆっくりと、力ない視線をオーガに移した。
「……一つ聞きたい」
「……なんだ」
「てめぇは俺の……。……親なのか?」
勇気の要る、質問だった。
「違う」
オーガはほとんど即答で否定し、それから、
「私はきみの親の……兄だ。叔父ということになる」
「叔父」
反吐が出る。
このオーガが本当の家族であろうが、そんなことは関係ない。オーガの群れがタンジェの愛したものを奪った事実は変わらない。だから何も考えず、タンジェは、オーガを恨み続ければよかった。けれどタンジェはとうとう、黒曜から戦斧を奪い返してまで、このオーガの頭を割ることは、できなかった。
そうしているうちに、焚き火が燃え尽きた。
「いったん戻ろうか」
サナギが言った。
「エスパルタなら、数時間もあれば着く。少し休もうよ」
魅力的な提案だった。思考を停止するための。
ゆっくりと荷物を拾い上げ、黒曜から戦斧を受け取る。もちろん、オーガに振り下ろすためじゃない。山を下りるためだ。
「タンジェリン」
オーガに呼ばれて、タンジェはのろのろと振り返った。
「元気な姿を、見られてよかった。どうか幸せに」
「……」
このオーガは。
タンジェの叔父を名乗るこのオーガは。きっと本当に、タンジェの身を案じているだけだ。
悲願のヒトの姿の子。何より、弟の子だから。
――そういえば、俺の産みの親はどうしたのだろう?
聞く気力も、勇気もなく、タンジェは叔父に背を向けた。
エセンシア 5
鼓動が早くなり、息が浅くなる。動揺に震え、意味もなく腕を振り回そうとするたびに、鎖がやかましい音を立てる。
「……デタラメだ!!」
タンジェは洞窟に響き渡る大声で怒鳴りつけた。
「俺の復讐の手から逃れようと適当なことを言ってやがるんだ、そうなんだろ!」
オーガに、あるいはラヒズに同意を求めているようで、でも、そうではなかった。タンジェはそう叫ぶことで、自分のことを必死に鼓舞している。
「やることが増えただけだ! オーガとまとめて、わけのわからねえ悪魔もぶっ殺す!!」
――そうだ。それでいい。シンプルに考えろ、とタンジェは思った。
――こいつらが言ってることは全部デタラメで大嘘だ。やることはオーガへの復讐。それからラヒズもぶっ殺す!!
戦闘のためにはまずは鎖をどうにかすることだ。手足を拘束する鎖は、地面に深く埋まった鉄製の杭に繋がっている。鎖がぶち破れなくても、あの杭が抜けたなら、あるいは。タンジェがそう目算をつけているのをよそに、
「まあ、信じないと思いましたよ」
ラヒズはひょいと肩を竦めた。それから立ち上がり、地面を二度、つま先で叩く。
瞬間、つま先から迸った闇色の光が走り線を描く。それは瞬く間に文字と模様を作り出し、たちまち地面に魔法陣が敷かれた。数歩退いたラヒズの前で、光が収束する。
光が弾けて霧散したら、魔法陣の上に黒曜たちが転がっていた。
「黒曜! アノニム、パーシィ、緑玉、サナギ!」
タンジェと同じく鎖に繋がれている。こちらは鎖の先が杭などにあるわけではなく、5人がまとめて縛り付けられ、拘束されている形だ。5人はタンジェの声に反応しこちらを見た。全員、意識はあるが、タンジェに比べれば怪我が目立つ。
「タンジェリン」
黒曜が普段と大して変わらない声色で言った。
「無事だったか」
「俺は何ともねえ! ……ラヒズ、てめぇ……!」
ラヒズがタンジェをオーガ関連でおちょくる目的なら、黒曜たちにまで手を出す理由はないはずだ。タンジェはラヒズをまた睨んだ。
「鎖で繋ぐのにちょっと抵抗されたので、いくらか痛い目を見てもらっただけですよ」
ラヒズはまったく悪びれない。倒れたタンジェはともかく、戦闘技巧者のアノニムや黒曜、元天使のパーシィを含む5人を相手取ったのなら、ラヒズは相当の使い手なのだろう。だが、関係ない。殺す!
タンジェの殺意も意に介さず、ラヒズは、
「タンジェリンくんとのお話に邪魔だったので、外にいてもらったのを呼び出したわけですが……」
と、魔法陣を指し示した。サナギが、
「人体の転移なんて生半可な術じゃないんだよなあ」
ぼやくように言った。ほとんど独り言だったし、聞こえていただろうがラヒズもそれに返事はしなかった。
「彼らを拘束した鎖は悪魔による呪縛。アノニムくんでも壊せませんよ」
「チッ……」
破壊を何度も試みているのだろう、アノニムに嵌められた手枷から、僅かに血が見える。悔しいが、ミノタウロスの血を引くアノニムですら壊せないのなら、タンジェが暴れた程度で抜け出せないのは当然だ。
「パーシィくんはちょっと邪魔だったので、ついでにちょっと力に制限を加えさせてもらってますが……」
「タンジェ! こいつは悪魔だ……! 気をつけろ!」
「情報が遅ぇ! 本人から聞いたぜ!」
パーシィに言い放ったあと、地面から杭を抜くために強く鎖を引いたが、足まで拘束されているせいで体勢が悪く、力が入れづらい。杭は動きもしなかった。
ではタンジェリンくん、とラヒズが言うので、タンジェは杭と鎖からラヒズに視線を戻す。ラヒズは懐からナイフを取り出していた。
「今から彼らを殺します」
ナイフは動けない黒曜の首に添えられた。
「動けない彼らを殺すのは簡単ですね。ほら、頑張って止めてください」
ゆっくりと沈み込むナイフの刃先。黒曜は静かに目を細め、まったく動揺していない。
あの過去の悪夢をぼーっと見ていた黒曜だ。死ぬことなんて何とも思っていないかもしれない。悪夢の中で、強くなるのだと、黒曜を守るのだと、勝手に偉そうに嘯いた自分の浅い覚悟を見透かされたようで、タンジェは、カッとなった。
「くそッ!!」
ガシャリと鎖に阻まれる。枷が手足に食い込むが、ちぎれる覚悟で突進すれば、もしかしたら杭が抜けるかもしれない。黒曜たちのもとに駆けつけて、それで――ラヒズをぶっ殺す!!
「タンジェリンよ」
鎖にもがくタンジェに、オーガの声が届く。
「私はラヒズ様に義理立てせねばならん。だがお前がラヒズ様と……私を殺したいのなら……」
呟くように、先を言った。
「……オーガの力を使えば、あるいは」
「……、はッ!」
タンジェは忌々しく口を歪め、
「オーガの力? そんなもんが俺にあるわけねえだろ!」
吐き捨てる。
「だがよ……、火事場の馬鹿力なら、今が使い時だッ!!」
自分を奮い立たせるように叫んだ。阻む枷なんか関係ない。
現状すべてに対する怒りや苛立ちが煮え立って、激情がぐるぐると形になる。その燃え滾る塊に手を伸ばすような感覚。それを掴んだ感触。巡る灼熱の血が身を焼く。
ぶちぶちと繊維が切れる音がして、たちまちタンジェの身体が膨張した。見る間に服を破く。何倍も太くなった両腕を払えば簡単に鎖は千切れ飛び、2歩も歩けばもう、ラヒズはタンジェの間合いだった。
「死にやがれ!!」
思い切り腕を振り被り、ラヒズに向かって叩きつける。ラヒズは大きく身を避けたが、タンジェの拳が叩きつけられた地面が爆ぜて小石を撒き散らしたのが当たって、僅かに目を細めた。
「やればできるじゃないですか」
ラヒズは、満足そうに言った。
「それでは、きみの正体が分かったところで……本当の肉親との再会、楽しんでくださいね」
ラヒズに当てようと横薙ぎにした手刀は空を切った。闇色のモヤに包まれたラヒズは煙のように掻き消える。それと同時に、悪魔による呪縛とやらもなくなったのか、黒曜たちも解放された。
行き場を失った自身の手の先を見れば、ごつごつした緑の肌だ。丸太のような腕と足。地面は遥か遠く、洞窟の天井が近い。いやに感覚は鮮明で、黒曜たちの息遣いが聞こえるほどだった。
ゆっくりと拳を握り、タンジェはそれを、洞窟の壁に、強く、強く叩きつけた。
「――くそッ!!」
ぶつかった大きな拳は洞窟全体を揺らすようだ。人間ではありえない色、大きさ、頑強な、拳。
タンジェは次いで額を壁に打ち付けた。何度も、何度も。しかし割れるのは額ではなく岩壁のほうだった。頭の大きなツノがゴツリと岩壁に当たる感触。
「……ッ、ちくしょうッ……!!」
タンジェリン・タンゴは、オーガだった。
この姿を見て、タンジェのことを人間だと言えるやつなんか、誰もいない。タンジェ自身ですらも。
プロフィール
一次創作小説、
「おやすみヴェルヴェルント」
の投稿用ブログです。
※BL要素を含みます※